三十七話
部屋の前に来ると、千歳は恐怖で体が震えそうになった。部屋に入るのが怖い。貴広の顔を見るのが怖い。貴広の話を聞くのが怖い……。
しかし千歳は襖を開けた。目の前に貴広が座って千歳を見つめていた。いつもとは全く違う、厳しい目つきだった。どう見ても、楽しいおしゃべりをする顔ではなかった。
「貴広さん、話があるって」
「うん」
貴広は大きく頷くと、手を前に差し出した。
「長くなると思うから、そこに座って」
千歳は何も言わずに、向かい合わせに座った。そして、真っ直ぐに貴広の顔を見つめた。
「話って……何でしょうか……」
消えそうな声を出すと、貴広はゆっくりと口を開いた。
「前に、千歳ちゃん、僕たちが東京に帰るのはいつかって聞いたよね」
びくんと心臓が跳ね上がった。冷や汗が滝のように流れる。
「はい。聞きました」
頷きながら言うと、貴広は悲しげな表情をした。
「今日の朝、明子に、もう東京に帰りたいって怒鳴られた。だから、早く帰り支度をしろって」
「えっ」
また心臓が大きく動いた。貴広が裏口に来なかったのは、明子に怒鳴られていたからだったのだと気が付いた。
「待ってください。それって……明日帰るってことですか?それとも」
「今日中に帰りたいんだそうだ」
千歳は言葉を失った。体ががくがくと震えた。
「今日中……?今日中に、帰っちゃうんですか?」
貴広は黙っていたが、小さく首を横に振った。
「まだもう少し待ってくれって言った。絵を完成させなきゃいけないから。もちろん、絵を描いてるってことは内緒にして、まだもう少しここで自然に触れ合いたいって言って」
「じゃ……じゃあ、あの絵が完成したら……」
千歳がそう言うと、貴広は硬い表情で頷いた。
「あの絵が完成したら、僕は東京に帰るよ」
千歳は勢いよく立ち上がった。夏だというのに、寒気がした。
「ま……待ってください。そんな……絵が完成って、もうあと三日くらいじゃないですか。もう三日後には貴広さんはいなくなっちゃうんですか」
「ごめん」
貴広は首を深く折り、謝った。
「明子が帰りたい帰りたいってうるさいから……。ごめんね。本当に、ごめん」
千歳の目から涙が溢れ出した。そして頬を伝って畳に落ちた。
「嫌だ……。嫌です。あたし、もっと貴広さんとおしゃべりしたい。せっかく、せっかく貴広さんに会えたのに……。貴広さんがいなくなっちゃったら、またあたし、独りぼっちになっちゃう……」
涙がぼろぼろと流れて止まらない。まさかこんなに早く別れが来るとは夢にも思っていなかった。
「ごめんね、本当にごめん。明子のわがままのせいで、こんなに早く別れることになるなんて、僕も悲しいよ。泣かないで……」
貴広の言葉を聞かず、千歳は泣き叫んだ。もう周りのことなど気にしていられない。
「行かないでくださいっ。帰らないでくださいっ。まだここにいてくださいっ」
貴広は動揺しながら声を出した。
「本当にごめんね。だけど、ずっとここにはいられないから……」
「嫌だっ。貴広さんと離れ離れになっちゃうなんて嫌だあああっ」
千歳は両手で顔を覆い、わあわあと声を上げて泣いた。
千歳が落ち着くと、いや、まだ完全には落ち着いていないが、涙を拭きながら貴広に謝った。
「ごめんなさい、泣いちゃって……。嫌だとか、わがままなこと言って……」
貴広は千歳の頭を撫でながら、首を横に振った。
「わがままなんか言ってないよ。僕も、千歳ちゃんと一緒にいたいと思ってる」
千歳は顔を上げ、貴広の顔を見た。
「そう思うなら、まだここにいてもいいじゃないですか。あともう3枚くらい、絵を描いても」
「無理なんだ」
貴広はあきらめたように目を閉じた。
「もし僕がここにいたら、明子はたぶん千歳ちゃんのことを傷つけると思う。千歳ちゃんがいるせいで、貴広が東京に帰ってこないってね」
そして、長く深いため息を吐いた。さらに千歳の胸は痛んだ。
「じゃあ……じゃあ、もし東京に帰っても……またここに来てくれますか」
もちろん、と貴広は頷くと思っていた。しかし貴広は首を横に振った。
「無理だと思う」
「えっ」
千歳は目を見開いた。聞き間違いだと思った。
「む……無理……?」
貴広は泣きそうな顔をし、声を出した。
「明子に監視されてるからだよ。もし僕がまたこの田舎に行こうとしたら、何が何でも止めるよ。きっと。隠れて行くことも、たぶん不可能だと思う」
千歳は愕然とした。信じられなかった。悪夢であってほしかった。
「ということは……もう、あたしは、貴広さんと会えないってことですか……。二度と」
貴広は何も言わなかった。答えなくても、わかるだろうと思ったのだろう。
「そ……そんなこと……」
「それに、結婚させられると思う。あいつを止められることは、もう誰にもできないよ」
千歳は耳を疑った。どうして、どうしてあんな女に、貴広を奪われなくてはいけないのか。
「やだ……」
そう言いかけて、千歳はあることに気がついた。
「……そうだ、貴広さん。じゃあもう、あの絵を描くのをやめればいいんじゃないですか。そうすれば、あの絵は未完成で……」
「それもだめなんだよ」
千歳の言葉を遮り、貴広は言った。
「だめって……どうして……」
わけがわからないまま千歳が聞くと、貴広は目をきつくつぶった。
「僕が絵を描かないって言ったら……明子と結婚することになるだろう」
千歳の全身に雷が落ちた。地獄に突き落とされた気がした。要するに、絵を描いても描かなくても、千歳と貴広は離れ離れになる運命なのだ。




