三十二話
千歳は、明子が異常なほど貴広のそばにいたがる理由を考えてみた。どう見ても、二人の間に愛情なんてものはない。むしろお互いに相手のことを嫌っているように見える。それなのに、どうして明子は結婚をしたいなんてことを言うのだろうか。好きでもない人と一生を共にするのは、どう考えてもおかしい。
「千歳ちゃん」
貴広に声をかけられ、千歳は我に返った。あわてて笑顔を作った。
「何ですか」
千歳が言うと、貴広はにっこりと笑った。
「いや、ただ千歳ちゃんが何も言わないから、具合でも悪いのかなと思って」
「そんなことないです。全然、元気です」
千歳がそう言うと、「よかった」と言って、ほっとしたように息を吐いた。
千歳と貴広は、また森の中を歩いていた。貴広は大きな鞄を肩にかけている。スケッチブックや、下書き用の鉛筆などが入っているのだ。
「絵を描くのにいい場所が見つかるといいな」
そう言いながら、のんびりと絵にする場所を探していた。
千歳がよく行く好きな場所に案内をすると、貴広は「ここにしよう」と言い、すぐに場所は決まった。幸い、日の光も差し込んでいるので、周りが暗すぎて描けないというトラブルはなかった。
上下左右をきょろきょろ見回す貴広を眺めながら、千歳はあることを思い出した。もし貴広が初めて会ったのが明子ではなく自分だったらということだ。どうしてあんなことを考えたのか、全くわからない。
貴広と一緒にいると安心する。早苗たちと一緒にいるよりも、ずっと心が落ち着くのだ。家族である早苗たちよりも、貴広のほうがずっと頼りがいがある。この人と一緒にいれば元気になれる。自分の過去を全て打ち明けたのも、貴広が優しい人だからだ。この人になら、何でも言える。本当の自分を見せられる……。
そして、逆にそんな貴広を傷つける明子のことが憎くてたまらなかった。貴広の人生をめちゃくちゃにし、自分勝手に振り回し、自分の思い通りにならないと脅しをかけて、うるさく騒ぎ出す。あんな女が貴広の嫁になるなど、絶対に起きてほしくなかった。なぜこんな女が、貴広の恋人なのかが理解できなかった。
明子に、あんたは関係ないでしょと言われた時、千歳はその通りだと感じた。貴広がどんな生活をしているのか知らないし、明子の生活も知らない。たまたま雨宿りで泊まりに来た客というだけで、千歳とは何の繋がりもない。その千歳が、こうしていろいろと口を出すのは確かにおかしいのだ。
しかし千歳は仲間に入りたいと思った。仲間に入って、貴広を助けたいと思ったのだ。こんなふうに心が動くのは、なぜだろうか。貴広と出会ってから、千歳の胸の動きがおかしい。
貴広がスケッチブックを広げた。今までに描いた、たくさんの植物の絵が、鉛筆で描かれている。絵のことについて千歳は全く知識がないが、かなり上手いと思えた。
「そんなに見ないでくれないかな。恥ずかしい」
照れたように笑う貴広に、千歳は真顔で言った。
「すごい上手です。びっくりしました。あたし、絵のことは全然知らないけど、独学でここまで描けるなんて、すごいと思います」
貴広は穏やかに笑うと、頭を下げた。
「ありがとう。そうやって褒めてくれたのは千歳ちゃんだけだよ」
自分が言った言葉で貴広が喜んでくれたことが、千歳は嬉しかった。
「明子に、才能ゼロだとか、何の魅力もないって言われ続けるから、自信なかったんだ。だけど、何となく絵を描くのが楽しくなってきた。千歳ちゃんのおかげだ」
千歳は明子の機嫌の悪そうな顔を思い出した。本当に、あの女はどれだけ性格が悪いのだろうか。貴広の心を傷つける明子を恨んだ。
「あんな人の言うことに気にしてたらいけませんよ。貴広さんは、好きなだけ絵を描いていればいいんですよ」
貴広はそうだね、と言って笑ったが、千歳の恨みは消えなかった。
「それにしても、千歳ちゃんはすごいね」
貴広の言葉に、千歳はどきりとした。
「すごいって、何が?」
貴広は千歳の顔をしっかりと見つめ、ゆっくりと言った。
「千歳ちゃんはまだ高校生なのに、相手のことをきちんと思いやることができる。明子なんかよりずっと大人だ。正しい考えを持って、しっかりと生きている。他人の礼儀なんて、普通の人はできて当たり前みたいに思えるけど、意外と難しいんだよ。だけど千歳ちゃんはそれができている。これってすごく大切なことなんだよ」
貴広の言葉を聞きながら、千歳は体中が熱く火照った。貴広の顔が見られず、目を逸らしていた。
それからしばらくして、二人は桜の舞に戻ってきた。まだ誰も起きていないのを見て、貴広が残念そうに言った。
「もう少し、向こうにいてもよかったね」
はい、と千歳は頷いた。何となく、貴広に申し訳ない気持ちになった。




