二十八話
約束の時間よりも三十分早くに、千歳は裏口のドアに向かった。すると驚いたことに貴広はすでに待っていた。
「貴広さん、早いですね」
千歳が言うと、貴広は気を遣ったような顔になった。
「千歳ちゃんに迷惑をかけたらいけないからね」
千歳は、好きでもない奴のためにこんなことを話す貴広が哀れに思った。あの女に苦しめられ、自分が言ったことではないのに代理として謝る。明子がどれだけ悪魔なのか、千歳には考えられなかった。
それに比べて、貴広は何と心の優しい青年なのだろうか。相手を思いやり、にっこりと微笑む都会人がいるのを、千歳は初めて知った。こんな都会人に出会ったのは初めてだ。
「じゃあ、みんなが起きてくる前に」
「はい、行きましょう」
ゆっくりと千歳は裏口のドアを開けた。
昨日と同じ道を歩きながら、貴広は話した。
「明子とあったのは、高校二年生の時だった。ちょうど、今の千歳ちゃんと同じくらいの年だね。突然目の前に現れて、びっくりしたよ。だって、名前も知らない、同じ学校の生徒だってことも知らない間だったからね」
千歳は驚いた。きっと学校の同級生で知り合ったと思っていたからだ。
貴広は目を閉じ、静かな声で話を続けた。
「目の前で、あたしと付き合いなさいって言ったんだよ。本当、今でもあの時の明子の顔は忘れられないよ」
「あたしと付き合いなさいって……命令してるみたい」
千歳が呟くと、貴広は深くため息を吐いた。
「そうなんだよ、あいつは、僕のことを自分のわがままを全て許してくれる人だと思ってる。僕がどんなに迷惑しているかなんて、全く考えない。多分、僕だと思ってるんじゃないかな」
「僕?」
信じられない、と千歳は思った。なんという悪女なのか。
貴広はあきらめたように俯き、もう一度深くため息を吐いた。
「なんて厚かましい女なんだと思ったよ。初対面の人間に、こんな話し方をするなんておかしい。しかももう高校生なんだよ。小学生だって、初対面の人にこんなことを言ったりしないだろう。もちろん、僕は断った。初対面の人とは付き合えないって言ったんだ。だけど」
そこまで言い、貴広は両手で顔を覆った。
「その後は何も言ってこなかったんだ。高校を卒業するまで、いつも通り過ごしてきたんだ。大学も受かって、これから楽しい大学生活が送れるんだと安心してた。完全に明子は、僕のことをあきらめたんだと思っていた」
千歳は貴広の苦しげな姿を見て、何も言えなくなった。何もかけるべき言葉が見つからなかった。
貴広はしゃがみ、低い声でまた続きを話した。
「まさか同じ大学に入学してたなんて、知らなかった。明子は僕のことをあきらめたわけじゃない。毎日、僕のことを監視してたんだ。僕の行動を裏で見て、記録して、どの大学を受験するかも知っていた。この女は何者なんだって怖くなったよ」
千歳は想像しながら冷や汗を流していた。もう犯罪者と同じではないか。
「大学で再会したら、また付き合いなさい、だよ。断ったけど、今度はもう、毎日毎日、暇さえあれば僕のところに来て付き合え、ばかり。気が狂いそうになった。しかも、人がたくさん集まっているところで、叫ぶように言うから、周りの人間全員に見られる。あまりにも僕が無視していると、脅しまで言ってきたよ」
「脅し?」
千歳は目を見開いた。まさかそんな言葉が出てくるとは思っていなかった。
「そうだよ。もうあれは脅しだよ。付き合ってくれないなら、屋上から飛び降りてやるとか、自分の胸に刃物を向けて、この場で死んでやるとかね。もう告白じゃない。脅しと一緒だ」
千歳は凍りついた。本当にそんなことをする人間がいるとは思っていなかった。命をかけてまで貴広と恋人同士になりたかった女の顔が、頭の中に浮かんだ。
しばらく二人とも黙っていたが、貴広が小さく呟いた。
「……もう、無理だった。あいつを止めることはできないんだって思った。だから」
「明子さんと、付き合ったんですね……」
千歳が続けるように言うと、貴広は頷くように項垂れた。




