動き出した悪夢
イレーヌさんは死んだ。死んだ、はずだった。
だったらこれはなんだ。どうして彼女は動いている?
息をしていない、冷たい体。虚ろげな瞳。だらりと力無く声を絞っている。これじゃあまるで――
「……ゾンビ」
海里は動けなかった。自分の上に乗りかかるイレーヌの体を振り払うことができなかった。
酒場帰りの火照った体だからこそ、彼女の冷たさがよくわかる。やわらかく、冷たい。冷たさが彼女の体をよりくっきりと露にして、僕の心を刺激する。
「あ……」
僕の唇が、彼女の唇と触れた。
彼女は笑っているように見えた。表情はとうに凍りついて動かないのに、記憶の中の彼女の笑顔が重なってならなかった。
「なんで――」
海里がイレーヌの体を抱こうとした時、どこからか上がった声が耳に届いた。
「今の、悲鳴……?」
明るい光を裂くように、金切り声が木霊する。長い体をしならせて、奴はそこに立っていた。
くろい。黒い。赤黒い。大きな爪牙に金煌の瞳。血混じりの涎を滴らせて、ニーズヘッグはそこにいた。
ガラガラガラと、夜の街を砕いて進む。腹の虫が冷めやらぬと、目につく人を喰らって走っている。
どうして? 僕は【死体操作】を発動させた覚えはない。なのに何故奴は動いている?
いや、奴だけじゃない。イレーヌさんも僕の意識とは関係なしに動いていた。
別の誰かが操って……ちがう、地中に隠していたニーズヘッグを掘り起こすのは容易じゃないはずだ。そもそも操るメリットが分からない。
「グルゥアアアアアアッ!」
ニーズヘッグはあの時と同じ轟声を放った。焼けるような音がビリビリと肌を刺し、海里は思わず目を瞑る。
音が止んで彼が目を開けると、そこにあったのは惨状だった。
ある者は耳から血を流しながら震え、またある者はぴくりとも動かない。意識のある者も歯をカチカチと鳴らし、その場に腰を落としている。
「そんな……」
ふらりと歩みよろうとした海里の腕を、イレーヌが抱き止めた。
「……イレーヌさん?」
彼女は何も言わなかった。
「ウワァアアアア!」
また、悲鳴が響いた。
まるで地に落ちた木の実を拾うように、ニーズヘッグは人の体をつまんでいる。
ぎちゃり、ぐちゃり、ぱきり。肉と骨が潰れる音。嗚咽のような声が歯の間から漏れたかと思うと、すぐに何も聞こえなくなった。
「お母さん! お母さぁん!」
虚ろげに転がる金の瞳が、奴のすぐ側の親子を映した。
あの轟声から子を庇ったのだろうか、母親の方は動かなくなっている。
「ガァアア!」
奴の顎が大きく開き、獲物を求めて喰らいかかった。
「止めろニーズヘッグ! 止まれぇ!」
海里は咄嗟に手をのばした。届かない距離だとわかっていながら。
「……」
ニーズヘッグは止まっていた。その強欲な表情のまま固まり、時の流れから外れたように、その場で動きを止めていた。
「……止まった、のか。……よかった」
壊れた街灯がチカリチカリと一帯の赤黒さを照らし出し、事態の凄惨さを物語っている。
辺りには、もう生きている者の方が少なかった。呆然と座りこむ者、ただ黙って泣く者、そして、海里がモンスターを止める始終を影で見ていた者である。
「――あんた、今、どうやって奴を止めたんだい?」
海里は声の方を向いた。酷く怯えた様子の男性が、潤んだ目で彼を見ている。
「あ……ええと、僕のスキルを使って……」
「あんたはさっき、『ニーズヘッグ』と言うとった。そのモンスターの名前を知っていたのか?」
その言葉が海里に向けられた疑いであることは明らかだった。気がつくと、周りの人もこぞって彼に懐疑の目線を向けている。
「ちッ、違う! 僕はこんな――」
「オガタくん」
聞き覚えのある声。瓦礫の陰に隠れた影からだ。
昼間にも見た茶色の帷子がしゃらんと揺れて、マグとグラピーが姿を見せた。
「その黒いモンスター、知っているのかい?」
「……知りません」
「なら、なぜ君の命令で動きを止めた?」
「分かりません」
グラピーは息を吐いた。
「少しいっしょに来てもらおうか」
「そんな、僕は」
「オガタくん」
「……マグ、さん」
「答えてくれ。君は何もしていないのか」
「……」
「それとも、このモンスターを操って何かしようとしていたのか」
「……何もしていません」
「モンスターで何かしようとは、していないんだな」
「していません!」
海里が叫ぶと、マグは目を閉じてゆっくりと腰の剣を引き抜いた。
「モンスターを操ることに、何の疑問も持たないんだな」
「……え?」
「そんなことができるのは、人間じゃない者だけだ」
刹那、一筋の剣閃が海里の服を裂いた。
避けられなかったわけじゃない。けれど、動けなかった。
さっきまで気を良く同じ皿の飯をつついていた彼らの目が一瞬で敵を見るものに変わったこと、ただそれがショックだった。
「答えろ! 何の目的があってここにやってきた!?」
「違います! 僕は――」
服の切れ目から、黒い光が零れ出た。
「あっ……」
咄嗟に腕で隠したが、全ての目が彼に向いているこの場では、既に手遅れである。
「これは……ちがくて……」
コツリ、何かが海里の背中に当たった。石だ、それも小さな。
投げたのは、さっきの子供だった。
「バケモノ!」
言葉が、彼の耳に刺さった。
一人がそれを口にすると、周りも声に出し始める。バケモノ、バケモノと。
「違う! 僕は――」
続く言葉を、僕は叫ぶことができなかった。
僕が本当に人間であると言い切れるのか。そう思ってしまったのだ。
耳が思い出すのは、モンスター達の断末魔の叫び。目には苦しむ奴らの顔が焼き付いている。
「それでも、僕はバケモノなんかじゃ……」
項垂れる海里に、グラピーとマグが切りかかった。
「ニーズヘッグ!」
黒く太い尾が彼らを阻む。その隙に海里はイレーヌを抱き上げ、巨体の上に飛び乗った。
走れ。走って、この場から逃げるんだ。
周りの、誰の顔も見ちゃいけないし、声も聞いてはならない。向き合ったら、心が壊れてしまいそうな気がする。
彼は一心不乱に黒い足を動かした。背にいくらほどの暴言が叩きつけられようと必死に、ただ彼らの目の前からいなくなろうとしたのだ。




