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三十話

「もうこのままこの田舎に住んじゃおうかな」

 項垂れたまま、貴広は言った。千歳は驚き、目を見開いた。

「ここに?」

「そうだよ。そうすれば毎日たくさんの大自然と触れ合えるし、絵もたくさん描ける」

 貴広の言葉に、千歳はどきどきとしていた。貴広がここにいる。ずっと、そばにいてくれる。それがどれほど幸せなことなのか、千歳は考えられなかった。

「それに、ここにいれば明子から逃げられるしね」

 ああ、と千歳は気がついた。あの女がいなければ、貴広も幸せになれる。この田舎にいれば、千歳も貴広も、何の心配もなく幸せに生きていける。

「でも都会って、いろいろと便利なものがたくさんあるから、ずっと暮らしやすいんじゃないですか」

 昔自分が都会に住んでいたことがばれないように気をつけながら、千歳は聞いてみた。

「いや、都会なんてよくないよ。僕は都会が嫌いだ」

「えっ」

 思いがけない答えに、千歳はどきりとした。

「でも、貴広さん都会に住んでるじゃないですか」

 貴広は目をつぶり、静かに言った。

「本当は、都会になんて住みたくないんだよ。自然なんか一つもないし、何より人間が冷たすぎる。みんな自分のことばかり考えて、他人を思いやれない。感謝の気持ちなんか全く感じられない。自分まで冷たい人間になるんじゃないかって怖くなるよ」

 千歳は目を見開いた。まさか、貴広が自分と同じ考えをしていたとは思わなかった。ただ自然を愛することが好きだというだけではなく、都会が嫌いだということまで同じなのだ。

「あ……あたし……」

 涙が溢れてきた。こんなに同じ気持ちの人間がいたこと、そしてこの人と出会えたことが嬉しくて、もう何も考えられなかった。奇跡と言ってもいいくらいだ。

「あたしも……そう思うんです。都会の人は冷たいって」

「えっ、でも、千歳ちゃんはずっと田舎に」

 千歳は首を横に振った。この人に、何もかも打ち明けようと思った。打ち明けて、自分の心の中を全てさらけ出すことにした。

「あたし、実をいうと、中学生の時に東京で暮らしてたんです。両親に無理矢理連れて行かれて。あたしの話、聞いてくれますか」

 貴広は少し驚いた顔をしたが、すぐににっこりと笑顔になった。

「次は千歳ちゃんの番だね。何でも話していいよ。全部、ちゃんと聞くから」

 千歳は涙を流した。早苗たちよりもずっと、貴広のほうが安心できる人だと思った。早苗たちよりもずっと、自分の気持ちをわかってくれるのだ。


 千歳は東京で起こった悲劇を、できるだけ丁寧にわかりやすく話した。学校で独りぼっちだったこと、梨紗に透明人間扱いされ、金を取られたこと、そして娘を可愛がれない両親のこともだ。話を聞きながら、貴広は何度も「ひどすぎる」と呟いた。千歳がこんなにも辛い目に遭っていたとは思っていなかったからだろう。

 全てを話し終えると、千歳は体中から重い鉛が消えているように感じた。ずっと自分の体の中に渦巻いていた想いを、貴広に全て話したからだ。心の中がすっきりし、何となく、昔の自分に戻れた気がした。

 貴広は静かに目を閉じ、小さな声で呟いた。

「そうか……。僕たちは同じように傷ついて、同じように大自然に癒されてるんだね」

「そうですね」

 千歳が頷くと、貴広は励ますように言った。

「千歳ちゃん、すごく辛い思いをしてきたようだけど、落ち込んだりしないようにね。全部過去のことだと思って、引きずらないように気をつけてね」

「ありがとうございます。だけど、今貴広さんに全部話して、何だかすっきりしてます。こうして人に自分の思っていること話したのは、初めてです。おじいちゃんとおばあちゃんにも言えなかったし」

 そして少し上目遣いに貴広を見た。

「貴広さんに、こうして自分のことを何もかも話せたのって、どうしてかな……」

 千歳は貴広が何か答えてくれると期待していたが、貴広は独り言なのだと思ったのか、何も言わなかった。千歳は少し残念に思ったが、よくよく考えてみると独り言にしか聞こえない言葉だと気が付いた。

 それにしても、どうしてこんなにも胸が暖かくなるのだろう。貴広の顔を見ると胸が熱くなる。こんなにも熱く感じるのは生まれて初めてだ。

 

「ところで、ちょっと聞きたいんだけど」

 貴広が話題を変えてきた。千歳は不思議な顔で貴広を見た。

「さっき、大自然の絵を描きたいって言っただろう。もしよかったら、森の中を案内してくれないかな」

 千歳はすぐに頷いた。この人に不快な思いをさせるわけには絶対にいかない。

「わかりました。案内させてください」

 貴広はゆっくりと頷きながら笑った。

 しかしだんだん太陽が上に昇っていくので、とりあえず今日は約束だけになった。千歳は歩きながら、自分の好きな場所、よく行く場所を頭の中に浮かべていた。そして、誰にも邪魔をされず森の中を二人きりで歩くことが楽しみだった。

 千歳も貴広も、帰り道の足取りは軽かった。同じように傷つけられ、同じように癒されているということを知って、お互いに心の中が綺麗に洗われたような気がしていた。

 桜の舞には、まだ人気はなかった。

「じゃあ、明日も裏口のドアにいればいいかな」

 貴広が聞いてきたので、千歳は答えた。

「はい。あたしにできることなら、何でも言ってください。貴広さんが素晴らしい絵を描きあげられるように、応援します」

「ありがとう。本当に千歳ちゃんは優しい。明子なんかと付き合わなければよかった」

 その言葉の意味に、千歳はどきりとした。もし明子と付き合わなければ、貴広は誰を恋人に選んでいたのだろうか。もし初めて出会ったのは、明子ではなく自分だったら……。

「じゃあ、明子が起きちゃうから」

 貴広に言われ、千歳は我に返った。そんなことを考えたって無駄なのだ。すでに貴広は、明子という悪女と恋人同士なのだ。

「あ、はい」

 千歳が答えると貴広はにっこりと笑い、廊下を歩いて行った。その後ろ姿を見つめ、千歳は悲しく、寂しい気持ちになった。


 



 


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