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三十一話

 千歳が廊下を歩いていると、洗面所から明子が出てきた。お互いに驚いたが、冷静になったのは千歳だけだった。

「明子さん、おはようございます」

 丁寧に頭を下げると、明子は機嫌の悪そうな顔をした。

「話しかけないでよ。起きてすぐだから頭が痛いの」

 そう言ってその場を去ろうとした明子に、千歳は声をかけた。

「明子さん。聞きたいことがあるんですけど」

「何よ」

 睨み付けてきた明子に、千歳はしっかりとした口調で聞いた。

「あの、貴広さんから聞いたんですけど、どうして貴広さんが絵を描くのをだめだって言うんですか」

「はあ?」

 明子は大袈裟に声を出し、さらに千歳の顔を睨んだ。

「そんなこと、あんたに関係ないでしょ」

 そして歩き出そうとした明子に向かって、千歳はもう一度声をかけた。

「貴広さんが絵を描くのは、貴広さんの勝手でしょう。明子さんがだめとか嫌だとか言うのは、おかしいと思いませんか」

「うるさいわね。どうだっていいでしょ。そんなこと」

「どうだっていいでしょじゃありません。貴広さんが絵を描くのは貴広さんの自由です。明子さんに描いたらだめだって言う権利はないでしょう」

 周りに飛ぶ蝿を払うように手を振り、明子は声を出した。

「あたしたちのことに、いちいち首つっこまないでよ。この旅館が潰れたのも、あんたが客にしつこく聞いて、口出ししたからじゃないの」

「まだこの旅館は潰れてません」

 千歳が前に一歩足を踏み出すと、明子は後ろに後ずさった。

「貴広さんは、本当に自然を愛しているんです。自分の愛しているものを絵に描きたいというのは当たり前じゃないですか。どうして貴広さんの邪魔をするんですか。絵を描いたらだめだなんて言うんですか」

 ふん、と明子は馬鹿にしたように笑い、見下すように言った。

「あのね、あたしは貴広の彼女なのよ。あんたはまだ会って一週間も経ってない赤の他人。貴広のこと何でも知っているように言わないでくれる?」

 千歳は悔しかった。そうなのだ。貴広は、この悪女と付き合っているのだ。どうしてあんなに優しい人が、こんな悪女に付きまとわれ、振り回されなくてはいけないのだろう。

 しかし千歳は力強く言い返した。

「確かに、あたしはまだ貴広さんと会って数日しか経ってません。だけど、貴広さんが、自然を愛するという気持ちは、わかるんです」

 明子は面倒くさそうに息を吐き、聞いてきた。

「さっきから、自然を愛するとか言ってるけど、何それ?自然って何?こんなきったない年寄りばっかりのド田舎を愛するなんて、絶対できないでしょ。どこに魅力があるの?」

 千歳は明子を睨みつけた。この女は、何も知らない。自然の素晴らしさも、自然を愛するという気持ちも。

「明子さんは知らないと思いますけど、人間がこうして生きていけるのは、自然があるからなんです。自然と触れ合って生きていくのが、本当の人間の生き方なんです」

 明子はにやりと笑い、馬鹿にするように言った。

「教えてあげるわ。人間の生き方は変わったの。こんなド田舎で暮らすのは、もう昔の話。あんたは都会に行ったことがないから、何も知らないのね。かわいそう」

 千歳は本当のことを言うことにした。話したくなかったが、言わなくてはいけないのだろうと思った。

「あたし、中学生の時、東京にいました。そこで周りの人間に、ひどいことをされました。独りぼっちになって、仲良くなったと思ったら嘘で、みんな冷たい人ばかりでした。そのせいで頭がおかしくなって、また田舎に戻ってきたんです」

 明子は少し驚いた顔をしたが、すぐにまたにやりと笑った。

「たまたまでしょ。会った人が、たまたま嫌な奴だっただけ。あたしの周りには、優しい人がたくさんいるわ。人に恵まれない子なのね。恨むなら都会の人間じゃなくて、自分の運を恨みなさいよ」

 自慢をするように言う明子に、千歳は怒鳴り散らしたくなった。しかしそんなことをしたら、早苗たちに迷惑がかかる。どんなに頭にきても、何も言い返せないのだ。

「とにかく、貴広さんを束縛しないでください。貴広さんは、自然を愛してる。それなのに明子さんのわがままのせいで絵を描けない。貴広さんがかわいそうだと思いませんか。自分が貴広さんの自由を奪っているってことに気が付きませんか」

「言ってる意味わかんない。あたしが貴広を束縛してるとか何言ってんの?勝手に変な妄想して、あたしたちに迷惑かけないで。そこどいてよ。あたし、部屋に行きたいの」

 しかし千歳はその場を離れなかった。じっと明子の顔を睨みつけた。

「もう一度言います。自然は人間にとって、大切なものなんです。それなのに、明子さんたちは当たり前のように自然を壊していく。そんなこと、絶対にしちゃいけないのに。自然を壊すなんて、今の人間は頭がおかしいんです」

「あんたね……」

 明子が言いかけた時、突然貴広がやってきた。

「おい、明子。何やってるんだ」

 かなり動揺している。また明子が千歳に何か言ったのかと不安になっているのだろう。

 明子はちらりと千歳を見てから、甘えるように貴広に言った。

「このうるさくてしつこいガキがね、あたしに変なこと言ってくるの。自然を愛するとか、自然と触れ合って生きていくのが本当の人間の生き方とか。貴広、助けてよ。このうざいガキ、黙らせてよお」

 千歳は貴広がなんと答えるか怖くなった。貴広が、明子を庇うようなことを言ったらと不安になった。

「貴広も言ってやって。あんた、頭おかしいよって」

 貴広は戸惑った顔で千歳と明子の顔を交互に見た。なんと答えたらいいか、考えているようだった。

「ねえ、たかひろお」

 明子が甘える声でもう一度言うと、貴広は口を開いた。

「僕は、千歳ちゃんの方が正しいと思う。こうして農家の人が、長い長い年月をかけて、がんばって食べ物を育ててくれるから、明子はおいしい料理が食べられるんだ。もっと自然に感謝すべきだと僕は思う。頭おかしいというのはちょっと言いすぎだけど、僕も自然がなかったら人間は生きていけないんじゃないかなって思うよ」

 話の途中から、明子の顔色が変わっていった。恋人なのだから、絶対に貴広は自分の味方をしてくれると自信満々だったのだろう。しかし貴広は自分を裏切った。

「……わけ……わかんな……」

 また怯えた顔の明子に、千歳は勝ち誇った思いで言い切った。

「貴広さんは、自然を愛してると言ったでしょう。貴広さんを束縛しないでください」

 明子は逃げるようにその場を離れた。何も返す言葉が見つからず、完全に自分は負けてしまったと感じてどうすることもできなくなったのだろう。

 明子の姿が消えてから、千歳は貴広に深く頭を下げた。

「あたしを庇ってくれて、ありがとうございます」

 貴広は手を振りながら、苦笑した。

「僕の本心を言ったまでだよ。あいつに、僕が本当に自然を愛しているということを伝えてくれて、ありがとう」

「明子さんは何も知らないんですね。自然を破壊するのは、どれだけ悪いことなのか」

 千歳が、感情の篭らない声で言うと、貴広は頷いた。

「自然の素晴らしさを絵にしたいっていう気持ちもね」

 二人は向かい合って笑った。こんなにも気の許せる人がいること、そして出会えたことで、自分はなんて運のいい人間なのだろうかと思った。

 


 

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