アイリッシュ・コーヒー
1
私こと藤堂マキナが電車を降りて駅に降り立ったとき、その胸に去来したのは「糞さみぃ!ファック!」という悲憤のお気持ちだった。急いで、ノーカラーのダブルクロストレンチのベルトを前で結んだ。他にどんな結び方があるのかよく知らないので、ちょうちょ結びにした。
今までベルトを留めることがないのでトイレの鏡で確認したが、インナーに着たボーダーのカットソーが完全に隠れてしまい、コートの下に何も着ていないように見える。これではちょっと露出狂の人みたいではないか。カットソーの襟がダルンダルンに伸びきっていることは気づいていたが、これでは流石に捨てねばなるまい、ファック!
傷んでいると言えば、この黒いスキニーパンツも後ろの右ポケットの上が破れているのだが私はコートを脱がないし、今日の下着も黒いから問題ない。問題ないのだ。
黒のパンツは最強だ。何にでも合うし、無難な感じがする。私をまともっぽく見せてくれる。
黒程でもないがベージュも強い。このベージュのトレンチコートは重宝している。セール品だが、よくあるペナペナの生地ではなく割と厚手の起毛素材なところが気に入っている。火をつけられたら死にそうなところが難点といえば難点か。『リーサル・ウェポン4』の火炎放射器男とかが出てきたら一発で火達磨にされてしまうだろう。もっともあんなのに出くわしたら何を着てても火達磨かもしれないが。それにしてもあの映画のリー・リンチェイは勿体無い。前半のキレキレのアクションが、後半ではメル・ギブソンのもっさりした動きに合わせているために全然観れないのだ。あれではカンフーの無駄遣いだ。
そんな事を考えながら歩いているとお目当ての店についた。その店は駅から降りて10分程歩いた薄暗い路地の中にあった。路地の途中にパキスタン料理の店があってそちらにも興味を惹かれたが、今日のお目当てはそちらではない。
パキスタン料理屋は見たのは初めてだが、ネパール料理は本当にどこにいってもあるなぁ、と思う。ネパールでは日本人向けにカレーを修行して渡日するというビジネスモデルが確立されていると聞いたことがあるが、カレーの学校でもあるのだろうか。
我々が食べるネパール料理はインドカレーに意図的に寄せたものである、という風聞もある。ネパール人達は心ならずも金のためにエセインドカレーを作っていて、本当のネパール料理はネパールでしか食べられないのだとしたらそれは悲しい話だと思うわけだ、私は。美味いけどな。ネパール料理屋のインドカレー。
『歴史喫茶 イツワ珈琲』と赤い字で書かれたブリキの回転式看板が店の前に出ている。手で回すと裏面には青い字で『歴史喫茶 イツワ口碑』と書いてあった。赤黄青のステンドグラスが嵌めこまれた扉の上には木札が吊るされており、そこにOpenの文字が彫られている。
真鍮のドアノブを掴んで、店に入る。
2
暖色の灯りにぼんやりと浮かぶカウンター、カウンター席しかない。全部で十席くらいだろうか。客は私以外には一人もいなかった。店主の姿は見えないが、店の奥から嗄れた声でいらっしゃいませ、と聞こえた。
赤い革が張られたハイウェストの椅子に座る。一本の金属棒に支えられて、下の方に金属環のついているタイプだ。これめっちゃ腰痛くなるやつじゃんふざけんなよ、と思ったがまあいい。
店の中を見渡す。カウンターの後ろには年季物のコーヒーミル、団栗の様な蓋がついたガラスの容器にはコーヒー豆がぎっしり入っている。カウンターの木材は何だかわからないが、中華料理店のそれみたいにはベタベタしておらず、手入れは行き届いているようだ。
暖色の灯りの正体は、ラリックのようなデザインの卓上ランプだ。キノコのランプや、ガラスの表面にバッタを彫り込んだランプなど、アール・デコであるだけでデザインは揃えていない。私の右前に置かれているのはリンドウのランプだった。
メニューを開く。黒い革製のメニュー表にはカクカクした万年筆の文字で膨大な量のお品書きが書いてある。珈琲やケーキだけでなく、酒類も提供しているようだ。珈琲の後に、『口碑 時価』と書いてあるのを見つけた。やはり、この店で間違いないようだ。
「ご注文はお決まりでしょうか」
いつの間にか、店主がカウンターを挟んだ眼前に来ていた。年齢は三十代後半から四十代半ばだろうか。やや長い髪は後ろで束ねられ、ぱっと見はオールバックのようだ。鷲鼻に近い高い鼻と、やや落ち窪んだ目、顎は尖り気味だ。背が高く、180cmくらいはありそうだ。
「マシュー・マコノヒーに似てるって、よく言われませんか?」
マシュー・マコノヒーは私の好きな俳優の一人だ。悪役も上手いが、影がある善玉の方がより似合う。若い頃イケメン過ぎたせいで薄っぺらい役しか来ずに悩んだと言うが、その苦労が顔に刻み込まれて、実に深みのある顔になっている。
「そんな事を言われるのも、多部未華子似のお客様が来られるのも初めてです」
「ハハハ、十代の頃は魚顔って言われていたのが、多部ちゃんのおかげで助かってます」
マシュー(仮)はちらりとメニューを見やった。顔に気を取られて注文を聞かれていたのを忘れていた。私はほぼとっさに目に入ったものとお目当ての物とを頼んだ。
「アイリッシュ・コーヒーと、口碑」
「かしこまりました。少々お待ちください」
マシューはてきぱきとコーヒーを淹れ、何がしかの液体が入っているコーヒーカップに注いだ。仕上げに生クリームを浮かべる。慣れた風を装って頼んだが、アイリッシュ・コーヒーとやらを頼むのは初めてだ。あの液体はなんだろう。
「お先にアイリッシュ・コーヒーでございます」
出てきたアイリッシュ・コーヒーは、ウィンナー・コーヒーに似ていた。ウインナー・コーヒーは流石に飲んだことある、と言うかかなり好きな飲み物だ。コーヒーというか生クリームが好きだ。生クリームが乗っている時点でもう当たりと言えよう。
「グエッホ、ゲホ、ウェぇ、何これ!」
かなりグイッと飲んだ私の口内はパニックを起こし、盛大にむせてしまった。むせるを通り越して完全に器官に入り、鼻からも微量ながら出てしまった。
マシューは迅速に複数本のお絞りを出し、私はそれで口周りを吹いた後、鼻をかんだ。かなりデカい音でかんでしまったが、鼻からコーヒーが出たあとにお嬢様ぶっても仕方あるまい。何事も諦めが肝心である。
「これ、酒入ってるんですね」
「アイリッシュ・ウイスキーがベースの、その、ホット・カクテルになります」
確かによく見たら酒類の方に書いてある。カクテル頼んどいて酒入ってるんですね、も何もない。
「気を取り直して、もう一つの注文についてなんですが、これって時代とか国とかジャンルとかリクエストできるんですか」
私が頼んだ“口碑”とは、言い伝えの事だ。中国では当て字的にコーヒーの意味で使うこともあると言うが、この店での意味は前者だと知人から聞いている。
「お客様のご要望に沿って、提供させていただきます」
「そう……私、駆け出しの歴史小説家で、ずっと中国の凄い人の小説書いてたんです。完全無欠の超人みたいな」
「宋の趙匡胤、それとも唐の李世民とか?」
「惜しい。東漢の光武帝です。それで……なんかそういうカロリー高めのはしばらくいいかなって」
アイリッシュ・コーヒーに口をつける。さっきは舌がびっくりして大惨事になったが、酒が入っていることを承知していれば嫌いな味ではなかった。むしろ酒は好きだ。今度は酒類のメニューも良く見よう。
「だから、中国の微妙な時代のしょっぱい人の話とか、有名な話のマイナーな異説とか、そういうのが聞きたいな。短篇集のネタにしたいの」
「中国から離れなくて良いんですか?」
「慣れないものは頭がビックリするでしょう。舌と一緒でね」
私は舌を出して見せた。
マシューは軽く咳払いをすると、ゆっくりと語り始めた。
「南北朝の世は戦乱につぐ戦乱、陰謀につぐ陰謀の陰惨な時代でありました。これは南朝宋の時代のお話。“豚の王”と呼ばれた、ある哀れな男についてのお話です」
リンドウのランプがひとりでに明滅していた。