三十九話
貴広が石のように固まっていると、明子は部屋に入ってきた。
「貴広、帰りの支度は終わった?」
明子の声を聞き、貴広はゆっくりと答えた。
「……言っただろう。まだここにいたいんだって」
すると一気に明子の目が吊り上った。
「あたしは早く東京に帰りたいの。こんな汚いところにいたくないの」
貴広は顔を上げ、明子の不機嫌な顔を見つめた。
「お前、本当に自分勝手だな。僕の話も聞いてくれよ」
「自分勝手?あたしが?」
「そうだよ。お前は自分勝手。他人の都合なんかひとっつも考えない」
明子は面倒くさそうな口調で命令をするように言った。
「何度言えばわかるの?彼氏は、彼女の言うことを聞くのが役目なの。彼女のためにだったら何だってやってやる。それが彼氏の仕事。貴広は今まで一度もあたしの言うことを聞いてくれなかった。お前を護るとか言って、一体いつあたしのことを護ってくれたの?貴広も彼氏らしく、あたしのために何かやってよ」
貴広は声を低くし、明子を睨みながら言った。
「何度言えばわかるんだよ。僕はお前のことを恋人だと思っていない。好きだと思ったことは一度もないんだ。何が彼氏だ。僕はお前の彼氏になんかなりたくなかった」
明子は貴広を睨み返した。しかし何か思いついたように目を大きくすると、にやりと笑った。
「そういえば、廊下を歩いてたら部屋からあのガキの泣き声が聞こえてきたわよ。あと、あの貧相なばあさん」
貴広はぐっと身を硬くし、俯いた。
「この田舎からもうすぐ帰るって言ったんだ。明子がもう東京に帰りたいって言ってるって。千歳ちゃん、大泣きしてた。ひどいことをした……」
かすれた声でそう言うと、明子はにんまりと笑った。
「どこがひどいのよ。あたしのことを馬鹿にした罰よ。学校にも行っていない頭の悪いガキが、ちゃんと大学に通ってるあたしのことを馬鹿にしたらいけないのは当然でしょ。そんなことでくよくよするなんて、あんた小心者ね」
貴広は怒りを通り越して愕然とした。この女は悪魔の化身なのかと疑った。
「さ、早く帰り支度をして。このゴミ捨て場みたいなところからさっさと脱出しましょ。あたしたちは立派な都会人なんだから」
にっこりと笑う明子を見て、貴広は完全に言葉を失っていた。ここに来てからこの桜の舞にどれだけ世話になったのか、この女は気付いていないのか。毎日三食食べさせてもらい、寝る場所まで与えてくれた。しかも金はいらないと言ってくれたのだ。それなのにゴミ捨て場だと……。
「帰りの支度をしなさい、貴広。ほら早く!」
明子の声を聞きながら、貴広は決意した。もう我慢できない。これ以上、この女のいいなりになりたくない。
「一人で帰れ」
「は?」
貴広の言葉を聞き、明子は首を傾げた。
「何言ってるの。あんたも一緒に帰るのよ。恋人を一人きりで帰すなんてだめよ。何かあったら大変でしょ?」
貴広は首を横に振った。完全に明子を軽蔑していた。
「もうお前のわがままに付き合っていけない。帰りたいなら一人で帰れ」
「わがまま?」
明子は目を鋭く吊り上げた。気に障ったような口調になった。
「あたしがいつわがままなんて言ったのよ」
「うるさいっ」
怒りと興奮で、貴広は勢いよく立ち上がった。息が荒くなる。
「僕のことを何だと思ってるんだ。僕はお前を護るために生きているんじゃない。僕にだっていろいろとやりたいことがあるんだ。もういい加減にしてくれ。僕のことを自由にしてくれ」
明子は馬鹿にするように貴広を見た。
「自由にしてくれ?いつだって自由じゃない。あんたのことは彼氏だって思ってるわ。変なこと言うのね」
「嘘だ。お前は僕のことを束縛している。僕のことなんかどうだっていいって思ってるんだ」
明子は貴広から目を離し、うんざりするようにため息を吐いた。
「貴広のほうがわがままじゃない。子どもみたいなこと言わないでよ。ほら、さっさと支度をしなさ」
「別れてくれ」
貴広は明子を遮り、睨みながら言った。もう限界だった。この女に人生を狂わされるわけにはいかなかった。
「お前のことなんか嫌いだ。大嫌いだ。好きだなんて思ったことは一回もない。さっさと僕の目の前から消えろ。そして二度と僕の前に来るな」
明子は不思議な生き物を見るような顔で言った。
「冗談言ってる暇があったら、早く支度をしてよ」
貴広は微動だにせず、ただ明子を恨むように見つめた。
「冗談じゃない。僕はここに残る。この田舎で千歳ちゃんと一緒に生きる。お前がいると僕も千歳ちゃんも幸せになれない。お前のせいで、僕たちは不幸な目に遭ってるんだ」
「あのガキと一緒に生きる?」
明子は目を丸くした。そして、きゃははははと声をあげて笑った。
「何よ、貴広、おかしなことを言わないで。あんなガキのどこがいいっていうのよ。もしかして貴広、本気であのガキのこと好きなの?」
「好きだよ」
貴広ははっきりと言い切った。そして明子の顔を見つめ、さらに話した。
「僕は千歳ちゃんのことが好きだ。お前とは全然違う、優しくて思いやりのある子だからな。お前とはもう口も聞きたくもないし、顔だって見たくない。僕が護るのは千歳ちゃんだ」
突然明子の顔が真っ青になった。冗談ではない、本気なのだとわかったのだ。
「待ってよ。あたしのこと護るって言ってたじゃない」
しかし貴広は冷たく言った。
「もうお前のことなんか知らない。早く東京に帰ってくれ。もう僕とお前は恋人同士でも何でもない。赤の他人だ。僕の恋人は千歳ちゃんだ」
「やめてよ」
明子は冷や汗を流し、体を震わせた。動揺で何も考えられないようだ。
「あたしのこと護るって」
「もう僕はお前の彼氏じゃない。彼氏じゃないんだから、お前を護ったりしない」
明子は体から力が抜けたようにその場に座り込んだ。そして貴広の足にしがみつこうとした。しかし貴広は明子の手を振りほどき、明子の両手に足をのせた。明子はもう手が動かせなくなってしまった。
「汚い手で触るな。害虫女」
「が……害虫ですって……?」
「そうだ。お前は害虫と一緒だ。みんなから嫌われて、誰もお前に好意なんか持たない。そうやって害虫になったのは自分が悪いんだからな。もっと人に優しくして、思いやりのある心で生きていけばこんなことにはならなかっただろうな」
冷たく言い放つと、貴広は体の向きを変え、歩き出した。
「待って!あたしを一人きりにしないで!」
後ろから害虫女の悲痛な叫びが聞こえても、貴広は完全に無視をし部屋から出て行った。




