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三十六話

千歳は、貴広が東京に行ってしまった後のことを考えた。絶対に明子のことを、憎み、恨み、妬むだろう。すぐ隣には貴広が恋人としていてくれるのだ。うらやましいと思っている自分が哀れに見えるだろう。貴広も、千歳と会えなくなって寂しい思いをするかもしれない。しかし貴広は大学に通っているし、友人はもちろん、家族だっているはずだ。だが千歳は違う。小さな田舎の廃業寸前の旅館で、独りきりで過ごさなくてはいけない。友人も両親もいない。都会にも行けない。一生独身のままだ。貴広よりも、ずっと千歳の方が辛い思いをするのだ。あの女がいなければ……。あの女の勝ち誇った笑みを思うと、夜も眠れなかった。

「僕は、初めて会ったのが明子じゃなくて千歳ちゃんだったらよかったのにって思うよ。もし会えてたら、こうやって二人で田舎で過ごして、好きなだけ絵を描いていけたのに」

 貴広の一言に、千歳の心はさらに暗くなった。そんなことを思ったって、何も意味がない。もう貴広には明子という恋人がいる。言葉にしても、ただ悲しくなるだけだ。

「そうですね。あたしも東京に行った時、貴広さんと出会えたらよかったです。そうすれば、頭がおかしくなったりしなかったと思います」

 小さく声を出すと、貴広は残念そうに頭を下げた。

「どうして今になってから出会ったんだろうね。こんなにひどい目に遭わないうちに、会いたかったね」

 貴広が寂しげに言った。千歳も小さく頷いた。

「僕は昔から、性格がいい人は不幸な目に遭って、性格が悪い人は幸福な人生を歩むって思ってるんだ」

 貴広の言葉に、千歳はすぐに答えた。

「わかります。性格が優しい人は、なぜか嫌な目に遭うのに、性格が悪い人は、何の悩みもなく生きていくんですよね。あたしもすごくそう思います」

 貴広は千歳の顔を見つめながら言った。

「だよね。世の中は、全部性格が悪い人の思った通りに変わっていく。絶対におかしい。どうして優しい人ばかり、こんな目に遭わなきゃいけないんだ。神様は、性格が悪い人たちの味方なのか」

 貴広の言葉を聞き、千歳は考えた。何の罪もない千歳をいじめ金を奪った梨紗は、きっとあのお城のような屋敷で幸せな日々を過ごしているだろう。もしかしたら恋人もいるかもしれない。何の悩みもなく、千歳のことなど完全に忘れて学校生活を送っているはずだ。娘をゴミと言った両親は、東京の高級マンションで優雅な暮らしをしている。お金だってたくさん持っている。しかし千歳を愛してくれる早苗たちは、廃業寸前の旅館でその日暮らしをしている。そして自然を愛する優しい貴広も、悪魔のような明子に束縛され、毎日嫌な思いをしている。こんなに不公平なことがあっていいのだろうか。

「どうしたら、優しい人が幸せになれるんだろうね……」

 弱弱しく言った貴広を見つめ、千歳はもう一度頷いた。

 その日、千歳と貴広は笑顔を作ることができなかった。


 翌朝裏口に行くと、貴広は立っていなかった。千歳はぎくりとし、冷や汗が出た。貴広が東京に帰ったのかと思った。自分の部屋に戻ると、千歳は頭を抱えしゃがみこんだ。まさか、こんなに早くに別れが来るとは……。体中が、緊張の糸で縛り付けられたような気がした。

 しかし朝食の時間になると貴広は部屋にいた。千歳の顔を見ると、手を胸の前で合わせた。

「ごめん。今日はちょっと、行けなくなっちゃって」

 千歳はただ頷いただけだった。理由を聞くのが怖かった。だが気持ちは何となく落ち着いていた。

 しかし昼になると、なぜか嫌な予感がした。一人でじっとしていられなくなり、無意識に早苗の部屋に駆け込んだ。

「どうしたの?ちいちゃん」

 早苗は部屋の真ん中で、洗濯物をたたんでいた。千歳は隣に行き、座り込んだ。

「わかんないんだけど……。なんか……なんか……怖いの」

「怖い?何が?」

 早苗の柔らかな声を聞きながら、千歳はもう一度言った。

「わからない。だけど……何か嫌な予感がするの」

「嫌な予感?」

「うん……」

 目を丸くしている早苗に、千歳は震えた声で聞いた。

「……あのね、嫌な気分になると思うけど、もし、貴広さんたちが東京に帰ったら……この旅館、どうするの?」

 突然早苗の手がぴたりと止まった。顔も石のように固まっている。

「おばあちゃん」

 不安になり千歳が声をかけると、早苗はゆっくりと口を開いた。

「……それは、おばあちゃんにはわからないの。おじいちゃんに聞かなきゃだめよ」

 千歳は早苗の顔を真っ直ぐに見つめ、質問を変えてもう一度聞いた。

「じゃあ、もし、たたむなんてことになったら、あたしたちどうやって生活していくの?」

 すると早苗は目を逸らし、震えた声で答えた。

「だから、おばあちゃんにはわからないの。知りたいなら、おじいちゃんに聞きなさい」

「もしもの話だよ。ねえ、おばあちゃ……」

 千歳の言葉を遮るように、早苗は立ち上がった。たたんだ洗濯物を持つと、無視をするようにさっさと出て行った。

「おばあちゃん……」

 早苗がこんな態度をとるとは思わなかった。襖を出て行く早苗の背中は、「いい加減にしなさい」と言っているようだった。心が冷たくなったのは、もしかしたら自分だけではないのかもしれないと感じた。

 そのまま千歳は俯いていた。不吉な予感が嘘であってほしいと、心の底から願った。

 しばらくすると、襖が小さく開いた。千歳が振り返ると、早苗が立っていた。

「おばあちゃん、さっきの質問、答えてよ……」

 しかし早苗はまた無視をし、短く言った。

「遠藤さんが、ちいちゃんに話があるんですって。部屋で待っているから、来てほしいって」

 千歳の心臓が大きく跳ねた。嫌な予感が、体中に溢れ出す。

「話って、何の?」

「わからないけど、とにかくすぐに聞いてほしいんですって」

 そう言うと、もう自分には関係がないというように、早苗は襖を閉じた。残された千歳は、絶対に行ってはいけないと自分自身に言い聞かせていた。しかし、頭の角では、貴広に不快な思いをさせてはだめだという警告も出ている。

 千歳はよろよろと立ち上がり、歩き出した。そして襖を開け、廊下に出た。

 

 

 









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