三話
千歳が都会を嫌っていることには、きちんと理由がある。ただ何となく、人々がとっつきにくそうだとかイメージが冷たいとか、そういうものではない。
あれは、千歳が小学校を卒業して間もなくのことだった。居間でテレビを見ていた千歳に、突然母から衝撃の言葉を告げられた。
「来週、東京に行くから、荷物まとめておきなさい」
「東京!?」
驚いて目を見開いた。そんな話は、一度も聞いていなかった。
「お父さんと一緒に暮らすことになったの。お父さん、千歳に会いたいって」
母は淡々と話した。まるで台詞を読んでいるだけのように聞こえた。
千歳の父親は、東京の会社に勤めている。千歳は母と一緒に別居をしていた。そのため千歳は、父のことをよく知らない。そのこともあって、中学生からは同じ家で暮らそうということになったのだ。
もちろん千歳は嫌がった。千歳は田舎で生まれ育ち、この土地を愛していたからだ。
「あたし、都会なんて生きたくない。ここにいたい」
何度も言ったが、母は一回も千歳の言葉を聞いてくれなかった。母は昔から千歳よりも夫の方を優先していた。というか、千歳の話を真剣に聞いてくれることが一度もなかった。千歳と一緒にいる時よりも、夫と話している時の方が幸せそうだった。
さらに母は都会で生まれ都会で育った、「都会人」だ。いつも田舎の不便さにけちをつけ、ものすごく嫌っていた。田舎で生活することに猛反対し、それが理由で離婚まで考えたことがあると、昔、早苗が言っていた。
しかしその時既に千歳が生まれていたので、仕方なく母は折れたのだ。
ただし、ただ折れるだけではなく、「いつかは必ず都会に移り住む」という条件付きだった。
だから、千歳が都会に行くことは、ほぼ100%決まっていたのだ。
一応、家族会議のようなこともした。何時間もかけて、結局千歳が都会に住むという結果になった。
ただ嘆くことしか、千歳にはできなかった。毎日が憂鬱で、目の前が霞んでいた。
その千歳に、早苗は何度も励ましの言葉を聞かせた。
「大丈夫だよ。心配しなくても、すぐに友達はできるから」
千歳はその言葉を信用できなかった。すぐに友達なんてできるわけがない。生まれ育った環境が違うのだ。仲良くなれるのは、かなりの時間がかかるということは12歳の千歳にもわかった。
「お母さんなんか、大っ嫌い!」
都会に行く前日に、千歳は思い切って母に言った。怒られるということはわかっていたが、どうしても言ってやりたかった。
「お母さんって、あたしのいうこと、全部無視するよね。いっつもお父さんの方ばっか見てるし。何なの?お母さん、あたしのこと嫌いなの?」
大声で怒鳴った。怒られてもいい。どうしても聞かせてやりたい。
母はじっと千歳を見つめ、小さく笑いながら言った。
「そうよ、今頃気付いたの?千歳のことなんか、どうだっていいって思ってる」
千歳は信じられなかった。声が出せなかった。母はいつもこんな思いで自分を見ていたのか。これが母親が子どもに聞かせる言葉なのか。
「もう知らない!」
千歳は早苗の部屋に向かって走った。気味が悪くなった。あの女の人は、本当に自分を産んだ母親なのか。
襖を開け、中にいた早苗に飛びついた。そして震える声で今耳にしたことをそのまま話した。
「おばあちゃん、今、あたし、お母さんに、お母さんなんて大っ嫌いって言ったの。そしたらね、お母さんも、あたしのこと嫌いって言ったの。どうでもいいって」
「えっ?」
裁縫の手を止め、早苗は驚いたように目を見開いた。
「どうしてそんなこと言ったの?」
注意するように早苗は言った。千歳はしゅんとした。母に怒られるのは耐えられるが、早苗に注意されるのは苦手なのだ。
「だって……、お母さん、自分勝手なんだもん。嫌いなんだもん。本当にお母さんなのかって思う時だってあるの」
千歳の言葉を聞き、早苗の顔が曇っていった。
肩をぐっと掴み、真剣に千歳の顔を見つめた。
「ちいちゃん、このこと、お父さんに言っちゃだめだよ」
不思議に思った。何故こんなことを言うのか。
「どうして?」
「いいから。絶対、言ったらだめだよ」
「……うん……」
千歳は頷いた。早苗の険しい表情が怖くなった。どうしてこんなことを言うのか、千歳にはわからなかった。
自分の部屋に行き、千歳は卒業式のアルバムを見つめた。
ちとせあめ、一緒にトンボ捕まえに行こうよ!
今日のちとせあめの服、可愛いね。
同級生の笑顔が、笑い声が、頭の中に浮かんだ。
ちとせあめっていうあだ名をつけてくれたのは誰だったっけ……
千歳って、可愛い名前だねって言ってくれたのは……
中学校でもよろしくねって話しかけてくれた子は……
ずっとみんなと一緒にいられると思っていたのに。
都会になんて、一生行かないんだと思っていたのに。
千歳はアルバムを胸に抱き、母に気付かれないように小さな声で泣き続けた。