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三十五話

 絵のモデルになるということは、貴広に何度も何度も見られるということだ。千歳はそのことに全く気が付いていなかった。

「千歳ちゃん、もっとにっこり笑って」

 しかし貴広に言われた通り、にっこりと笑うことなどできない。笑っても、ぎこちなくなってしまう。貴広の言葉に答えられないことで、気が重くなった。そして貴広の目線がやってくるたび、「見ないでください」と言いたくなった。しかし見ないで千歳を描くことは不可能だ。

「今日はここでおしまいにしようか」

 貴広がそう言うと、千歳は堪えていた息を一気に吐き出した。


 帰り道で、千歳は気になっていたことを聞いてみた。

「貴広さんは、いつ東京に帰っちゃうんですか」

 寂しい思いを露にしながら言うと、貴広の顔も曇った。

「それはまだわからない。でも、絵が完成するまでは、ここにいるから」

 安心させるように言ったようだが、千歳はさらに不安な気持ちになった。動揺で体が震えそうになりながら、質問を変えてもう一度聞いた。

「もし東京に帰ったら、明子さんと結婚するんですか?」

 貴広は立ち止まり、体に雷が走ったように体を震わせた。そして動揺した声で答えた。

「……それは……わからない。するかもしれないし、しないかもしれない。明子次第だよ」

 不安が膨れ上がっていく。さらに千歳は聞いた。

「じゃあ、絵はどうするんですか?貴広さんは、大学を卒業するまでの二年間、絵を描きたいんですよね」

 もう一度体を震わすと、貴広は悲しげな顔になった。

「正直……絵はだめだと思ってる。明子にも言われてるけど、僕は絵を教わっていない素人だし、売るつもりもないし個展を開くわけでもない。明子の言う通りなんだよ。悔しいけど……」

 千歳は聞きながら、貴広を哀れだと思っていた。あの女がいなければ、この人は幸せに生きていけるはずなのだ。東京に帰らず、ずっとこの小さな田舎で、好きなだけ絵を描いていられるのだ。そうすれば、千歳もずっと貴広と笑って暮らしていける。あの邪魔な女がいるせいで、千歳も貴広も幸せになれない。

「どうしてそんなに早く結婚したいんでしょうね。確かに結婚は女の人の憧れですけど。しかも、脅しをかけてまで結婚をするっていうのはおかしいと思います」

 貴広はあきらめた顔をした。

「そうなんだよ。あいつはちょっと異常だよ。僕のことをまるで監視しているようなことをするのが考えられない。僕のことを何だと思っているんだ。僕は、あいつを護るために生きているんじゃないんだ」

 吐き捨てるように言い、はっとしたように千歳の顔を見た。

「ごめん。ちょっと本気になっちゃったよ。愚痴なんか聞きたくないよね」

 千歳は首を横に振った。

「そう言いたくなるのもわかります。明子さん、すっごくわがままだもん。あたしも同じようなことされたら、もっとたくさん愚痴ると思います」

 そう言うと貴広は苦笑したが、目は笑っていなかった。

「どうしたら、結婚をやめさせられるんでしょうか」

 千歳は、答えなど出てこないだろうと思いながらも質問した。貴広は黙っていたが、そっと小さく呟いた。

「できるわけないよ。今までいろんなことをして、明子と離れようとした。でもあいつは何も変わらない。これからだって、ずっとあのままだろう」

 感情の全く篭っていない口調だった。優しく穏やかな貴広が、こんなに低く暗い声で話すとは思っていなかった。

「そうなんですか……」

 千歳の声もかなり暗くなった。苦しげな貴広を、何とか助けたいと思った。しかし千歳一人ではどうすることもできない。

「だけど」

 そう言って、貴広は千歳の顔を真っ直ぐに見た。

「千歳ちゃんに会って、こうして自分の気持ちを話せたことで、ずっと抱えていた鉛みたいなものがなくなったよ。千歳ちゃんに会えてよかった。もし千歳ちゃんと会えなかったら、もう頭の中が爆発してたよ」

 千歳はまた目を逸らそうと思ったが、今回は見返した。本当に、この人と自分は似ていると感じた。

「あたしも、貴広さんに会えてよかったって思ってます。中学生の時のことを一人で抱え込んだまま生きていくなんて無理でした。いくらでも愚痴ってください。全部聞きますから」

 いやいや、と手を振りながら、貴広はまた苦笑した。千歳は貴広を助けることはできないが、こうして話を聞くことはできる。貴広の心が安らぐのだったら、愚痴でも何でも全部聞こうと千歳は思った。




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