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三十八話

 涙を拭きながら千歳は、部屋から出て廊下を歩いていた。貴広が俯いたまま、何も話さなくなったからだ。ここにいてもさらに胸が痛むだけだと思い、自分の部屋に戻ることにした。

 涙は止らなかった。あとからあとからぼろぼろと流れ、頬を伝って下に落ちていく。自分の泣き声が大きくならないように必死に堪えた。

 こんなに泣いたのは、生まれて初めてだ。心がえぐられるように痛む。そして、その痛みをさらに強くさせるのは、自分のある想いに気が付いたからだ。ようやくこの不思議な感覚の正体がわかった。

 貴広の言葉に顔を赤くしたり、胸の中が熱くなったのは、自分が貴広に恋をしているからだ。初恋というものだ。貴広のことが好き。とてもとても好き。貴広と一緒にいたいというのは、恋をしているからだ。幸せだと感じたのは、大好きな貴広がそばにいてくれたからだ。

 まさか自分が誰かを好きになるなんて……夢にも思わなかった。

 どうして今まで気が付かなかったのだろう。しかも、こんな時に……。「別れ」を知った後に……。もっと早く気付けばよかった。そうすれば、こんなに泣くこともなかったはずだ。

 現実の厳しさに千歳は耐えられなかった。貴広はすでに明子という悪女と付き合っている上に、間もなくここからいなくなってしまうのだ。しかももう二度と会えない。何と酷なことだろうか。ほんの少しでも幸せだと思える出来事が起きてもいいではないか。

 もしこの想いを貴広に言ったら、さらにひどい目に遭うと千歳は思った。貴広は困惑するし、明子は怒り狂うに違いない。千歳が貴広と二度と会わないように、あの手この手を使って二人を引き裂くだろう。

 せっかくの大切な初恋は、失恋になってしまった。もう告白なんかしなくても、結果は決まっているのだ。

「ちいちゃん、どうしたの」

 早苗が駆け寄ってきた。困った顔で千歳を見つめる。千歳は目を逸らし、小さな声で言った。

「何でもない。何でもないから」

 しかし早苗は千歳の肩を掴み、さらに心配する顔になった。

「何でもないって……。じゃあ、どうして泣いているの?」

「うるさいっ」

 千歳は声を大きくした。早苗の手を振り払いながら怒鳴った。

「何でもないって言ってるでしょっ。おばあちゃんには関係ないのっ」

 完全に八つ当たりだ。しかし今の千歳に、他人に気を遣うことはできなかった。

 早苗は叱られた子どものように俯き、消えそうな声で謝った。

「……ごめんね……」

 千歳は後悔した。早苗の姿を見て、自己嫌悪に陥った。そこから逃げるように、何も言わずにまた自室に向かうことにした。そうすることしかできなかった。

 しかし早苗の弱弱しい声が後ろから聞こえた。

「……ちいちゃん、言いたいことがあるの……」

 千歳は立ち止まったが振り返らなかった。

 早苗の深呼吸をするような息が聞こえた。とても重大なことを話すのだと千歳は嫌な予感がした。

「……ちいちゃん、遠藤さんとすごく仲がいいわよね……」

 心臓が大きく跳ねた。これから自分にとんでもないことが起きるような気がした。

「仲がよくなって、毎日ちいちゃん楽しそうで、おばあちゃんもおじいちゃんもすごく嬉しいの」

「……そう……」

 ほとんど聞こえない声を出すと、早苗の口調が厳しくなった。

「だけどね、忘れたらいけないよ。遠藤さんはこの旅館のお客様なの。ちいちゃんのお友達じゃないの。どんなに気が合って仲がよくても、遠藤さんとちいちゃんは何の関係もないの」

 千歳はぐっと身を硬くした。崩れ落ちそうになった。早苗はもしかしたら千歳が貴広に恋していることをすでに気が付いていたのかもしれない。永く生きている人は、洞察力が鋭いのだ。

「ちいちゃんの気持ちはよくわかるよ。ちいちゃん、お友達がいないものね。作ろうと思っても、この田舎にはもうちいちゃんと同い年くらいの子はいなくなっちゃった。都会に行けばお友達を見つけられるかもしれないけど、また辛い目に遭うかもしれないから、怖くて都会に行けない」

 早苗の言葉を聞きながら、千歳はまた涙を落とした。その通りだ。千歳はずっと独りぼっちなのだ。

 「ちいちゃん」

 早苗の声がさらに厳しくなった。

「遠藤さんに迷惑をかけたらいけないよ。もちろん勝田さんにも」

「わかってるよ。言われなくたって、そんなことわかってる」

 すねたような声で千歳は短く言った。もう何もかもがどうでもよくなった。

「間違っても、遠藤さんに自分の気持ちをぶつけたりしたらだめだよ。そのこともわかってる?」

「わかってる。わかってるよ……」

 がっくりと肩を落とし、千歳は項垂れた。惨めな思いに押し潰されそうになった。それと同時に早苗のため息が聞こえた。早苗も、貴広が東京に戻ってしまうことに失望しているのだ。

「あの女がいなければよかったのにね」

 無意識に千歳は呟いていた。しまったと思い振り向くと、早苗が鬼のような顔をしていた。

「あの女って……まさか、勝田さんのこと……」

 誤魔化すことができず、千歳は慌てた。

「いや……あの……」

「お客様を、あの女だなんて……」

 早苗が一歩一歩近付いてくる。早苗は冷や汗を流して後ろに後ずさった。

「違うの。これにはわけがあって……」

「ちいちゃんがそんなことを言うなんて……」

「違うのっ」

 千歳は早苗に抱きつき、首を横に振った。

「おばあちゃん、これにはわけがあるの。ちょっと話を聞いて」

「わけ?」

 早苗は疑うような目で千歳の顔を見返した。

「あたしの話を聞いて。お願い」

「話?」

 千歳は小さく頷き、早苗の手を引いて自室に向かった。


 部屋に入ると千歳は、貴広に過去の話を打ち明けた時と同じように、わかりやすく明子のことについて話した。それを聞きながら、早苗の顔はだんだん青白くなっていった。まさかそんな人間だったとは、という顔だ。早苗たちが千歳のことを邪魔者扱いしているという言葉を聞くと、愕然とした。

「……そんなことを言ったの……?勝田さんが……?」

「そうだよ。あたしだけじゃなく、おばあちゃんたちのことも悪く言ったんだよ」

 千歳がそう言うと、早苗は涙を流した。

「そんなふうに思われていたなんて……ひどい……ひどいわ……」

 両手で顔を覆い、背中を丸くしてすすり泣いた。その姿を見ながら、千歳は聞いた。

「ね、あんな女って言いたくなるでしょ?あんな悪女がどうして貴広さんの恋人なのか、考えられないよ」

 早苗は小さく頷いた。泣き声が大きくなる。

「……ねえ、おばあちゃん……」

 千歳は無表情で、全く感情の篭っていない声で言った。

「どうして、優しい人ばかり悲しい目に遭うんだろうね……。何で性格の悪い人ばっかり幸せになるんだろう……」

 早苗はただすすり泣くだけで何も答えなかった。千歳の目にもまた涙が溢れてきた。

 





 

 

 


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