カゼキリ風来帖(2)水霊の儀の章
「れいさま、れいさま」
「何だい?」
「私は一体何者なのでしょう?」
季節は夏、川辺を避けるように生えた木々の間から、太陽の光が水面へ差し込んでいる。
夏の太陽の光を受けた水面はきらきらと透き通り、まるで青い空を映し出したように澄んでいるではないか。
その青い空の下、その川辺に向かい合うように座っている二つの人影があった。
一人は白い肌の輝く蒼水れい、もう一人は少し前まで人間であった川岸みなもである。
先の<八霊名水>の一件以来、蒼水れいは川岸みなもを実の我が子のように可愛がっている。もっとも、歳や背格好は殆ど同じなもので、傍目から見れば姉妹のようであるのだが……
「あー、そういえば、何だろうねぇ」
蒼水れいははぐらかして答えた。これについては、当のれいもあまり分かってはいない。分かっているとすれば、八霊名水の力により汚れを祓われ、そして人間ではないということなのだ。
暖かい太陽の光に当たりながら、蒼水れいは適当な返事を考えていた。
その時である。
「ん、ありゃあ……」
目の前に奇麗な緑の魚が流れてきた。
翡翠のように太陽の光を受けて輝くその体は、まさに宝石と言えよう。しかし、それは宝石でもただの魚でもない。蒼水れいはそれを知っていた。
「げえっ……こいつは……」
「どうしたのですか?れいさま」
蒼水れいは嫌そうに顔を歪めて驚愕していた。彼女のそんな表情は滅多に見れるものではない。もし、この顔を風切あやかが見たものなら、
「お前にも怖いものがあるんだな」
と、驚くよりも嘲笑を浮かべることだろう。
……それで、その蒼水れいが嫌そうに見た魚なのだが、その正体は水霊さまの使いなのである。
水霊さまといえば水の精霊の頂点に当たる存在で、八霊山の中でも有数……いや、殆どその頂点ともいえる神様なのだ。<護山家>風切あやかや<水の精霊>蒼水れいなどにとっては、まさに雲の上の存在だ。
さて、話を戻そう。
水霊さまの使いたるその魚、体長にして30cmほど……そんなに大きくはない。それが口をぱくぱくと動かした。
「はあはぁ、分かりましたよ」
一つ溜息を吐くと、蒼水れいは岩場から立ち上がった。
それ以上は何もせず、水霊さまの使いの魚は、すぅーと流れに逆らい上流へ泳いでいった。
緑色の光は何処まで行ってもきらりと光っている。やがて見えなくなった。
川岸みなもがその様子を目で追っていると蒼水れいが肩を叩いた。
「ほら、行くよ。みーなのことで水霊さまが呼んでるってさ」
「あっ、はい」
蒼水れいは「水霊さま」と口にはしたものの、川岸みなもは水霊さまが何たるかを全く持って知ってはいない。その為、状況が飲み込めていない川岸みなもであったが、蒼水れいの言うことを拒否する選択肢は持ち合わせてはいないので、同じくして立ち上がった。
その胸には何やら不安が広がっている。
その一方で蒼水れいは……
(あぁ、私ばかりが怒られるのは嫌だ。……そうだ、あやかを連れて行こう。この一件にはあやかの奴も関わっていることだし)
と、自分達の頂点たる水霊さまに呼び出された恐怖をひしひしと感じていたという。
水霊さまの御社は、八霊山が随一の滝「蒼流の滝」の裏側にある。
轟々と、天龍が地上へ降り立つように流れる水は如何なる者もその裏側へは通さない。そんな「蒼流の滝」の裏側にある水霊さまの御社であるから、まさに聖域と言えよう。
そんな聖域には水の精霊のみが入ることができるのだ。
水の精霊ならば「蒼流の滝」の裏へ立ち入ることを<滝>は拒まない。用がなくとも入ることは許されている。
しかし、そうであっても水の精霊は易々とこの水霊さまの聖域へは足を踏み入れない。というのも、
「水霊さまが怖い……」
のである。
現代……特にこれを読んでいる読者には分かるだろうが、自分よりも立場が上で大いなる権力を持つ者には頭が上がらないのだ。
したがって、一部の水の精霊を除いては、ほぼ何の出入りはない。
まったくもって聖域である。
さて……
たった今、蒼水れいと川岸みなも、それに風切あやかは「蒼流の滝」の裏側へとやってきた。
上記のことであれば、蒼水れいに連れられてやってきた風切あやかと川岸みなもは、
「蒼流の滝」の裏側へは入れないはずなのだが、ここに一つの例外がある。それは、
「水の精霊が居れば入ることができる」
というものだ。
3人の内に水の精霊たる蒼水れいが居るからこそ、川岸みなもと風切あやかは「蒼流の滝」の裏側を歩いているのである。
「蒼流の滝」の裏側は暗くじめじめとしている。そんな中で、
「なんで私が……」
と、早くも風切あやかが文句を言い始めた。
「まぁ、まぁ、気にしない気にしない」
蒼水れいは笑ってそう言うが、当の風切あやかは到底納得できない。
そもそも蒼水れいが風切あやかを誘った言葉が、
「川岸みなもの件で、水霊さまに呼び出された!お前も一枚噛んでいることだから、一緒にこい!」
なのである。
無関係を装い、誘いを無理矢理に断っても良かったものだが、それで水の精霊達と因縁を付けられては堪らない。
水の精は本当に正体不明で厄介な連中なのだ。
それにしても……
「一体、水霊さまは何者なのでしょう?」
川岸みなもが言った。
それには風切あやかも、ぴんと眉を上げた。確かに、それは気に掛かっていることだった。
「そうだね。私の知る範囲じゃあね……」
蒼水れいが水霊さまについて歩きながら語り始めた。
大まかにそれを要約すると、
一つ、水霊さまは八霊山の水を司る神さまであること。
一つ、八霊名水により水霊信仰を広めるよう、水の精霊に命をしていること。
……の二つのことであった。
それを聞いて、
「ふうん」と、風切あやかが鼻を鳴らし、
(別にどうでもいいや)
小さく頷いた。
一方で、その話を聞いた川岸みなもはというと、
(そんな人が一体何の用なのだろう?怖くなければ良いのだけれど……)
と、大層に驚いては、少しばかりの恐怖を胸に抱いていたという。
さて、2分ほど歩を進めたところで、正面に小さな社が見えてきた。
特に気の利いた装飾も何もない、鳥小屋のような社である。
「さ、着いたよ……じゃなかった。あぁ、水霊さま。蒼水れい、蒼水れいでございます」
ぺこりと余所余所しく蒼水れいが頭を下げる。風切あやかはそれを見てはっとした。
どうやら本当にあの小さな鳥小屋が水霊さまの八代であるらしい……
それを察すると、風切あやかも小さくではあるが頭を下げた。
次いで川岸みなもも頭を下げた。
するとである。
「きたか。今回の話はその女、川岸みなものこと」
何処からともなく声が響いた。洞窟の反響により高くとも低いとも言えぬ不気味な声だ。
風切あやかは、そのままの立ち位置で、右へ左へと目配せをしてみたが、
どうにも声の主を見つけることはできなかった。
ただ、何者かの気配だけが声と共に四方八方から発せられているのだ。
不気味な声は続く……。
「川岸みなもを水の精とする準備がある。受けるか否かはおまえ次第。受けなければ浪霊となる。人間でも山の者でもない。浪霊となれば、いずれ精神は消え、山を汚す亡霊と化す」
その声はまるで滝のようだった。いくつもの轟音が反響して力のある声となっている。
だから、この声に名指しされている川岸みなもは堪ったものではなく、
(……どきり)
と、心臓を掴まれているような威圧感を感じていた。
「あわわ、えらいこっちゃ!」
「わっ、わたしはどうしたら良いのでしょうか?」
蒼水れいと川岸みなもは慌てふためいている。風切あやかはというと、
(私にとってはどうでも良いな。まぁ、浪霊となったら全力で消し去ってやるかな)
などと平静に考えていた。
さて、水霊さまの声はなおも響く……
「準備とは人間を殺すこと。丁度、人間が山へ入ろうとしている。川岸みなも、これをお前が殺せ」
「わ、わたしが人間を……?」
元は人間であった川岸みなもだが今はもう人間ではないし、人間だったときの記憶もない。従って、人間へかける情けは持ち合わせていないといえる。
だから別に、「人間を殺せ」と言われてもそれは、
「蟻や羽虫を何気なく潰すこと」
と変わらないのである。
そうでありながら、川岸みなもはそれを飲み込めずにいた。
(わ、わたしが人間を……)
何やら黒いもやが胸の中に広がっている。何とも嫌な心地が全身へ麻痺毒のように回っている。
川岸みなもは動けずに居た。
隣に居る蒼水れいなどはこうだ。
(あ、なんだ。そんなことか。案外ちょろいものだね)
ほう、と胸を撫で下ろし生きた心地を味わっている。
そして風切あやかはというと、
(ふん。人間を殺すのは私の仕事だというのに……)
という不満顔である。しかし、そんな顔もすぐに変わった。
あの声が響いたのである。
「申し訳ない。護山家。本来はあなたの役目であった。だが、我慢して欲しい。我が同胞となる川岸みなもの為」
先程までと変わらぬ調子の声であったが、言葉を向けられた風切あやかにとっては感じるものが全く違う。それは、
「刀を喉笛に突きつけられているような……」
感じであったのだ。
狼の赤く鋭い眼差しに射抜かれるような感覚がある。ぞくりとした寒気が全身を駆け抜ける。
気付けば、風切あやかは小さく構えをとっていた。そして頷いていたのだ。
「話は終わった。行きなさい」
その声が消えると、全ての気配が消え去った。
あれだけあった威圧感も激しい寒気もまるで、
「何事もなかったように……」
全身から消えていたのである。
「さあ、行こうかね」
蒼水れいが歩き出した。
どうやら一刻も早くこの場から去りたいらしい。
「ああっ、待ってください。れいさま」
次いで川岸みなもが蒼水れいの後を追った。
小走りではあるのだが、その胸はまるで全力で走っているように高鳴っている。
(わたしが……人間を……)
心のどこかでそれを嫌に思っているのかも分からない。
ただ、思うことは一つだけ、
(でも、わたしがわたしである為には……やらなくちゃいけない)
なのであった。
風切あやかは、ただ鳥小屋のような水霊さまの社を見つめていた。
やがて蒼水れいが自分を呼ぶまでの間のことだった。
さて、風切あやか達が水霊さまの話を聞いていた頃。
水霊さまが仰っていた件の人間は八霊山の入り口へと差し掛かっていた。
大きな登山リュックを背負った人間は高矢清子、人間である。
彼女は行方不明になってしまった親友の川岸みなもを探して八霊山へやってきたのだ。
(……みなもちゃん、生きてるよね……)
みなもが友人2人と行方不明になってから、もう5日が経っている。勿論、捜索願は出されている。
……しかし、どういった訳か、彼女達が入っていったとされる霊山「八霊山」には捜索の手が全く入らないのだ。
「八霊山には何か不思議な力があるの」
川岸みなもは、よくそう言って八霊山の話を聞かせてくれたものだ。
不思議な力……もしかしたら、捜索の手が全く入らないのはそのせいなのではないか?そう、高矢清子は考え、自ら八霊山へ入ってきたのである。
八霊山の空気は澄んでいて気持ちが良かった。さんさんとした太陽の光を受けて、木々や草花が生気に満ち溢れている。
歩を進めるたびに高矢清子はそれを感じた。
不安の中に徐々に希望が見えてくるようにも思える。
少し進むと、広く開いた場所へ出た。側には深い緑色の苔の生えた岩がある。
ここは、かの川岸みなもとその友人2人が風切あやかによって殺害された場所である。
もっとも死体は片付けられているし、血の跡も残ってはいない。まさか、この場所でそんなことがあったなどとは高矢清子は夢にも思えなかっただろう。
それより、彼女は重要なことに気付けてはいなかった。
というのもこの時、
「彼女を見張っている人影があった」
のである。
「……あいつだ」
林の影で、低くうなるように風切あやかが呟いた。
これまた高矢清子は気付いていないが、風切あやかの殺気は相当なものである。
「待った待った……あいつを殺すのはお前さんじゃないって」
思わず、蒼水れいが諭した。
そして、ちらりと横に居る川岸みなもへ目をやった。
(……私が……人間を……)
何やら緊張した面持ちだ。顔は下を向いている。
それを見かねて蒼水れいは、
「ほら、行きな。さっさとやらないとあやかの奴が横取りしちまうよ」
と、ぽんと川岸みなもの背を押してやった。
「あっ……」
小さく声を上げながら、川岸みなもは林の影から開けた場所へと躍り出た。
ざっ、という土を蹴る音が静かな八霊山に響いた。
それを聞いて高矢清子は振り返った。たちまち、
「みっ、みなも!?」
「えっ……あっ……」
双方、心に水滴が落ちる。動きが止まった。
目を大きくしている高矢清子に川岸みなもは驚き、戸惑った。
(わたしの名前?あの人間は……)
心の何処かで自分はあの人間のことを知っている気がする。だが、それがどうして、何故なのかは、今の川岸みなもは知る由もない。
勿論、高矢清子はそういった川岸みなもの心情など知ったことではない。
「今まで何処にいたの?さ、帰ろうよ」
そう言って、手を差し伸べてきた。
以前までの二人の関係ならば、その手をみなもは取っただろう。しかし、今の川岸みなもは、
(あの人間は一体……)
その手を取れずにいる。
「どうしたの?さぁ、帰ろうよ!」
じりじりと距離が詰まる。
「えっ……ああ……」
一歩、二歩と後ずさる。
その様子はとてもじれったいもので、
「何をしているんだ。みなもは……さっさとやってしまえば良いのにさ、ねぇ」
「ぐずぐずしているようなら、私がやるぞ」
などと、それを見守る蒼水れいと風切あやかは呟いていた。
ついでに言えば、この時、風切あやかの手には黒色の短刀が握られていて、
木漏れ日を受けてはぎらりと鋭く輝いていたものだった。
さて……
実はこの短刀、川岸みなもの腰元にも下がっている。
これは蒼水れいに頼み込まれた風切あやかが、しぶしぶ貸し出したものだ。
短刀を振るえばたちまちに高矢清子など殺してしまえるものだが、そこは今まで殺しとは縁のない川岸みなもだけに中々それを掴むことができない。
「え、まさか私がわからないの?」
不意に声が変わった。
「…………」
川岸みなもはじっとこれを見る。
「私は清子。高矢清子。分かるでしょ?」
「たかや……きよこ?」
「そう。みんな、みなもちゃん達のことを心配してるから……さぁ、帰ろう」
そう言うと、再び二人の距離は詰まり始めてきた。
(……みんな……?)
ぱっとその時、川岸みなもは不思議な光景をみたように思った。
それは見知らぬ人々に囲まれた自分であっただろうか。その中で自分は満面の笑みを浮かべているのだ。
(あたたかい)
温もりを感じる……感じるが、それが一体何であるのかが分からない。
ただ只管に、
(わたしは……わたしは)
自分はどうするべきなのか。川岸みなもはその答えを出そうと必死にもがいていたのだった。
そのころ……
なかなか高矢清子を殺さない川岸みなもに風切あやかは苛立っていた。
鳥の声のような舌打ちを何度も鳴らし、ついには、
「あいつ、まさか私達を裏切ろうとしているのではないか?」
と、どすのきいた低い声を上げつつ、蒼水れいを見やり、
「もういい。わたしが」
小さく言い放ち、すっと茂みから立ち上がろうとするのを、
「待った!待った!だから待った!」
と、蒼水れいが風切あやかを引き止めた時である。
不意に事態が動いた。
「ほらほら……おぉ?」
にやりと笑みを浮かべながら、蒼水れいが指を示した。それを見て風切あやかは、思わず前進の動きを止めたものだ。
「えっ……」
焼け付くような痛みが全身に走った。身体の至る所が何者かによって切り裂かれ、
赤い鮮血が吹き出している。
高矢清子はそんな自分を見てから、川岸みなもへ目を向けるまで、意識を保つことは出来なかった。
(みっ……みなも……)
瞬く間に視界はぼやけ、意識は赤い空へと吸い込まれていく。
これが川岸みなもを追ってきた人間、高矢清子の最期であった。
日は傾き、辺りが赤く染まり夕闇少しずつ辺りを蝕み始めている。
夕方の明るい橙色の太陽を目に焼き付けながら、
「…………」
川岸みなもは呆然として、目の前に倒れている人間を見つめていた。
先程まであった心のざわめきは、今はもう静まり返っている。
茜色の雲が太陽を隠した。夕闇がどっと深くなる。
しかし、それもつかの間の事であった。
「やったね。みなもよ。これで晴れて私達の仲間だよ。歓迎するよ」
にこにことした屈託のない笑顔である。本気で川岸みなもを仲間として迎え入れることを喜んでいるようだった。川岸みなもも、
「あっ……ありがとうございます」
何だか嬉しくなり今までのことを忘れ、新たな自分を手に入れたことを喜んでいた。
それから3日ほど経ったある日のこと。
風切あやかはいつもの川縁で蒼水れいにある話をした。
「それで、あの人間を殺したアレは一体何だったんだ?」
あの時、水の精の仲間入りを喜んでいる蒼水れいと川岸みなもを尻目に、風切あやかは人間の死体をじっと眺めていたものだ。
あの人間……高矢清子を殺したあの斬撃は、短刀を握っていた川岸みなもの仕業でなければ、自分の仕業でもない。それならば、一体何の仕業であったのか……?どうでも良いことでありながら、風切あやかはそれがずっと気になっていた。
「あぁ、あれはね」
特に気兼ねする様子もなく、蒼水れいは小さく笑顔を浮かべながら、
「あれはね、水を汚すものにかかる水霊さまの呪いさ。あの人間、何処かで山の水を汚したんだろう。だから死んだ。水霊さまの力でね」
と、言った。
(ふん……水霊さま……か)
風切あやかはふと思い出した。
あの人間が倒れた時の蒼水れいのあの笑顔、そして、血の気の引いた顔でその様子を見つめていた川岸みなもを……。
「れいさまー。あ、あかやさまも」
そうしている内に使いに出ていた川岸みなもが帰ってきた。
今はもう、その顔は水面に映る太陽のように輝いている。




