七話
ある日、千歳は母に言った。
「ねえ、お母さん。あたし、今日頭痛いんだ。学校休んでもいい?」
そしてつらそうに目をつぶり、こめかみを指で押した。
これは嘘だ。本当はいつもどおり元気だった。しかし学校に行きたくないので仮病を使うことにしたのだ。家から出なければ、傷つくことはない。千歳は生まれて初めて仮病を使ってみた。
「頭が痛い?」
母は驚いたように言い、じっと見つめてきた。千歳の心を見透かすような目だ。
千歳はどきどきした。ばれるのではないか、と不安になってきた。
「うん。すごく頭が痛いの。だから……」
千歳が言うと、母は小さな声で答えた。
「じゃあ、頭痛薬飲んでから学校に行きなさい。あの薬、すごくよく効くから」
千歳は冷や汗を流した。そのような答えを予想していなかった。
「いや、あの、学校休みたい……んだけど……」
しどろもどろに言うと、母は鋭い目つきで見下ろした。
「だめよ。ちゃんと学校に行かないと。勉強遅れたらまずいでしょ」
「でも、家にいたいの」
千歳はお願いするように手のひらを合わせた。そしてぎゅっと目をつぶった。
しかし母は態度を変えない。さらに冷たい言葉を投げかけた。
「学生はちゃんと学校に行くの。お母さんは学生の時、一度も休まなかったわ。薬飲めば頭痛なんてすぐに収まるわよ。早く制服に着替えてきなさい」
千歳は俯いた。やはり都会育ちの人間は冷たいのだと思った。
もし早苗だったら、すぐに休ませてくれるだろう。病院にも連れて行ってくれるかもしれない。というより、田舎だったら仮病なんて使わない。
仕方なく千歳は制服に着替えて、学校に行った。また透明人間扱いされるのだろうと思うと気が重くなった。
「今日、私、頭痛いので、体育見学したいんですけど……」
三限目は体育だった。授業が始まる前に、千歳は担任に言った。担任は頷き、「保健室に行きなさい」と言ってくれた。体育だけでも休められたことが、幸いだった。
千歳はベッドに横になり、天井を見つめた。小学生の時の楽しい思い出が、白い天井に浮かび上がった。仲の良かった友達、優しい先生、そして大好きな早苗おばあちゃん……。
考えながら、千歳は寂しくなってきた。涙もあふれてきた。
早苗おばあちゃんが、お母さんだったらよかったのに……。
朝の母の顔を思い出し、千歳は悲しくなった。どうして母はこんなにも自分のことを愛してくれないのか。
言ってくることが、どれも厳しすぎるのだ。遅くまで遊びに行くんじゃないの、もっともっと勉強しなさい、千歳のことなんてどうでもいいって思ってる……。今までずっと一緒にいて、母親らしいことを言ってくれたことは一度もない。どれも千歳を傷つける言葉だけだ。
そのため、ほとんど早苗が千歳の面倒をみた。千歳はずっと早苗が母親だと思っていた。あの髪の長い女の人は誰なの?と早苗に聞いたこともある。
都会が大嫌いだという理由は、もしかしたら母のせいかもしれない。
その後の学校生活はいつもと一緒だった。誰からも相手にされず、とぼとぼと帰り道を歩いた。
そしてもう一つ、千歳の心を重くしていたことがあった。
みんなが持っている、持ち物のことだ。
千歳はアクセサリーやお化粧道具を持っていない。おしゃれに興味がないというわけではなく、母が買ってくれないのだ。見る度に「ほしい」という気持ちになり、羨ましくて仕方がなかった。
おしゃれ道具以外にもほしいものがあった。ケータイだ。周りの子達がケータイで遊んでいると、千歳はまるで自分が笑い者のように感じてしまうのだ。この時代にケータイを持っていないなんて、ありえないよね。そう言われているような気がした。
ケータイを持っていれば、少しは距離が縮まると千歳は思った。例え田舎育ちでもケータイを持っていれば、仲間に入れてくれるのではないか。
さっそく千歳は母に言ってみた。
「お母さん、ちょっと教えてほしいんだけど」
動揺を抑えながら話し始めた。
「あの……、ケータイって、だいたい、いくらぐらいするのかなあ……」
すぐに「買って」と言うのはやめた。遠まわしにケータイを買ってほしいと思わせるのだ。
「ケータイ?」
料理の手を止め、母は振り向いた。少し機嫌が悪そうな顔をしていた。
「何?ケータイ?ほしいの?」
母のストレートな質問に、千歳は冷や汗を流した。
「ううん。ただ、学校のみんなが持ってるからさあ。いくらぐらいするのかなあって気になったんだ」
別に興味などないという軽い口調で千歳は答えた。
しかし母はきっと気付いているに違いないと思っていた。母の顔がさらに不機嫌そうに変わっていったからだ。
「ケータイがほしいの?ごまかさないで、ちゃんと言って」
母の目に、千歳は動揺した。本当のことを言ってしまったら、次はどんな顔をするだろう。
「違うって。ほしいんじゃなくて、ただ値段が気になっただけだって」
慌てて言うと、母はまた心の中を見透かすように千歳を見つめ、小さくため息をついた。
「買わないわよ」
「えっ」
凍りついたような母の言葉に、千歳はどきりとした。
「ケータイなんて、中学生は持っちゃだめよ。中学生がやることは、勉強なの。ケータイなんか持ってたら、成績悪くなっちゃうでしょ」
千歳は俯いた。やはりだめか、と残念で仕方がなかった。
さらに母は続ける。
「学校は、学ぶところなの。ケータイで遊ぶところじゃないの。それにまだ中学生なのにケータイを持たせるなんて、どれだけ子どもに甘いのって思うわ」
千歳は泣きたくなった。他人の親が子どもに甘いのではなくて、自分が子どもに厳しすぎるということに気が付いていないようだ。
「……でも、ケータイを持ってたから、帰り道で迷子になった時に場所がわかったってこと、聞いたことあるけど」
そっと呟いたが、母はそれを無視した。
「千歳はただ勉強だけしてればいいのよ。ちゃんと勉強して、有名な高校に受験して、立派な大人になればいいの。そうしてくれないと、お父さんもお母さんも恥ずかしいでしょ」
そう言ってまた料理を再開した。もう何も聞かないということだ。
千歳は自分の部屋に入り、膝を抱えた。そして母が言ったことを頭の中に浮かべた。
子どものことなど、全く考えない。
子どものせいで恥ずかしい思いをしたくない。
子どものことじゃなくて、自分のことしか考えていない。
それが自分の母親なのだ。