山陰奈落の変 の章(3) ~ 十五転十六起
そうして『せいりゅう』へやってきた。
「ふう、ここまで来るにも一苦労だな……これは」
と風切あやかが呟いたように、ここへ来るまでに風切あやかは幾度となく道へ足をとられたものだった。
滑って転んだ回数なら3回、その度に冷たい雪や濡れて泥となった土が顔や服につくのだから堪らない。
ちなみに佐渡せきに至っては15回は転んでいる。
「はぁ……こんなことなら、小屋で昼食を済ませた方が良かったよ。まったく……」
道中で泣き言をこぼしていたものだった。
そんな苦難の末にようやく『せいりゅう』へ付いたものだから、
「はぁ!やっと着いた!疲れたぁ!!」
などと言い、まっ先に目当ての席へ向かっていった。
入り口から左奥の座敷席は佐渡せきのお気に入りの席なのである。
「あ、せきさん。こんにちは!」
『せいりゅう』で働いている川岸みなもが顔を出した。
「おっ、みなもちゃん、今日も働いているんだなぁ」
佐渡せきは笑顔で答えている。
「あやかさんもいらっしゃいませ」
「ああ……こんにちは」
佐渡せきとは違い、風切あやかは思わぬ苦労にげんなりしていたものだった。
佐渡せきの着いた机に向き合うように腰をおろすと、
「……とりあえず、水を頼むよ」
小さく呟いた。
「はい。少々お待ちくださいませ」
川岸みなものが調理場の奥へと消えていった。
「それにしても……」
風切あやかが周囲を見渡して言った。
なんだか『せいりゅう』の中が静かなのであった。
いつもならこれくらいの時間は食事や休憩を求める護山家や水の精たちで賑わっているものだが、
「今日、この時間ばかりは……」
どうにも寂しく感じられるのである。
「ま、この雪じゃ来られないんですよ」
と佐渡せきは言う。
(ふむ……)
そういえばそうかもしれない。しかし、自分たちのように、思わぬ苦労を重ねてでも『せいりゅう』へ食事に来る者はいても……
「いや、そんなことはないか」
去年も八霊山には大雪が降ったものだった。
そのときも今日のように多くの護山家が雪かきや山道の整備に追われたもので、昼も過ぎた頃には、
「あぁ、もうヘトヘトだよ」
ということで『せいりゅう』へ食事に行く護山家は多々居たものだったが……
「なんということだろうか……」
あろうことか『せいりゅう』は閉まっていた。
そこには立て札が一つ建ててあって、
「本日は水の精が氷で動けなくなってしまったため休業いたします」
ということらしい。
水の精が氷で動けなくなるとはどういうことか……いや、そもそもこの立て札は誰が立てたのだろう?
ともかく『せいりゅう』が閉まってしまっているのでは話にならない。
護山家たちはとぼとぼと帰っていった。意気消沈した護山家たちがこの日に進めた作業は半分にも満たなかったそうな……。
さて……
そうしたこともあったせいか、見たところ、『せいりゅう』へ来ている客は、風切あやかと佐渡せきだけのようだ。ついでに言うと、
「働いている水の精も、みなもだけみたいだな」
と風切あやかは見ていた。
いつもなら中を動き回っている水の精が、今日ばかりはやはり一人も居ない。
今見ただけでも、中にいたのは川岸みなもただ一人であった。
「これは大変だな。おい、せき。あんまり手間の掛かるものは頼むなよ」
「……えっ、あ、そうですね」
そうして二人は料理を注文した。
それぞれ暖かい蕎麦に、鮎の塩焼きが机にのっている。
「えらく簡素だが……」
これには深い訳があり、
「今、『せいりゅう』にいるのは私だけですので……」
と話す川岸みなもに、そもそも、
「雪に閉ざされて……」
食材が届かないという事情があるのだった。
『せいりゅう』で取り扱っている食材のほとんどは八霊山やその周辺の山の精や水の精が届けてくれる。
周辺の治安や環境を守っている護山家、それに山で生きるものたちへの恵みの提供を……という訳なのだ。
それがこの雪のお陰で途絶えている。
こうした状況を打破するために護山家やその他に山に住む者たちが精一杯に雪を除けて、道を作ってくれるのだから、
「山に生きるものは互いに支えあっている」
のである。
一応は八霊山でも通貨というものはある。
それは綺麗な石であったり、貴重な植物であったり、様々なものが山に住むものの手から手へと渡っている。
綺麗な石は装飾品として山から外へ出ることもあるし、植物に至っては薬草など、万病や怪我に対する薬へと姿を変えるのだ。
そうした流れもあり、八霊山と周囲の山は、
「持ちつ持たれつ」
均衡を保ち、成り立っているのだ。
「しょうがないな。暖かい蕎麦に焼き魚、それにおいしい水があれば十分だ」
「……私はちょっと物足りないけどなー、うーん」
「おい……」
風切あやかが佐渡せきを睨んで、
「自分で鹿でも獲ってくるか?そうだ、冬眠中の熊でも獲ってこいよ。良い稽古になるぞ」
といったものだから、佐渡せきは苦笑して、
「いやいや、ごめんなさい。湖に穴でも開けてワカサギでも釣ろうかな」
などと誤魔化して、そそくさと蕎麦をすすり始めたのだった。
ふぅ、と風切あやかも一つ息を吐いて、蕎麦をすすったときだった。




