表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/43

三十七話

 部屋の前に来ると、千歳は恐怖で体が震えそうになった。部屋に入るのが怖い。貴広の顔を見るのが怖い。貴広の話を聞くのが怖い……。

 しかし千歳は襖を開けた。目の前に貴広が座って千歳を見つめていた。いつもとは全く違う、厳しい目つきだった。どう見ても、楽しいおしゃべりをする顔ではなかった。

「貴広さん、話があるって」

「うん」

 貴広は大きく頷くと、手を前に差し出した。

「長くなると思うから、そこに座って」

 千歳は何も言わずに、向かい合わせに座った。そして、真っ直ぐに貴広の顔を見つめた。

「話って……何でしょうか……」

 消えそうな声を出すと、貴広はゆっくりと口を開いた。

「前に、千歳ちゃん、僕たちが東京に帰るのはいつかって聞いたよね」

 びくんと心臓が跳ね上がった。冷や汗が滝のように流れる。

「はい。聞きました」

 頷きながら言うと、貴広は悲しげな表情をした。

「今日の朝、明子に、もう東京に帰りたいって怒鳴られた。だから、早く帰り支度をしろって」

「えっ」

 また心臓が大きく動いた。貴広が裏口に来なかったのは、明子に怒鳴られていたからだったのだと気が付いた。

「待ってください。それって……明日帰るってことですか?それとも」

「今日中に帰りたいんだそうだ」

 千歳は言葉を失った。体ががくがくと震えた。

「今日中……?今日中に、帰っちゃうんですか?」

 貴広は黙っていたが、小さく首を横に振った。

「まだもう少し待ってくれって言った。絵を完成させなきゃいけないから。もちろん、絵を描いてるってことは内緒にして、まだもう少しここで自然に触れ合いたいって言って」

「じゃ……じゃあ、あの絵が完成したら……」

 千歳がそう言うと、貴広は硬い表情で頷いた。

「あの絵が完成したら、僕は東京に帰るよ」

 千歳は勢いよく立ち上がった。夏だというのに、寒気がした。

「ま……待ってください。そんな……絵が完成って、もうあと三日くらいじゃないですか。もう三日後には貴広さんはいなくなっちゃうんですか」

「ごめん」

 貴広は首を深く折り、謝った。

「明子が帰りたい帰りたいってうるさいから……。ごめんね。本当に、ごめん」

 千歳の目から涙が溢れ出した。そして頬を伝って畳に落ちた。

「嫌だ……。嫌です。あたし、もっと貴広さんとおしゃべりしたい。せっかく、せっかく貴広さんに会えたのに……。貴広さんがいなくなっちゃったら、またあたし、独りぼっちになっちゃう……」

 涙がぼろぼろと流れて止まらない。まさかこんなに早く別れが来るとは夢にも思っていなかった。

「ごめんね、本当にごめん。明子のわがままのせいで、こんなに早く別れることになるなんて、僕も悲しいよ。泣かないで……」

 貴広の言葉を聞かず、千歳は泣き叫んだ。もう周りのことなど気にしていられない。

「行かないでくださいっ。帰らないでくださいっ。まだここにいてくださいっ」

 貴広は動揺しながら声を出した。

「本当にごめんね。だけど、ずっとここにはいられないから……」

「嫌だっ。貴広さんと離れ離れになっちゃうなんて嫌だあああっ」

 千歳は両手で顔を覆い、わあわあと声を上げて泣いた。



 千歳が落ち着くと、いや、まだ完全には落ち着いていないが、涙を拭きながら貴広に謝った。

「ごめんなさい、泣いちゃって……。嫌だとか、わがままなこと言って……」

 貴広は千歳の頭を撫でながら、首を横に振った。

「わがままなんか言ってないよ。僕も、千歳ちゃんと一緒にいたいと思ってる」

 千歳は顔を上げ、貴広の顔を見た。

「そう思うなら、まだここにいてもいいじゃないですか。あともう3枚くらい、絵を描いても」

「無理なんだ」

 貴広はあきらめたように目を閉じた。

「もし僕がここにいたら、明子はたぶん千歳ちゃんのことを傷つけると思う。千歳ちゃんがいるせいで、貴広が東京に帰ってこないってね」

 そして、長く深いため息を吐いた。さらに千歳の胸は痛んだ。

「じゃあ……じゃあ、もし東京に帰っても……またここに来てくれますか」

 もちろん、と貴広は頷くと思っていた。しかし貴広は首を横に振った。

「無理だと思う」

「えっ」

 千歳は目を見開いた。聞き間違いだと思った。

「む……無理……?」

 貴広は泣きそうな顔をし、声を出した。

「明子に監視されてるからだよ。もし僕がまたこの田舎に行こうとしたら、何が何でも止めるよ。きっと。隠れて行くことも、たぶん不可能だと思う」

 千歳は愕然とした。信じられなかった。悪夢であってほしかった。

「ということは……もう、あたしは、貴広さんと会えないってことですか……。二度と」

 貴広は何も言わなかった。答えなくても、わかるだろうと思ったのだろう。

「そ……そんなこと……」

「それに、結婚させられると思う。あいつを止められることは、もう誰にもできないよ」

 千歳は耳を疑った。どうして、どうしてあんな女に、貴広を奪われなくてはいけないのか。

「やだ……」

 そう言いかけて、千歳はあることに気がついた。

「……そうだ、貴広さん。じゃあもう、あの絵を描くのをやめればいいんじゃないですか。そうすれば、あの絵は未完成で……」

「それもだめなんだよ」

 千歳の言葉を遮り、貴広は言った。

「だめって……どうして……」

 わけがわからないまま千歳が聞くと、貴広は目をきつくつぶった。

「僕が絵を描かないって言ったら……明子と結婚することになるだろう」

 千歳の全身に雷が落ちた。地獄に突き落とされた気がした。要するに、絵を描いても描かなくても、千歳と貴広は離れ離れになる運命なのだ。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ