カゼキリ風来帖(4)残されしものの章 前編
春の暖かい空気が漂っている。
精霊鳥が八霊山を飛び立ってから、もう一週間は経っただろうか。
桜はもう見る影もない。満開の時などは、
「あっという間……」
に過ぎ去ってしまった。
さて……
青い空に緑色の葉が見える。
風もそよそよと流れているのだろう。葉が小さく揺れている。
ぼんやりと、そんな光景を風切あやかは眺めていた。
ここは八霊山の麓にある風切あやかの小屋である。
風切あやかが住処としているこの小屋は、部屋が一つと小さな調理場、それに厠があるくらいの本当に小さなもので、外から見るとまるで倉庫にも見える。
事実、そこは昔は倉庫であったのだが、風切あやかが護山家に加わったことにより、
彼女の住処として高山はるかが改造せしめたのだ。
そんな風切あやかの部屋には、今、布団が敷かれており、そこに彼女は横たわっている。
あの精霊鳥の一件で受けた傷が未だ癒えてはいないのだ。
医術を担当する護山家、佐伯ひろ子が言うには、
「歩けなくなることはないが……じっくりとした療養が必要ですね」
とのことだった。
風切あやかにとって、療養生活は退屈で退屈でしょうがない。ことあるごとに、
「あぁ、早く外へ出たい。剣術が……体が……あぁ、鈍ってしまう」
宙を見ながらぼやいていたものだった。
ちろちろと川の水が流れる音が聞こえる。
川の水も、ようやく春の暖かい空気を受けて、温もりを帯び始めていた。
その頃、風切あやかの上司たる高山はるかは山神さまの社を後にしていた。
水霊の儀の章で既に述べた水霊さまの社と違い、山神さまの社というのは堂々として威厳に満ち溢れている。
境内に設置された獅子の石像は筋骨の張った立派な体躯を持ちどっしりと構えている。赤く巨大な鳥居はどんな嵐が吹き荒れようともびくともしない。
鳥居を潜り、高山はるかは落ち葉一つない階段をとんとんと降りていき
「お疲れさまです」
すれ違う人影へと声を掛けた。
相手方は軽く頷き、返事はしなかったものだが高山はるかはそれを気にせずに、階段を下っていく。
彼等は『山神周り』という。
主に山神さまの社の掃除や見回りを行う護山家で、山神さまの社に関する役目を与えられているだけあって剣術や武術の腕がかなりあり、風切あやかなどは、
「あいつらはやっていることの割にやたらと強い……」
と舌を巻いているものだ。
さて……ここで護山家という組織ついて少し触れておくとしよう。
まず護山家は山神さまが創設した組織であり、
「八霊山の秩序と平和を護ること……」
を目的としている。
護山家はそれぞれ『医術役』や『調査役』などの様々な役目で割り振られており、それぞれの役目に準じた仕事が与えられているのだ。
高山はるかはその中でも『特務役』の役長に属しており、特務役を纏め、山で起きる異変や脅威に対応する役目を担っている。
今回、山神さまの社に出向いたのも山神さまからの役目を賜ったからである。
『特務役』のまとめ役……中間管理的な立場にいる高山はるかには、間に入る『伝令役』を通じて、間接的に山神さまからの役目が与えられる。
こうして、個々の役目の護山家に山神さまの指示や役目が与えられ護山家を成しているのである。
……と、話を戻そう。
山神さまの社から帰った高山はるかは同じ『特務役』に属している柿留しょうと落ち合っていた。
「大変なことになっているそうですね」
柿留しょうは主に書類の整理や作成を担当している護山家だ。浪霊退治や侵入者の撃退を主な役目としている『特務役』であるのに、柿留しょうは剣術武術の才は全くと言っていいほどに持ち合わせていない。これについて風切あやかなどは、
「少しは稽古でも習ったらどうだ?」
と言い、いつも半ば呆れながらの声を頂いている次第。
しかしそれでいて気前はしっかりとしており、細かい所に気が利くもので、あの精霊鳥の一件でも、
「今日は未だあやかさんの報告がありませんね……」
そう呟いたことに只ならぬものを感じた高山はるかが『生命の桜』へと急行したことで、今も尚、風切あやかに息があると言えるのだ。
正直、この一言がなければ、風切あやかは生命の木の下で命を落としていたであろう。
「はい。大変ですよ」
高山はるかは何時もの川辺に腰を下ろしつつ、溜息を吐いた。水面には高山はるかの姿がゆらめきながらも映っている。
ここはあの蒼水れいの居る水辺である。風切あやかはこの場所を「あいつの居る場所」と言い、嫌っているが、高山はるかにとっては、
「落ち着けるのでここは好きですよ。何よりおいしい水もあります」
特に気に入っており、蒼水れいを喜ばせているのだ。
今は丁度、蒼水れいは何処かへ出掛けているようでその姿を見ることはできない。
「その浪霊、とっても強いらしいですね。もう何人も腕の立つ護山家がやられているとか……そんな噂があちこちで立っていますよ」
「そうです。その浪霊を見つけて退治せよ、というのが今回の山神さまのお話だったのです、が……」
「……?どうしたんですか」
柿留しょうは眉をひそめた。
一瞬のことだが、高山はるかの表情が曇ったように見えたからだ。
「いえ、なんでもないです。しょう、何時もどおり書類の作成をお願いします。精霊鳥の件、伝えるべきことは手早く報告したのですが、纏まった記録を残さないといけません」
「あ、はい。分かりました」
「宜しくお願いします。私は、これからあやかを見舞いに行きますので何かあったら今のうちにお願いします」
「あ、あやかさんのお見舞いですか……?」
「はい。そうですけど、一緒に行きますか?」
「い、いや、いいです。書類を作成しなければいけないでしょう?」
「……そうでしたね。では、私は行きます。それでは」
そう言うと高山はるかはさっさと言ってしまった。
「ふぅ……」
柿留しょうは苦笑を浮かべながらこれを見送った。
太陽は丁度天辺に上ったところだろうか。
春の日差しがさんさんと降り注ぎ、思わず、柿留しょうは目を細めた。そして、
「あやかさん、大丈夫かなぁ。悪い人じゃないんだけど怖いんだよなぁ」
一人そうつぶやいたものである。
「あやか、私です。はるかです」
そう言って高山はるかは風切あやかの小屋の戸を叩くと、返事を待たずして中へ入っていった。
普通ならば、それはとても失礼なことだが、そこは高山はるかである。これにはちゃんと理由がある。
「ふむ、ちゃんと横になっているようですね。よろしい」
このことである。
この時、風切あやかはきちんと横になって療養に励んでいたものだが、高山はるかとしては、
(きっと体がなまってしまうことに不満を抱いて、密かに体を動かしているのでは……)
と思っていたのだ。
しかし、それも杞憂であったようで、
「あ、はるかさま、こんにちは。今日もお見舞いありがとうございます」
えらく大人しく、そしてしおらしくしているではないか。そう言って体を起こした、風切あやかはどこか可愛らしいものがある。
「はい。調子が良さそうで何よりです。私はあやかが無理に体を動かしているのではないかと心配でしょうがありませんでした。幸い、そんなことはなかったようで大変結構です。」
「あぁ……はい」
これに対しては何処か気のない返事をして、風切あやかは少し目を背ける。というのも、
(はるかさまの風を感じて、念の為に横になっていて良かった……)
などと、思っている風切あやかなのだ。
額から一つ汗が流れ、線を引いた。そこへ吹き込んだ風が触れると、まるで氷のように冷たく感じる。
「それで、今日は何かあったのですか?お見舞いはつい一昨日も来たばかりではありませんか」
「……あやかは私に来て貰っては困るのですか?」
「いえ……そんなことはありませんが……」
今度は胸の中に汗が噴出し始めた風切あやかである。
「まぁ、冗談はこれくらいにします。実はです。大事な仕事が入りました」
「大事な仕事……」
それを聞くや、風切あやかの顔が真剣味を帯び始めた。
大事な仕事とは、山神さまから直接与えられる八霊山を守る為の大事な任務を示している。
それを理解しているからこそ、この時の風切あやかは療養中の身でありながら、心持は既に、これから戦へ向かう戦士のような心境であった。
「本当なら、あやか、この仕事はあなたに協力をお願いしたい所でした。前回の一件であなたが無茶をしなければ……です」
「はるかさま……」
きっとお互いが目を見張った。
「お言葉ですが、あの時はああする他はありませんでした。ああしたことを、私は、間違いであったとは思っていませんから……!」
「もしも、それでまた命を落としていたとしてもですか?」
「……はい」
「…………」
沈黙が続いた。
その中をひらひらとシジミ蝶が舞い込んで、しばしの間、何の考えもないように飛び回っていたが、やがて突拍子もなく出て行った。
「そうですね。あやか。だからこそ、私はあなたに仕事を頼むのですよ。きっと、あの状況ならあの人も同じことをしたでしょうからね」
「あの人……かなたさまですか」
高山はるかが「あの人」と呼び、風切あやかが「かなたさま」と呼んだ人物……。
彼女の名前は高山かなたという。高山はるかの姉に当たり、風切あやかにとっては剣術の師に当たる。風切あやかと高山かなたの剣術修行については、多くの逸話が残されているものだが、それについて今は述べることは避けておく。しかし、いずれこの話について紐解く機会はあるだろうから、興味のある人は参照して欲しい。
その高山かなた、今は八霊山を離れ、各地を旅しているのだ。本人が言うには、
「剣術を磨く旅……」
ということになっている。
「はい。今は何処で何をしていることやら」
緑の葉を着けた木々に止まっていた雀が飛び立った。風切あやかは顔を上げた。
窓の外には青い空が広がっている。何処かを旅している高山はるかも、
(きっと同じ青い空を見ていることだろう)
そう思うのだ。
春先に八霊山を飛び立った精霊鳥のことも未だ忘れてはいない。
「では、私もそろそろ行きますよ。大事な仕事のための調査をしなければなりませんから」
すっと立ち上がり、
「また来ますよ。その時は、しょうも連れてきますから。」
ばたんと戸を閉め、高山はるかは風切あやかの小屋を後にした。
一人残った風切あやかは、ぱたんと体を倒して苦笑を浮かべ、
「柿留しょうか……あいつ、私のことを嫌ってるんだよなぁ。見るといつもどっかいっちゃうし……」
一人そうつぶやいたものである。
それから一週間を経た。
連日、晴れた日が続いていた八霊山であったが、隣の山の陰より少しずつどんよりとした灰色の雲が広がり、今ではもう昼間だというのに辺りはもう薄暗くなり始めている。
灰色の空を通して白い光がゆったりと辺り一面を照らしていた。
この時、高山はるかは神風高原へと足を運んでいた。
神風高原は、八霊山のすぐ隣にある高原で、このこの辺りも八霊山の山神さまの管理下にある。
高山はるかは高台から神風高原を見下ろし、鉛色の雲が浮かぶ空へと視線を動かし、
「ふぅ……今日も手掛かりはない。そうして空も暗くなった」
山神さまの仕事を受けて以来、例の浪霊による被害は出ていないのだ。
なりを潜めているのか、それとももう何処かへ消えてしまったのか……
それは分からないが、どちらにしても、
「脅威の可能性がある以上は、取り除かなければなりません」
なのである。
風が大きく吹いた。背の高い草が波打つように揺れている。
その様子を見て、高山はるかの脳裏にふと
「ある光景……」
が浮かんだのだ。それは……
「ここの風が大好きなんだよ。ここの風を感じると嫌なことも、そのしがらみも、全て、忘れられるからさ」
この高台から高原を見下ろし、気持ち良さそうに風を受けている少女が見える。
後ろに結んだ髪が川の水のようになびいている。
彼女は高山かなたという。高山かなたはこの高原が好きで、よく妹の高山はるかを連れ立っては笑いかけてくれたものだった。その笑顔はとても綺麗で、今でも高山はるかはよく覚えている。
「嫌なことやしがらみか……」
思わず呟くと、高山はるかは彼女がそうしていたように、高台を見下ろしてみせた。
空は濃い灰色をしているが、高原の木々は青々としている。
(なるほど)
何か不思議なものが胸の中にじわりと広がるのを高山はるかは感じた。
それが何であるかは分からない。ただ、
(高山かなたもきっと同じものを感じていたのだろう)
というのは不思議と分かる。
そこはやはり同じ血を分けた姉妹だからというべきだろうか。
高山はるかが空と高原の境を見ながら、苦笑を浮かべたその時であった……
(…………!!)
風が吹いた。しかし、ただの風ではない。
黒い風……鋭い殺気のこもった力のある風だ。
咄嗟に刀を抜いて振り返った。本来なら、その行動には多分の隙ができるものだが、そこは流石の護山家『特務役』のまとめ役の高山はるかである。その行動には一分の隙も全くない。ここに高山はるかの実力を見ることができる訳で、風切あやかなどではこうもいかずに、
「私が短刀を抜いて構えた時には、既にはるか様は一閃を入れている……」
と舌を巻いているのだ。
八霊山でも『瞬天のはるか』との異名を持っている彼女であるが、
「む……!?」
相手と向き合った所で、思わずしてその顔に驚きの色が浮かび上がった。
「あっ、あなたは……」
ぽつり、と冷たいものが頬を伝った。雨が草を打つ音が静かに響きだした。
ぽつり、と冷たいものが頬を伝った。
しとしとと雨が草を打つ音が静かに響き渡っている。
向かい合った相手…・・・それは高山かなたであった。
上から下まで、身体の全てを黒い衣で覆っており、その姿はまるで影そのものに見えるし、浪霊とも見える。
しかし、高山はるかが、それを高山かなたと認識したのには一つの特徴があった。
「風竜剣……」
大刀を身体の右側へと構え、そこから更に上へと刀を持ち上げる。そこから放たれる一撃は、まさに雷とも言って良いだろう。強烈な威圧感を纏ったその迫力はまさに震鱗……風竜の名に相応しい。
高山かなた本人も、
「これぞ私の風竜剣」
と誇っていた唯一無二の構えである。
その風竜剣の構えを取る影が、今、目の前に立ちはだかっている。その全身からは凄まじいまでの剣気と殺気が放たれている。
高山はるかは今は特に顔を隠している訳ではない。空も曇り模様であったし、傘や帽子の類は必要ないと思っていたのだ。
従って、相手からは自分の顔が分かっていると見てもよい。ならば、
(どうして自分に刀を向けているのか……?)
と高山はるかは考え、
(あれは本当にあの人なのだろうか?)
本物の高山かなたであるかどうかを疑い始めた。
考えれば考えるほどに疑わしいものだが、何処かにあれが高山かなたであるという認識が自分の中にあるのは確かなのだ。それが何故なのかは分からない。だが、
(本物かどうかは分からない……しかし、まずはあれを倒さなくては……)
考えることはすぐに止め、相手へと意識を向けた。
迷いはない。そこの判断や覚悟はさすがの高山はるかといえよう。
例え相手が実の姉であろうとも、こちらに牙を剥き襲い掛かってくる以上は倒さなければならない。
高山かなたは、依然、天へと刀を構えている。
その構えにより、開いた身体へと……高山はるかは瞬時に間合いを詰め、疾風の一閃を打ち込んだ。
風竜剣も吼える。
構えた刀がさも雷を纏った風竜のように大地へ降り立つ。
小太刀と大刀が正面からぶつかり合った。振動と衝撃が場の空気を震え上がらせる。
「…………!!」
その余韻が消えた頃、二人は後ろへと飛び退った。
高山はるかの手が小刻みに揺れている。びりびりと大岩へ刀を打ち付けたような痺れが走っているのだ。
今、この二人の距離は2間ほど開いており、高山かなたの大刀を持ってしても斬りかかるには、踏み込みを要するだろう。
高山はるかは震える手にぎゅっと力を込め、小太刀を握り直した。腰を沈めて前へと構えを取った。同じくして、向かい合う高山かなたも、再び、風竜剣の構えをとっている。
一つまた一つと雨が落ち、絶え間がなくなった。
雨が草を叩く音がしきりにたっているが、この場の二人には既にそれは聞こえていない。
きっ……と双方が目を見張った。もはや、この場所ではこの二人しか存在していない。
雨も風でさえも感じない。
「まるで時がとまっているようでした……」
後に高山はるかはこう語っている。
二人の体から発せられる鋭い剣気の前には、鳥や動物などには全く入る余地がない……間に入るものが何一つ存在しないものだから、
「時が止まっている……」
のである。
それだけに、その場の緊張の糸はぴぃんと張り詰めており、今にも音を立て切れそうになっているのだ。
絶え間のない雨はたちまちに強くなり本降りとなった。
二人の衣が雨に濡れて黒ずんでいく……。
雨粒が、草を、地を叩く音だけが、神風高原に響いていた。
(これ以上、雨に濡れては……)
焦ってはいないが、ただ衣が濡れれば動きに支障が生じることを高山はるかは案じた。
なればこそ、今をもって高山かなたへ、
(打ち込もう)
そう思い切って覚悟をした時のことだった。
「はるかさまー、大丈夫ですかー!」
突如として緊張感のない高い声が、辺りへこだましたのである。
これには、流石の高山はるかも驚いて、気がそちらへ向いてしまった。
「…………むうっ」
ちらりとそれを見ると、見慣れた、何処か頼りない姿の人影が一つ……
少し大きめの着物を纏い、腰元に巻いた帯が正面でリボンとなり余った帯がひらひらと足の動きと共に揺れている。
柿留しょうであった。書類整理の柿留しょうである。
思わず、ちっ……と舌を打った高山はるかは、すぐに意識を高山かなたへと戻したが、
すでにそれは遅かった。
「あっ……」
黒い影は身をひるがえし、走り去っていたのだ。
高山はるかにとっては、
「こちらに向かってくる」
とばかり思っていただけに、これにはとても驚いたと共に、その場で追うことは叶わなかったのだ。
なんせ、意識を向けた時にはすでに走り去っていた高山かなただった。
恐らく高山かなたは書類整理の柿留しょうを増援と見なし、勝負を諦めたのだろう……と高山はるかは思った。ともかく、高山かなたには逃げられてしまったのだ。
ざっざ、と草をかき分け、柿留しょうが駆け寄ってきた。その手には番傘が握られている。
そして高山はるかの前に立ち、ふぅふぅと息を吐くと、
「ほら、今日は雨が振るって言うので、傘を持ってきましたよ。ちょっと一足遅くて、もうぽつぽつと降ってきちゃってますけど……って、あれ?」
柿留しょうは目を丸くした。というのも、高山はるかの手に小太刀が握られているのに気付いたのだ。
雨に濡れた小太刀が空の灰色と同じ様に鈍く輝いている。
柿留しょうは罰の悪そうに顔を白くして、
「も、もしかして……何かあったのですか……?」
恐る恐る尋ねてきた。
これに対し、高山はるかは柿留しょうに気付かれないよう、
「ふぅ……」
小さく鼻で溜息を吐き、
「……はい。傘、ありがとうございます」
こともなげに手を伸ばし、傘を受け取った。その手は先程まで小太刀が握られている手だった。だが、その小太刀はいつの間にやら、腰元の鞘へと納められている。
「あれ……はるかさま……?」
目を白黒させている柿留しょうであったが、高山はるかが、優しく微笑みながら傘を受け取ってくれたので、
「あっ、はい!お役に立てて何よりです」
と、これ以上のことは口にはしなかった。
降りしきる雨がいよいよ強くなってきた。空を覆う雲の灰色も濃さを増して、辺りは夕暮れのように薄暗くなり始めている。
ぼつぼつと雨が傘を叩く音も騒々しく聞こえている。
その様子を見て高山はるかは、柿留しょうへ向かい合い、
「今日はもう引き上げます。一緒に帰りましょう。……そうです、どこかで夕飯でも食べていきます。何か食べたいものはありますか?」
「えーと、あ!『せいりゅう』のお蕎麦が食べたいです。あそこにちょっと前に入った人が良い人なんですよ。その人が握ったおにぎりがとってもおいしくてですね……名前は……あぁ、川岸みなもさんって言うんですよ。話やすいし、本当に良い人でして」
二人は傘を差し、歩き出した。
高山はるかは、にこにこと笑いながら語りかけてくる柿留しょうへ、うんうんと頷きながら歩いた。雨は強く降っているが、柿留しょうの楽しそうな声はそれを撥ね退けるほどに、明るくはきはきとしているのだ。
(しょうはいつも楽しそうですね……それにしても……)
屈託のない柿留しょうの笑顔を見る一方で、高山はるかは考えていた。
(あの構えと力強さ……あれらはまさしくあの人のものだった。……しかし、あれがあの人である確証は何もない。けれども、私はあれをあの人だと思っている……これは一体どういうことなのだろうか)
このことであった。




