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四十話

 千歳は誰にも会わないようにずっと部屋の中に引きこもっていた。そして何度も考えていた。初恋というものはもっときらきらと輝いていて、どきどきしたりわくわくしたり、そういうものではないのか。こうして心を痛めながら一人きりで泣き続けることが、初恋なのか。

 貴広との別れは、死ぬことよりもつらいと千歳は感じた。好きな人と別れた時、女の子たちはみんなこんな想いで過ごすのか。新しい恋がやってくるまで、こうしてずっと泣き続けるのか……。恋は嬉しいことだけではなく苦しいこともあるのだと千歳は思った。

 千歳はもう泣くのをやめて眠ることにした。小さい時から、嫌なことがあった時は寝てしまいなさいと早苗に言われてきた。何もかも忘れて、ぐっすりと眠ってしまえと。もしかしたらそれは全部夢の話なのかもしれないと。よろよろと押入れから布団を取り出し、畳の上に敷いた。

 そして千歳が布団に入ろうとした時だった。突然凄まじい勢いで襖が開かれた。こんな開け方を早苗たちがするわけがない。千歳は音のした方に目をやり驚いた。

 そこには、般若はんにゃのような顔をした明子が立っていた。恐ろしい目で千歳を睨みつけている。千歳が声を出す前に、明子は部屋に入ってきた。

「あ……あんた……」

 怒りで声が震えている。千歳は何も言えず、明子の顔を見ていた。

「どうしてくれんのよっ」

 叫ぶように明子は怒鳴った。全く意味がわからず、千歳はがくがくと体を震わせた。

「あんたがいなければ、貴広はずっとあたしの恋人だったのに……。ずっと二人で幸せでいられたのに……」

「な……何を言ってるんですか……」

 ようやく千歳は声を出せた。しかしほとんど聞こえない大きさだった。

 ぜいぜいと息を荒くし、明子は恨むような口調になった。憎しみの目で少しずつ近付いてくる。

「あんたが言わせたんでしょ……。貴広に、別れてくれって」

「えっ」

 千歳の体中から汗が噴出した。何のことか全くわからない。

「そんなこと言ってません……。何の話ですか?全然わからな……」

「嘘つかないでっ」

 明子は鋭い眼力で千歳を睨んだ。千歳は指一本動かせなくなっていた。

「あんたのせいで、あたしの人生はめちゃくちゃになるのよ。貴広が側にいなかったら、あたしはどうやって生きていけばいいのよっ」

 千歳は石のように固まった。何の話をしているのだろうか。

 顔を近づけ、明子はまた金切り声を出した。

「貴広はあたしのことを捨てた……あたしのことを害虫女だとか言って……絶対に許さないっ。あんたがいなければ、あたしと貴広は幸せでいられたのにっ」

 衝撃を受けた。貴広が明子を捨てた……?まさかそんなことが起こるとは……。

「違います。あたし、貴広さんにそんなこと言ってませんっ」

 必死に首を横に振ったが、明子は聞く耳を持たなかった。

「うるさいっ。あたしの貴広を返してよっ。あたしが不幸になるのが嬉しいんでしょっ」

「そんなこと……」

 もう一度声を出したが、千歳は自分の心の言葉にはっとした。そうだ……。あたしは、明子が不幸になればいいと思っている。明子がいなくなれば、あたしは貴広さんと幸せを同時に手に入れることができる……。

 突然、明子が手を振りかざした。千歳は明子が何かを持っているのを見逃さなかった。あれは……あの光るものは……。

 ……貴広が危ないからと言って触らせないようにした、パレットナイフだ……。

 きゃあああっと声を上げ頭を抱えた。逃げようとしても足が動かない。完全に腰が抜けてしまった。心臓が破裂しそうに速くなる。

「あんたなんか消えてなくなればいい……っ」

 明子の恐ろしい声を聞き千歳は覚悟した。もう自分はここで終わりなのかもしれないと……。初恋が失恋になってしまっただけでなく、自分はたった17年でこの世から消えてしまうのかと……。

 いやあああっと泣き叫び、千歳は固く目をつぶった。



 しかし明子の持っていたパレットナイフは、千歳の上に振り下ろされなかった。千歳は小さく目を開けた。そしてぎくりとした。明子はぐったりと畳に倒れ、その横に貴広の足が見えた。恐る恐る目を上の方に持っていくと、貴広が石のように固まっていた。どこを見ているかわからない目で、呆然としていた。

「……貴広さん……」

 千歳が小さく声を出すと、貴広は我に返ったように千歳の顔に目を向けた。手に持っていたパレットナイフが畳の上に落ちる音がした。

 千歳は何が起きたのか気が付いた。明子の怒声を聞き貴広はここに飛んできた。そしてすんでのところで明子の手からナイフを奪い取った。どうして明子が倒れているのかはわからないが、とにかく自分は助かったのだ。

「あ……あの……」

「ごめん、千歳ちゃん」

 貴広の消え入りそうな声が聞こえた。千歳は不安でいっぱいになった。

「……ごめんって……?」

 無意識に声が出た。すると貴広は顔を両手で覆った。

「僕が悪いんだ。僕が、全部悪いんだ……」

「わ……悪い……?」

 嫌な予感がした。しかし逃げることはできなかった。

 貴広は小さく頷き、呟いた。

「明子が異常になったのは……僕のせいなんだよ……」

「え……」

 貴広は足の力が抜けたようにその場に座り込んだ。千歳は貴広が深い闇に吸い込まれていくように見えた。

 


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