カゼキリ風来帖(5) ~ 天の道の章(1)
夏の日のことだった。
この頃は蝉が高い声を縦横無尽に辺りへ響かせている。挿すような太陽の光は、絶えず山の道を、そして空気を熱していてどうにも暑いものだった。
「ふう、今日も暑いです」
その暑さも日が沈めば少しは和らぐ。高山はるかは御山家の役所を出ていた。
汗に濡れた顔を手ぬぐいで軽く拭い、かつかつと静かに門を出たときのことだった……
「あの、はるかさん……」
「はい?」
急に声がしたので、高山はるかは少し驚いた。軽く顔を上げて、その声がした方を見てやると、
(おや……)
同じ特務役で高山はるかの部下である柿留しょうがいた。
柿留しょうはなんだかそわそわしているように見える。高山はるかは少し気になったものだが、そこは自分から聞き出すことはせずに、
「しょうもお疲れ様です」
こともなげに挨拶をして、その場を去ろうとしてみたものだ。
「あっ、あっ」
なるほど、背中の方から慌てたような声が聞こえる。
(やはり、何かあるのですかね……一体なんでしょうか)
高山はるかは口元に苦笑を浮かべているものだが、後ろにいる柿留しょうには、それは当然、
「見えない」
のだった。
あたふたと慌てたような足音がたったったと聞こえたと思ったら、
「ああっ……あの、はるかさん!!」
「…………うん?」
ここに来て、ようやく高山はるかは振り返った。
「……わ、私に剣術を、教えて下さらないでしょうか!?」
「私にですか?しょう」
これは意外な話であった。正直、高山はるかの考えでは、
(また何かミスを犯したのでしょうか……)
といった、ところであった。
柿留しょうは書類の制作や整理に関しては優れた能力を持っている。それによって、高山はるか……それに大きく言えば八霊山の頂点たる山神さまは随分と助けられている部分はあるのだ。
それほどに柿留しょうの働きは素晴らしいものであった。しかし、その一方で、
「柿留しょうは気の弱い部分がある……」
という評判がある。というのも、こんなことがあった。
あれは数年前の夏のことだっただろうか。
その年の春に柿留しょうは高山はるかの部下となり、書類の整理を役目としていた。
最初の頃は今のようには行かず、
「あの、はるかさま……」
「すいません、ちょっと……」
「……申し訳ありません!」
と、ことあるごとに恐れをなした小動物のように、高山はるかに分からない点を聞いていたものだった。
今でこそ気軽に接する間柄になってはいるのだが、やはり、気が弱い部分はそのままで、自分の器量でどうにもならない問題や役目に直面すると、
「……あのう、はるかさん……」
声と身体を小さくして、高山はるかの前に現れることがあるのだ。しかし、それなら未だ良い方で、難しいこととなると、
「…………」
何時までも自分でどうにかしようと考えてしまうのだ。勿論、考えた所で答えなどでない。そして、時間が過ぎるたびに不安は大きくなり、ようやくにして高山はるかに相談をするのだ。
だから、この時の剣術を教えて欲しい!という柿留しょうの相談は、高山はるかにとっては、
(夢にも思わないことです……)
だった。それにしても……。
高山はるかは怪訝そうに柿留しょうを見た。書類整理が得意な柿留しょうは、剣術はからっきし出来ない。言い換えれば、剣術が出来ないから書類整理をやっていると言っても良いだろう。
そんな柿留しょうが、剣術の教えを自分に乞うてこようとは……
(一体どういうことなのでしょう)
高山はるかは思った。とはいえ、それを顔に出さずに、
「……一体、何があったのですか?」
と、聞いてみた。すると、柿留しょうは少し照れくさそうに顔を赤らめて見せ、
「あ、あのう……それがですね……」
「分かりました。とりあえず、場所を変えましょう」
高山はるかはそう言って、柿留しょうの話を遮った。柿留しょうの様子からして、恐らくは、
(少し長くなりそうですね……)
察したのであった。そういう時の柿留しょうは口元が乾いていることが多いのであった。
日は落ちて暗くなった。僅かに月の光が辺りを照らしている。
二人は食事処の『せいりゅう』へとやってきた。ここは柿留しょうの大好きなところで、一週に二度、多い時は三度通っているほどである。ちなみに柿留しょうの好きな料理は、八霊名水を使ったスープにほうれん草を浮かべたお蕎麦の『せいりゅう蕎麦』。
「あ、こんにちは!しょうさんに……あ、はるかさんも」
川岸みなもが出迎えた。
川岸みなもが八霊山の水霊さまの下へ入った『水霊の儀』から半年ほどが過ぎている。その時を経て、川岸みなもは少しずつ八霊山の水の精達の仲間として、打ち解けてきているようだった。
「みなもさん、見違えましたね」
高山はるかはそう言った。
なるほど、そう言われてみれば、川岸みなもの表情はとても明るい。それだけでなく、少し日にも焼けているようで、血色の良さが傍目にも見て取れるほどであった。
高山はるかは何度か川岸みなもを見ていた時があった。
それは、あの風切あやかがそうであったように……川岸みなもが八霊山の一員として受け入れられるか、だった。
風切あやかのときは、自分の姉にして彼女の師匠であった高山かなたに懐き、あるいは影響を受けて八霊山の護山家として立ち上がっていったものであった。
川岸みなもの場合はどうであっただろうか……
高山はるかが見ていた限りでは、川岸みなもは自分から山の中へと解け込んで行った風であった。
水の精の特徴もあるだろう。水の精は仲間に対してはとても友好的だ。その半面で、それ以外のものには何処か、よそよそしい雰囲気を持っている部分もある。
水を汚せば山の者であっても手にかける それが清くは山のため
などという歌も八霊山の水の精の中にはあり、そういった部分が窺えることだろう。
……とはいえ、基本的にそういうことがあった事実は殆どない。というのも、山神さまと水霊さまの間で、互いに互い、危害を加えることがない様、話を通してあるのだ。
話を戻そう。柿留しょうの話である。
「それで、私に剣術を習いたいとは、一体どういう風の吹き回しです?」
「ええっと……それがですね……」
「剣術ならあやかも達者ですよ?」
「いっ、いえ、あやかさんは忙しそうですし!何より、未だ怪我も感知していないでしょう!?」
「ふうん……それもそうですね」
柿留しょうはそういったものの、風切あやかの怪我はもう殆ど治っている。付け加えていうと、今は折り良くも鈍った腕を元に戻すため、日々抜かりなく剣術の稽古に励んでいるのだ。
(やはり、しょうはあやかが苦手なのですね……)
心の中で苦笑しつつ、高山はるかは柿留しょうを見て、
「まぁ、それについての話を聞きます。しょうのことですから、何かあった上でのことでしょう?」
そう少し意地の悪い風に言ってやった。そして最後に、
「剣術を教えるのは全く構わないことですが」
と呟いた。これに対して、柿留しょうはというと、
(やっぱりはるかさまだ……とても敵わないや)
顔に冷や汗を浮かべ、それを布で二度ほど拭った後で、
「あぁ、はい……それがですね……」
観念したようにことのあらましを話し始めたのだった。
丁度そのころに、『せいりゅう』は賑わい始めていた。役目を終えた護山家や山の民が、夕食と賑わいを求めて、集まりだしたのだろう。それに釣られたせいか、月も僅かに明るくなった。
その日、柿留しょうは役目がお休みであった。
「あ、今はトマトがおいしいんだった!」
照りつける赤い太陽と輝く新緑の葉っぱを見て、柿留しょうはそう思い立った。思い立つと後は早い。あっという間にその足は山の精が管理している野菜畑はトマト畑へ向かっていたのだ。
何しろ太陽は輝いている。流れる川の水底も綺麗にはっきりと見ることができる。それを眺めながら、とことこと軽やかな足取りで進んでいった。
「今年はどんなトマトが成っているんだろうなぁ。去年のはとても大きくてみずみずしかったあ」
その思いは青い空を突き抜けて何処までも馳せ飛んでいく……。
そうしているうちに、柿留しょうは山の精の野菜畑へと着いた。
トマトだけでなく、カボチャにトウモロコシ、小麦や桃など、様々な作物が青々として緑に実を付けている。
「わあ……今年も凄いなぁ」
柿留しょうは、わっと左から右へ辺りを見渡した。その目は子供のようにきらきらと光り輝いている。
「ふふ、今年も良いものでしょう」
不意に後ろから声がした。振り返ってみると、山の精であった。丁度休憩中らしい。……ちなみに、この山の精は柿留しょうと顔を見知った仲で、会えば気軽に会話を出来るくらい仲良しである。
「今年は中々天気に恵まれたもので、ここ数年でも特に良いものが出来ているんですよ」
「へえ……そうなんですかぁ」
「はい。だから今年もおいしい食物が皆に出せますし、お祭りでも胸を張っていられますよ」
ここで言う『お祭り』とは、八霊山の夏祭りのことである。山の恵みと活力に感謝をし、それを山の者全員で祝い祈るのだ。
このお祭りには柿留しょうは勿論、高山はるかや風切あやかも毎年参加しており、水の精である蒼水れいもまた顔を出している。水霊の儀を通して山の一員となった川岸みなもについては今年が初参加となるだろう。
「それじゃあ、夏祭り、楽しみにしていますね!それとこれ……こんなに貰っちゃってありがとうございます!!」
「いえいえ、せいりゅうの皆さんにも宜しく伝えて置いてください。またその内に戻りますってさ」
「はい!分かりました!!」
そう言って、柿留しょうが山の精の野菜畑を後にしたのが夕方であった。
夕方とはいえ夏である。空は明るい。
夕闇が山のふちに溜まっているのが見えるが、オレンジ色をした夕日がそれを悠々と抑えているのだった。
柿留しょうの腕には山の精から貰った野菜がたんまりと風呂敷に包まれて抱えられている。
「はは、きっとせいりゅうの皆も喜ぶだろうなぁ。ああ、はるかさんとあやかさんにもあげないとなぁ……はるかさんはトマトが好きで、あやかさんはトウモロコシが好きだったっけ……」
昼間に来た道を同じように足取り軽く引き返していく。柿留しょうは剣術はできないが力はそこそこあるのだ。荷物が重くて脚が鈍るということはない。
さて……
何事もなく足を進めていた柿留しょうであったが、
(…………っ)
不意にその足がピタリと止まった。そして、
「ああっ……!!」
思わず声を上げてしまった。
ここは山の道を抜けて大きく開いた広場であった。
そこへ入って柿留しょうは、その先にいる黒い影を見つけてしまったのだ……。
(浪霊だ……)
と、それに気付く前に驚いて声を出してしまったのが現状である。
さっと黒い影が動き出した。とはいえ、この時点では浪霊は未だ柿留しょうに気付いていなかったのかもしれない。しかし……
(あっ……)
柿留しょうの方は浪霊が自分を見つけてしまったと思い込んでしまっていた。この点、柿留しょうは戦闘において場慣れしていないということになろう。これが高山はるかなら、状況を確認して相手を倒してしまっている。風切あやかにおいてはすぐに斬りかかっていることだろう。
役目上、戦闘に参加する機会のない柿留しょうはこの二人のようにはいかない。
ふるふると震えている腕の力が抜け、そこから抱えていた荷物が、
「どさっ」
と、軽い音を立てて地面に落ちた。
「……!?」
ここで初めて浪霊が柿留しょうの方を向いた。
ころころと袋の結び目から飛び出たトマトが一つ転がり、浪霊の前へ流れるや、
ぐしゃり
と、音も立てずに潰れた。
(…………!!!!)
浪霊を見つけたときと違って今度は声も出ない。目の前で山の精が大事に作ったトマトが踏み潰されたのだ。
「今度は自分があのトマトのように……」
そんな考えが頭の中を埋め尽くして、柿留しょうの顔面はみるみるうちに青ざめていった……。
「……それで一体誰に助けて貰ったのですか?」
水が来た。それに口をつけて高山はるかが言った。
「ええっ、ちょっと待ってくださいよ!未だ私の話は終わってませんよ!?」
「もういいですよ。しょうがここに居る時点で誰かに助けてもらったのは明白です。……誰かに助けて貰ったなら、私はその人にお礼を言いにいかなければなりません。さ、誰でしたか?」
「…………」
柿留しょうは閉口して、頬を膨らませた。
せいりゅうの何処かで「おそばを二つ」という声がした。
(ああ、そういえば)
ちらりと見た柿留しょうの顔、その膨れっ面にある綺麗な目を見て、あることを思い出したのだった。
「剣術を教えて欲しい!」
ということである。
誰かに助けてもらったのは確かであろうが、それはともかく、剣術を習いたい……というのはイマイチ分からないのだ。
高山はるか自身も柿留しょうを浪霊から助けたことが何度かあった。しかしそのいずれにおいても、
「すいません……」だとか「ありがとうございます……っ」など、泣きじゃくりながら謝ったり感謝するだけであって、決して
「剣術を習いたい!!」
とは言わなかったものだった。これには理由があるようで、柿留しょう本人は口には出さないが、
「刀剣を扱うのが怖い……」
というのがあるようだった。
刀剣を扱えば戦いになる。それは相手の命は勿論、自分の命でさえ危険に晒さなければならない。柿留しょうにはそれができない。
「あやかさんは……」
などと、柿留しょうが風切あやかを苦手としているのもそれが関係している……と高山はるかは見ている。
そういうこともあって、今回のことである。柿留しょうが浪霊に襲われたところを何者かに助けて貰い、その上で自分から「剣術を習いたい!」と言い出すのは、高山はるかにすれば、
「少しおかしいですね……」
と思うのである。
だから、多少は柿留しょうの話に興味を持った高山はるかは、
「分かりましたよ。しょうは、どうぞ話を続けてください」
と、手を叩きながら続きを話すように笑顔で促した。
「えっ、ええ……あ、はい!それでですね」
少しきょとんとした様子を見せた柿留しょうであったが、そこは高山はるかの笑顔である。すぐに機嫌を持ち直し、続きを話し出したのであった。丁度そこへ、
「あ、しょうさん。これ、この間頂いたもので作ったものです。せっかくなのでどうぞ」
テーブルの上にトマトの乗ったおひたしが運ばれてきた。
これは先ほどの話に出てきた。山の精が育てたトマトであった。
一応、柿留しょうも刀は持っている。
その刀は柿留しょうが、護山家へ入った時に護山家の役所から贈られたものである。……が、柿留しょうは書類整理や作成といった役目柄、それを使うことは殆どない上に本人も剣術の上達を望まないため、全く振るうことがない。
余談になるが、護山家の者は風切あやかや高山はるかに見るように、大概の者は剣術や武術の稽古を積むように山神さまより言われている。これは山を護るためであり、浪霊や山に脅威をもたらす存在と戦うためのものである。
とはいえ、やはりその役目にも戦いを専門とする者と柿留しょうのような書類作成や掃除や雑用、それに他の山の者達との話や交渉というように必ずしも戦闘を得意としない役目を担っている者もいるのだ。そういう者達は、
「特に剣術や武術の稽古をしなくても良い」
とされており、希望制をとっているのだ。
そういう事情もあり、柿留しょうは刀こそは腰に下げていても、稽古は全く行っていないのでその技術はまるで持っていない……。
しかも、柿留しょうの普段下げている刀は長さにして30cmほどの短刀であった。持ち運びや携帯には便利であるが戦闘には全く向いていない。
「どうせ、使うことなんてないや」
と高を括っていたものだから、今、こうして泣きを見ているのだ。
さて、柿留しょうもはっとして、腰元の短刀へ手をやった。足は震え腰は既に地面に落ちている。なんとも格好の悪い様子で、これを風切あやかが見たものなら、
「…………はぁ」
閉口して大きく溜め息を吐くことだろう。そして、呆れつつ全力で助けてくれるものだが、その風切あやかはこの場にいない。
辺りはもう暗くなっている。浪霊が闇に溶け込み、その殺気だけが、ひしひしと姿をかたどっているように感じられる。
浪霊の、黒い影の刀に対して柿留しょうの短刀も僅かに光る……
「光る……」
が、気の抜けている上、腰を落としたままの柿留しょうでは、到底、鋭い光を宿しているものではない。
「えいっ……!えいっ!!」
と滅茶苦茶に左へ右へと短刀を振ってはみるが、威嚇にもなっていないのが現状である。
たちまちに浪霊との距離がなくなった。
「…………っ!!」
声も出なくなった。息も詰まった。
恐怖で震える手から、ついに短刀が落ちた。たん、と寂しげな音がたった。
それはとても小さな音ではあったが、柿留しょうにとっては、この場で一番大きく、且つ、何時までも響いているように聞こえたものだった。
言い換えれば今の柿留しょうには他の音が聞こえない。通り過ぎる風の音や自分の息や胸の音、その周囲の音が全て聞こえないのだ。
そして、唯一、自分の生命を護る可能性を持っていた短刀が手から落ちた……その落ちた音というのは柿留しょうにとって、
「どういうことを」
意味しているのか……。
(……あああ)
戦闘とは縁のない柿留しょうでも、この時ばかりはその意味を十分に理解することが出来たであろう。
(もう駄目だ……!!)
力いっぱい目を閉じて歯を食いしばったものである。
もうどうにも出来ない。諦めが恐慌を和らげていき、それが半分半分へと達したそのときであった……
「おい!ちょっとそこ、お前、何をしているんだ!?」
急に怒声が辺りに響いたものである。響いたとたんに木の葉がざわめいた。息を潜め、闇に紛れていたカラスが、
「ばさばさ」
と、一斉に飛び立ったのだ。相当に驚いたらしい。
それに続いて、
「ざざざっ」
砂埃が僅かに舞い上がり、草を踏み分ける足音が、
「やあ!!」
柿留しょうからは向かい合って正面、浪霊の背後から颯爽と斬りかかった。
「…………っ!!」
この間、ほんの数秒のことである。
振り向きざまに浪霊は影の刀でその一撃を防いだものだが、
「ふんっ!!」
続けて繰り出される剣撃に、二歩三歩と飛び退いていった。
そして、両者の間が空いた。間が空くと、その片方……この場へ踊りこんできた者が、
「…………!!」
特異な動きを見せたものだ。
(あれは……)
状況は分からない柿留しょうであるが、この特異な動き……いや、構えには息を飲んだ。
(刀を大きく上へ上げている……?)
そのように柿留しょうには見えた。刀もその腕もその人物の顔よりも高く、天へと一直線に伸びている。そして、
「そりゃあああ!!」
まるで雷……それでいて狼の咆哮のような、それだけで相手の頭を狩り取ってしまいそうな怒号が発せられたと思いきや、その刀を電光の如く、
「振り下ろした」
のだった。
言葉にし難い凄まじい一撃であった。
振り下ろした刀は浪霊を真っ二つに叩き割り、すぐさま、その黒い身体を霧へと替えて消し去った。しかし、その一撃の勢いはそれで止まらない。振り下ろした刀がそのまま地面に達すると、ずとん、と地鳴りを立て大地を削った。
それらの全ては柿留しょうの目の前で起こっていることだ。
余りにも衝撃的なことだった。しかしである……
幸か不幸か、柿留めしょうは半ば覚悟を決めてしまっていて、目を閉じてしまっていた。
全てを見ていた訳ではない。いや、殆ど見ていないと言った方が良いだろう。
……だが、それでいて、柿留しょうは目の前で起こったことを、
「全て見ていたような……」
と思えるのだった。これは柿留しょうにとっても、不思議でならないことなのだが、柿留しょうにはあの光景が目に焼きついて、
「離れない」
のだった。
あの刀を、大きく、高く構え、それを全力で振り下ろす剣術……
「まるで刀が、力を持つ炎を纏って、それが地面もろとも、浪霊を叩き割ったんです。あの剣術の前には浪霊なんてとても敵うものじゃなかったんですよ」
後々に、あのせいりゅうで柿留しょうはあの剣術について高山はるかにそう語っていたものである。
今でもあの構え、あの一撃は目に焼きついて離れないのであった。
「おい、お前、大丈夫か?」
「ああっ……」
声を掛けられ、ようやく柿留しょうは我にかえった。
「はい……大丈夫……です」
「そうか。それは良かった」
柿留しょうの声は小さく、小さな胸も未だ高く鳴っていて少し気分が悪い。はぁはぁ、と息遣いを荒げながら、顔を上げてその相手を見たのだった。
辺りは暗くて少し見え辛い。見える限りでは、相手は長めの髪を後ろで結いでおり、どこか男勝りのような、それでいて凛々しく可愛らしい顔つきをしているようだった。
そしてその人物が着ているのは護山家の装束である。胸元にはその証の紋様もあるのだが、
(あれ……これは?)
知っているものとは少し違った。何やら見慣れない青い羽織を着ているのだ。
「ん、お前……ああ、君は護山家だね、立てるか?」
「あっ、大丈夫です。立てます」
柿留しょうはよろよろと立ち上がった。未だ足元がおぼつかないが、何とか立ってはいられた。
立ち上がってみると、相手の人物は自分よりも頭が一つ分くらい背が高かった。体つきもしっかりとしており、ちょっとやそっとじゃ倒れそうにもない。
「君は事務担当だろう?身体を見れば分かるよ。これに懲りたら、少しは鍛えた方が良い。私のところでは事務役でも毎日稽古をしているよ。それに最近は色々と物騒だからさ。尚のこと、だよ」
「あっ……はい」
柿留しょうが返事をして隙もなく、
「では、私は用があるので、これで……」
何か急ぎの用があるようだった。柿留しょうに背を向けて、ちらりと空の黒を見ると、闇の中、木々の間を駆けて、足早に去っていったのだった。
しばしの間、柿留しょうは呆然と立ったままで居た。
先ほどまでは命の危機に晒され、今も恐怖が体中を震わせてるものだが、それよりも今は別の気持ちが胸の中に広がりつつあるのだ。あれは……
(あの構えは……)
というのである。
刀を天高く構え、そして稲妻のように速く、力強く振り下ろす必殺の一撃。あれが今もなお、柿留しょうの目と頭に焼き付いて離れないのだ。それに、
「これに懲りたら、少しは鍛えた方がいい」
これが耳に未だに残っている。
(自分も剣術や武術を習えば、少なからず、あんな剣が出来るのだろうか……)
そう思った。そう思った所で、
「あっ……」
目を大きくして小さく声を上げた。先ほどの、あの人にお礼を言うのを忘れていたことに気付いたのだ。いや、しかし、
(でも、あっという間に言ってしまったからなぁ……)
単純に間がなかった。おまけに、
「名前も……」
聞いては居なかったのだ。
柿留しょうがあの人物について覚えていることといえば、
「長めの髪を後ろで結んでいること、凛々しい顔をしていて、それに見慣れない護山家の装束、その羽織を着ていた」
ということくらいのものであった。
「一体、誰なんだろう」
柿留しょうが知る範囲では、その人物についての答えは、
「全く……」
浮かばない。
仕方なく、散乱した野菜をかき集め、柿留しょうは歩き出した。もう先ほどのような怖い目に遭わないように、足はさっさと駆け足になっている。走っている間に、
(そうだ!はるかさんに聞いてみよう。剣術について教えて貰えるように頼んで、さり気なく話しに出してやれば、きっと分かるはず)
そう思い立った。
浪霊に襲われたことは一先ずは伏せておく。無用な心配をかけさせたくないし、それに何より、
(格好悪くて離せないや……)
想像して柿留しょうは苦笑いを浮かべた。これを風切あやかに聞かれたものなら、格好悪いを通り越して、
(呆れられて、顔を合わすのも嫌になる)
だろう。ただでさえ、苦手な風切あやかなのである。
ともかく、そう考えたからには、高山はるかから、あの人物のことを聞こうと考えたのだった。
この日、柿留しょうが自分の小屋に戻ったのは晩飯時も過ぎた頃であった。柿留しょうは夕飯も食べていないのだが、この時ばかりは興奮が冷めやまずに居たのだろう。自分の部屋へ戻ると、すぐに布団を広げ、そのまま眠りに着いてしまったのだった。
「なるほど、そういうことでしたか」
高山はるかは落ち着いた風で言った。……言ったが、その胸のうちでは、様々な思いが渦巻いている。
まずは挙げるとすれば、柿留しょうを助けた相手の剣術である。
柿留しょうの話では、刀を大きく天へ構え、そしてそれを雷のように振り下ろすというものだった。
「…………それは」
前章「残されしもの」で登場した高山かなたの『天竜剣』それと同じなのである。
しかし、高山はるかが問題として考えているのはそれではなく、
「青い羽織を羽織った護山家……」
の方であった。
高山はるかは、この『青い羽織』に心当たりがあった。心当たりはあるのだが、
「うーん、残念ですが、わたしには心当たりがありませんね」
かぶりを振った。
「うーん、そうですかぁ……はるかさんなら分かると思ったんだけどなあ」
「恐らく、山神さまに近いところで見守り役を務めている方でしょう。そういった方は高いところに居るだけに、私とは縁がありませんから」
高山はるかが微笑を見せると、柿留しょうは残念そうに俯いた。右腕で、ぽりぽりと頭をかいている。
「じゃあしょうがないなぁ。今度見かけたときにちゃんとお礼をしないと……」
そうぽつりと言った。
「はは、そうですね。お礼はちゃんとしなくてはいけないです。もしもその時は私も呼んでくださいよ」
高山はるかは口では言いつつも、頭の中では全く別のことを考えている。
それはいかに、柿留しょうをその青い羽織を羽織った護山家に会わせないか……ということだった。
先ほどにも述べたが高山はるかはその人物に心当たりがあった。……いや、正しく言えば、青い羽織の方に心当たりがあるのである。
その護山家と柿留しょうが、
(接触すれば……いや、考えすぎでしょうか)
高山はるかは一つ息を吐いた。
『あれ』は昔のことである。それにそのことで、先方が今どう思っているかは知れたものではない。
ともかく、あの護山家と柿留しょうが出会い、何かしらの因縁を持ってしまった以上、それを無理矢理にでも止めることは、
(出来はしない……)
そう高山はるかは思うのであった。
「それはそれとして、剣術のことを私が教えますよ」
「えっ!本当ですか!?」
「ただし、あやかも交えてやります。実は先日、あやかから稽古に付き合って欲しいという話がありまして」
「ええっ……!!」
柿留しょうは思いっきり苦い顔をしてみせた。高山はるかはそれを笑顔で眺めていた。
(今は様子をみることが良いだろう)
もしも何か事件が起こりそうになったとしたら、その時は山神さまへ伝え、なんとか事態を収めるべく、役目を果たす……
「それだけのこと……」
なのだった。




