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混乱した貴族達のひしめく広間を後にしたデコイ男爵令嬢のアリシアは、貴公子達を周囲に侍らせたままで王宮内の廊下を進み、王族や高位貴族の私室として割り振られたとある一郭で足を止める。
「では、我々は隣室にて待機しているので、何かあれば」
「ええ、ありがとう」
貴公子達が立ち止まったのに一礼してから、アリシアは目の前の扉を開けて一人で部屋の奥へと入っていく。
「やっぱりここに居たのね」
部屋を真っ直ぐに通り抜けバルコニーへと出たアリシアは、どこからか取り出したワインの瓶と二つのグラスを手すりの上に並べる。
「アリシアか、よくこの部屋に居るとわかったな」
「この二年、殆どあなたと一緒に居たんだもの、大体の行動は解るようになったわよ。誰かに見られずに貴方が一人で泣けるような場所は、ここくらいの物でしょ」
「泣いてなど居らぬ、ただここからの夜景が見たくなっただけだ。あの会場は利権を狙う事しか頭にない貴族共の腐臭と熱が漂っている、この場で夜風に当たり涼んでいる方がどれほど良いか」
バルコニーの手すりに両肘を預け、外へと身を乗り出すような姿勢のまま、一切振り返ろうとしないレーングルの方を見ないよう、ドレスに包まれた背中を手すりに預けたアリシアは、手早くワインをグラスに注ぎレーングルの横へと滑らせる。
「元娼婦を舐めないで頂戴、男がどんな顔をしてるのかなんてのはね、直接顔を見なくたって解るものなのよ、坊やの強がった演技なんてぜんぶ御見通しよ」
自分のグラスにも酒を注ぎ、赤い髪を片手で書き上げながら飲み干すそのしぐさは、普段の臆病さとは正反対であり、口さがない貴族達が噂する王子を誑かした妖婦という言葉にふさわしいものであっただろう。
「ふん、俺やミリアムよりたった一つ上なだけだというのに、ずいぶんと生意気な口を」
「行動一つ間違えば、つまらない理由で殺されたり、人買いに売られるような場所で生まれて、物心がついて直ぐに、粗暴な男たちを客に取らされてきた私と、絹の産着に包まれて飢えも知らずに何不自由なく育ってきた貴方達とは積み重ねて来た経験が違うのよ」
空になった自分のグラスに再度酒を注いだアリシアの言葉に、レーングルは手元のグラスを手に取り一気に煽る。
「生まれついた時から義務の伴う貴族や王族の苦しみを知らぬ者が何を言うか、権謀術数渦巻く宮廷で誰が敵かもわからぬまま、幼き日より命を狙われて生きる苦しみが解るか」
「その割には、貴方達の考え方や実際にやってる事は大甘だと思うけど、ぽっと出の女が権力者の男を寝取るなんてマネを裏街で私がしようものなら、判明したその日のうちに強面の連中に攫われて、ボロボロになるまで輪姦された上で殺されて、数日後にはドブ川に裸のまま浮いてるはずよ。それをあのお嬢様はわざわざ気を使って、私が社交界で浮かないように、影で色々手を回すなんて信じられないわよ。あの子が頼み込んだって事でいろんな子爵家から招待状の山が届いた時には呆れたわ」
手すりにしどけなく背を預けたままで手を伸ばし、片手に持った瓶を傾けてレーングルのグラスへと酒を注ぐ。
「ミリアムは心優しい娘だからな。王族の寵を得る者は伯爵家以上の出の娘であるべきとされている中、お前が俺の側室となれるよう、手続きを進めていたとも聞くしな」
新たに注がれた酒を手の中で揺らし見つめながら、レーングルは口元へ笑みを浮かべる。
「彼女は、ミリアムは泣いていたか」
「当然泣いていたに決まってるでしょ、というか公然の場であんな事をして泣かせた張本人が聞くことじゃないと思うけれど」
「そうか、それもそうだな、そのとおりだ」
「そんなに気に成るのなら、こんなまどろっこしい茶番劇をして婚約破棄なんてしてないで、素直に結婚しちゃえばよかったじゃない。どこの馬の骨とも知れない娼婦を口止め料込みで身請けして、何年もかけて男爵令嬢に仕立て上げるなんて、大変だったでしょうに」
二人の他には誰も聞く者がいないという気楽さからか、外に漏れれば重大な結果となり兼ねない秘密を軽い感じで口にするアリシアの言葉を鼻で笑ってから、レーングルは再び酒を煽る。
「結婚だと、そんな事ができる物か、年が明ければ俺はカラム公爵に叙され南方に領地を与えられる事となる。何も知ら無い者達の目には、自由に指揮できる強力な領軍と安定した税収を与えられ、王宮で無位無官のまま過ごす兄上よりも玉座に近づいたと見えるのかもしれぬが。実際の狙いは逼迫している南方戦線に王族とその直轄軍を配して、兵や騎士達の戦意を高揚させるためでしかない。つまりはそこまでしなければ支えられないほど、南方の状況は酷くなっているという事だ。どれほど遅くとも五年後には我が国の南方域は押し寄せるディリス軍に呑まれる事だろう。俺に出来るのはそれを少しだけ遅らせ、民衆が避難するための時間を稼ぐだけだ。そして南方戦線が越えられた時、俺は生きていないだろう。そんな運命に彼女を道連れにする事は出来ない」
「あら、私は巻き込んでもいいっていうのかしら」
少しすねたような声を出すアリシアの言葉を、レーングルは再度鼻で笑う。
「お前を身請けする時にきちんと言ったはずだ、命を掛ける事になるし安全は保障できない。それでも面白い演劇が見れるのならいいと言ったのはお前だろう」
「そうだったわね、確かにこの二年間で間近に見て来た宮廷陰謀劇や貴公子達を侍らせての恋愛ごっこは十分楽しめたわ。でも私だって命は惜しいもの、それこそ彼女が貴方と一緒にいれば、こんな戦争位はどうにかなるんじゃないの。彼女を通じてリウリア大公国から援軍を貰えれば、ディリス皇国との戦争だってもっと楽になるはずなんじゃない」
「彼女の為にリウリア大公国が動けば、それに合わせてワーネル王国軍も動くことなろう。何しろミリアムはワーネル国王の姪だからな、そして北方の雄たるワーネルの獣人部隊がこの国へ来れば、ディリス皇国も本気にならざるを得ない、おそらくはいまだ投入されてない魔獣兵団を派遣して来るだろう。そうなれば国土全体が戦場となる。獣人部隊の本質は少数精鋭による遊撃戦であって正面からの会戦ではない。そして魔獣兵団の大型魔獣に乗った魔物使いにとって、我が国の脆弱な防衛線など有って無いような物だ、簡単に突破され我が国の各地で村や町を襲撃する魔物使いと、それを狩ろうとする獣人達との敵味方が入り混じった泥沼の戦いが繰り広げられる。そうなれば多くの民が戦いに巻き込まれる事となろう。更には南の国境線にゴブリンやオーガなどを中心とした人型の魔物が押し寄せ、村々を文字通り蹂躙していくだろう。男や子供は食われ女達は魔物の慰み者とされる」
忌々しげに南側の夜空を睨みながらレーングルは更にグラスを呷る。
「今はまだいい、ディリス皇国が欲しいのは南方の鉱山群や西南部の港湾都市トリム、あとはそれらを繋ぐレダ川の水運と沿岸の穀倉地帯だ、今はそれらを自らの手で破壊し駄目にしてしまわないように、奴らは手加減のできる人族を中心とした歩兵隊や騎兵隊で攻めよせているし、必要な部分を手に入れればそれで満足するだろう。なにしろそれ以上北上しても得る物は少なく、我が国という緩衝地帯を失ってワーネルと直接国境を接するのは奴らにとって負担でしかないからな。だがワーネル軍が我が国の為に動くとなれば遅かれ早かれ両国の全面戦争となり、ディリス軍もワーネルに負けない事こそが戦争目的となろう、そうなれば奴らも占領地の状況に気を回す余裕など無くなる。最悪の場合ワーネル軍の南進を防ぐための焦土戦となり、この国全体が焼き払われ不毛の荒野となりかねない」
空になったワインの瓶に代わって別な酒瓶をアリシアから受け取って直接口を付けながら、レーングルは更に続ける。
「俺達に出来る事は、少しでもディリス王国相手に時間を稼いで、その間に民衆を安全な場所へと逃がす事、より有利な条件の付いた講和に持ち込むための状況を作り上げる事だ、そのためには彼女がこの国に居ては邪魔なんだ、だからこそこのような茶番劇を企み彼女を突き放したのだからな」
「そう、だったわね、でももう少し何とか……」
「それにこれは国王陛下の御裁可も頂いた、国としての方針にもとずく物だ今更変更する事など出来ぬ」
「え」
瓶の先から離れた口より酒の滴と共に零れた言葉にアリシアが思わずレーングルの方を向く。
「そうか、そう言えばお前には言っていなかったな。いくら俺が第二王子と言っても、貴族家の令嬢を一からでっちあげるなどと言うマネが簡単にできる訳が有るまい、それぞれの家譜や貴族院に登録されている名簿を書き換えるには、多くの手続きが必要となるのだからな。今までの事は俺が国王陛下へ具申し、陛下と宰相の認可が有ったからこそできた事だ」
「なんで、こんな無茶苦茶な事を王様が」
「さっき言っただろう、彼女がこのまま俺と婚姻を結べば戦争が肥大化するだけだ。それに王家としての必要もある、俺と第一王子である兄上は一つしか違わん、そんな状況で俺がミリアムを妃に迎えれば貴族達の中には俺を王太子にしようと考える物が増え、王宮を二分する争いと成りかねん。平和な世であればそれでも問題なかったが、挙国一致でディリスに当たらねばならぬ状況で身内同士が争う余裕など我が国にはない。だからこそ内紛の種と成りかねぬ彼女をこの国より遠ざけ、更に俺が公衆の面前で醜態をさらす事で、このような愚か者を王に据えようなどと誰も思わぬようにする必要が有ったのだ。だから、だからこそ俺は、彼女を……」
強い酒を一気に流し込んだために咽ながらも、レーングルは吐き出すように言葉を続けようとするのをアリシアが背中をさすりながら止める。
「まったく、坊やが無理して強がるんじゃないよ、二人っきりで飲んでる時ぐらい建前じゃなく本音を言ったらどうなの。そんな事情なんてどうでもよくて、本音じゃあの子に一緒に居て欲しいんでしょ、貴方がが心配なのは国や民じゃなくてあの子の事だけなんでしょ、だからこんなマネをして彼女を国外に逃がして」
「何を馬鹿な、俺は王族だぞ、俺の行動の全ては国の為だ、王子としてなすべき責務に私情を挟むような事など」
「じゃあなんで貴方は泣いてるのさ、この一年あの子に冷たく当たってる時は、何時もこうして酔い潰れて泣いてて、なのに遠くから見てる時はあんな嬉しそうな顔をしてさ。本心じゃ今でもあの子の事が好きなんでしょ、それこそどうしようもない位にさ。あんな顔一度だって私には向けないくせに」
後半の言葉を口の中で小さく呟いたアリシアに視線を向けながら、レーングルはそのまま手すりにもたれかかるように座り込む。
「愛している、愛しているとも、ミリアム、我が愛しき白薔薇、純白の真珠よりも尊き至宝よ、彼女の為ならばこの身がどうなろうと惜しくはない、だが、だからこそ、だからこそ、彼女と共には居られぬのだ。この戦で俺が死ぬ事は既に決まっている。我が国との戦いを有利にするためにも、ディリス軍は俺の命を狙ってくることだろう。何より王族の首級を上げその直轄隊を壊滅させたとなれば、たとえ目的地の占領に年数がかかってもディリス皇国の者共が満足できる戦果となろうし、我が国の民を諦めさせることも可能となろう。南方領土を奪われただけで講和を確実に結ぶためには、両国が納得できるだけの戦果と犠牲、つまりは俺の命がどうしても必要となるのだ」
更に、レーングルが酒瓶を傾け、一気に中身を飲み干す。
「彼女が俺と一緒に居れば、必ず巻き込むことになる。ディリスにしてみれば彼女が俺と共にいるからこそワーネルが動くと思い、俺もろとも彼女を殺そうとするだろう、いや、場合によっては彼女だけが囚われの身となりディリス本国で辱めを受けかねない、そんな事になるなら俺一人で死んだ方がどれだけマシか」
「それなら、結婚してあの子を王都に残して貴方一人で南方に行ったらどうなのさ、単身赴任なんて騎士や兵士ならたまにある事らしいし、何か月かにいっぺん位は会いに来れるんでしょう」
「数年後には死ぬと決まっている男に嫁げと、すぐに未亡人になり修道院に入る事になると解っているのに嫁になれと言うのか、未婚のまま俺の身勝手な理由で婚約を破棄すれば彼女の名誉には何一つ傷はつかない、いくらでもいい縁談が舞い込むことだろう。だが、未亡人となれば一生を棒に振る事となる、俺のたった数年の満足の為に、彼女にそんな人生を何十年も歩ませるなど、到底できるはずが、そんな我儘な真似など……」
苦しげな言葉が途中で途切れ、そのままレーングルの体が床に崩れ落ちる。
「好き放題に言って、酔いつぶれて眠てしまったのね」
いったん部屋に戻り、畳んであった毛布を手に取りながらアリシアは寝息を立てているレーングルを見下ろす。
「クソ真面目で、融通が利かなくて、一途で、まったく……」
酔いつぶれているレーングルの上に毛布を掛けてから立ち上がり、夜空をみあげる。
「馬鹿な男」
アリシアはレーングルの様子が見える窓際の机の前に座りペンを取った。
おそらく、ミリアム公女の大活躍を期待されていた方が多いと思いますが、実は主役はアリシア偽男爵令嬢だったりします。