第37話「白い悪魔」
覇奴魔――哺乳綱霊長目オナガザル科マカク属に分類された生物兵器を祖にもつ征服種。
巨大な体躯に似合わぬ俊敏な動きと、驚異的な知能が特徴だが、特筆すべき能力は同種の統率力にある。
群れ全体を指揮するボスと末端の兵隊の間に、さらにいくつかのグループを率いるリーダーを敷くことで、膨大な数の群れを寸分の狂いもなく動かすことが出来るのだ。
さらに覇奴魔とその眷族下には一種のテレパシーのようなネットワークが構成されているようで、兵隊が見聞きした情報は別のグループのリーダーだけではなくボスにも逐一伝えられる。
故に覇奴魔の群れを相手にする場合は、極力兵隊には手の内を晒さないようにしなければ、たちまち対抗策を練られてしまう。
主に旧東アジアを中心に分布する征服種だが、第四次世界大戦の後世界中に広まったようで、その強大な組織力で各地の奪還者だけではなく時に他の征服種すら仕留める様は、白い悪魔とも呼ばれている。
狼墓や刃透禍といった征服種とは所謂犬猿の仲で、同じ征服種同士とはいえ決して恭順せず互いに天敵であり、もし縄張りが被れば必ずどちらかが滅びるまで戦い続けるらしい。
――――オーガスタス基地貯蔵 『征服種目録』より一部抜粋
とっさにその場を離れようとして青島は愕然とした。大量の猿吠を従え、不意打ちでσを大破した覇奴魔は、これまで見てきたものよりも数倍は巨大だったのだ。
小山のような体躯が月光を遮り、青島をすっぽりと影におさめる。
大木のように太い腕、年季の入った牙は象牙のように逞しく、そのどちらもが青島を震え上がらせるのに充分だった。
σとの戦いに集中していたとはいえ、これほど接近されるまで気がつかなかったとは大失態である。
μは未だショックから抜けきれないのかその場に倒れ込んでいるので、当然全自動戦闘支援誘導システムも沈黙したままだ。
心配ではあったが、とりあえず敵がμに危害を加えるのは不可能なので、ひとまず青島は目前の猿吠を蹴散らし、全速力でその場から逃げ去った。μの補助がない上に、飛んでいった翼刃がない以上、このままここで敵に囲まれているのは危険極まりない。
しかし次の瞬間、逃げる青島の視界一杯に覇奴魔の手が被さった。巨体ながらも覇奴魔は素早い、加えて長く太い腕を持ってすれば、瓦礫を飛び越え一瞬で射程距離に青島を納める事も可能だったのだ。
太い右腕が恐ろしいスピードで地面を薙ぎ払う。
青島は咄嗟に飛び上がるも、左腕の掌底突きが青島を退路ごと押し潰そうと襲いかかってきた。強烈な衝撃が突き抜け、青島の体は遺跡の奥深くへと押し込まれる。
体勢を立て直す間もなく、覇奴魔の腕が追撃しようと押し入れられてくる。
どうにか転がり回避するものの、矢継ぎ早に左右の腕が遺跡内を蹂躙することで床が抜け落ち、青島は下の階へと墜ちていった。
覇奴魔は青島を見失ったのか、一旦腕を引っ込めてこちらの出方を窺っているようだ。ひとまず助かったと青島は安堵するが気は抜けない。猿吠のものと思われる鳴き声が近づいてくる上に、依然としてμからの連絡はない。
騒ぎを聞きつけ、伍行たちが助けにきてくれるというのも期待出来なさそうだ。
ひとまずここから離れようとすると、一匹の猿吠と出くわす。出会い頭に即座に蹴り殺すも、位置がばれたのか小猿の群れが次から次へと襲ってきた。
「μのサポート無しがこんなにキツいなんて」
大切なパートナーがどれだけ頼りなる存在だったかを青島は改めて思い知る。そしてたった一人で戦うのがこれほど心細かったのかと、最早懐かしさすら抱きつつ青島は遺跡を逃げ回る。
闇雲に逃げ回っていた青島だが、幸運にも交差点の中央に突き刺さった翼刃を発見する。しかし吹き飛んでいる間に連結が解除されていたのか、刺さった翼刃は片翼となっていた。抜き取り一安心する青島の後方に衝撃が走る。
どこから飛んできたのか覇奴魔の巨体が着地したのだ。
「くそっ、こんな時に」
急いで退散しようとするも青島はぐっと踏みとどまる。
付近にはちらほらと猿吠も集まってきてはいるがまだ大した数ではない。そして片方とはいえ翼刃が手元にある。
相手はたしかに今までの覇奴魔よりも遥かに大きいが、逆に言えばそれだけだ。腕が増えた訳でもなければ、翼が生えている訳でもない。
……ごくり、と大きく息を飲んだ青島は、両手で翼刃を構え直す。このまま逃げていては埒が明かない。むしろこの降ってわいた好機を逃す手はない筈だ。
フォトンを装填した両足が青く光り、ぐっと踏ん張った青島は覇奴魔へと爆走していく。
両腕と翼刃にもありったけのフォトンを込める、狙いは短期決戦だ。ボスを失った猿吠など、それこそ恐れるには値しないだろう。
急加速した青島に対応し切れないのか、覇奴魔は避けもせずのろのろと腕を上げて防御しようとする。両足が生み出す爆発力で踏み込み、辺りが眩む程のフォトンを溜めこめ振り下ろした翼刃は……ハヌマの腕を切断することも出来ず、岩のような肉に阻まれた。
しかし、そこまではまだ青島の想定内だ。伊達に戦の女神に振りまわされて戦ってきた訳ではない。μはたとえ初撃が失敗しても、それをさらに次の動作に繋げるような作戦をよく練っていた。逐一解説を聞かなくても、その時の動きをトレースすればおおよそ似たような事は出来る筈だ。
両断することなく突き刺さった翼刃を、青島は引っ張りながら即座に手放す。
こうすることで翼刃を起点に青島の体は覇奴魔の頭上へと躍り出た。
腕のガードをくぐり抜け、ガラ空きの頭部へ必殺の蹴りを落とせば……――、
長いたてがみに隠れていて、正対している時は見えなかった。覇奴魔は腕のガードの内側にもう一つ守りを敷いていたのだ……破損したシグの体という盾を。
一瞬。たった一瞬のためらいが必殺のタイミングを逃した。暴れる覇奴魔の腕に引っ掛かり、青島は再び遺跡へ叩きつけられる。
必殺の奇襲を失敗した敗北感が青島の心を苛む。
σ戦から消費し続けパワードスーツに残されたフォトンは残り少なく、一旦チャージを要するので、このまま無理に戦おうとしても、おそらく加速に制限がかかってしまうだろう。μがいないので、フォトンの配分までは計算出来なかったのだ。
体全身も両足の負荷とダメージで悲鳴を上げていた。
唯一の救いは抜けた翼刃が近くに落ちたことくらいか。
ただ闇雲に翼刃で斬りかかっても倒せず、同じ奇襲が通用するとは思えない。
別の手を考えようにも疲労と痛みで考えはまとまらず、援軍の気配は依然として感じられなかった。
そもそも伍行達が今の状況を知らなければ、助けにくる筈がない事に今更になって気がつく。
そうなると残る手はどうにかしてゲートまで逃げ切るくらいだが、青島にはどうしてもそれが出来ない理由が出来てしまった。
……σはまだ生きていたのだ。頭部は半壊していたものの、僅かに残った瞳と確実に目が合ったし、音声こそ出なかったもののその唇は確かに青島に「逃げろ」と伝えていた。
「逃げられる訳ないじゃないか……」
衛星軌道で眠り続ける真人類と、青島たち人造人間が共に生きる未来の為に、シグを失う訳にはどうしてもいかない。
今になり伍行やμが散々言っていた、覇奴魔の知能の高さを思い知る。覇奴魔は恐らくσを破壊したりはしないだろう。そうする事で、青島が逃げられないと分かっているのだ。
そしてσが生きている限り、青島にとってもっとも効果的な盾になることも。
片翼の翼刃で覇奴魔に致命傷を与えられる場所は限られている。胴を断つ事が出来ない以上、狙えるのは首から上しかない。
やはりまずはもう片方の翼刃を探すことが先決だ。しかし青島の気配が離れ過ぎれば、σを破壊される恐れもある。歯痒い思いを噛み殺しながら、遺跡の影から様子を窺いつつ青島はゆっくりとその場を後にした。




