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二十五話

 千歳の起床時間は、大抵朝五時半だ。昔から変わっていない。ずっとそうしてきたので、体が勝手に目覚めるのだ。

 服に着替えると、裏口のドアを開いた。目の前に、ボロボロの自転車が止まっている。ハンドルに手をかけ、サドルに跨る。そして、まだ誰もいない静かな早朝の田舎を、あてもなく走る。好きなところへ行き、大自然をたっぷりと堪能する。いつもよりも、さらに大自然に触れ合える。誰にも邪魔をされずに自由に動き回れる。無人の田舎は、まるで千歳だけの世界のようだ。この五時半は、千歳だけの空間だ。千歳を幸せにしてくれるのだ。

 しかしその日は違った。裏口のドアに行く時に、後ろから声をかけられた。声の主は貴広だった。

「千歳ちゃん」

 千歳は無視をしようと思った。しかし、しんと静まっている場所で聞こえなかったというのはおかしい。仕方なく、千歳は振り向いた。

「おはようございます。貴広さん」

 頭を下げながら、千歳は言った。嫌な気分が胸の中にざわざわと広がっていく。

「おはよう。えっと……、これからどこかへ行くのかな?」

 気を遣っている口調で貴広は聞いてきた。さらに千歳は気分が悪くなる。

 実を言うと、千歳は貴広と明子がやってきたことを嬉しく思っていなかった。早苗たちが喜んでくれたのは嬉しかったが、本音を言うと早く帰ってほしいと思っていた。

「いえ、別に。ちょっと散歩に行こうかなって」

 全く感情を込めずに千歳は言った。すると貴広は目を大きくさせた。

「散歩かあ……。いいなあ……」

 そう言いながら近付いてきた。千歳は嫌な予感がした。

「あの、もしよかったら僕も一緒に行っていいかな?」

 やはり、と千歳は悔やんだ。散歩だと素直に答えたのが馬鹿だった。嫌がっているという気持ちが顔に表れそうになったので、千歳は俯いた。

 千歳が黙ったままでいると、貴広は動揺した。

「ああ、いや。別に嫌ならいいんだけど」

 しかし千歳は首を横に振った。そして顔を上げ、作り笑いをした。

「嫌だなんて、そんなこと。いいですよ。一緒に行きましょう」

『宿泊客に、絶対に不快な思いをさせてはいけない』。早苗たちによく言われる言葉だ。

 貴広の顔が、急に明るくなった。にっこりと嬉しそうに微笑んだ。

「よかった。じゃあ、みんなが起きて来ないうちに行こう」

 千歳はため息を吐いた。これからこの男に気を遣わなくてはいけないのかと思うと具合が悪くなった。


「夏だけど、朝は涼しいんだねえ」

 貴広はきょろきょろと周りを見回しながら、たくさん声をかけてきた。千歳は話は聞いていたが、ほとんど答えを返さなかった。言うとしても「そうですね」だけだ。しかも完全に感情が篭っていない。

「それにしても、千歳ちゃんって、すごく朝起きるのが早いんだね」

 貴広が質問をするように言ったので、千歳は呟いた。

「あたし、自然が大好きなので。誰にも邪魔をされないで、一人きりで散歩をするのが好きなんです。誰もいない、大自然だけの場所にいると幸せな気持ちになります。誰にも邪魔をされないで、自然に触れ合いたいんです」

 だから、今、お前といるのが嫌なのだ、と心の中で続けた。

 しかし貴広は全く気が付かずに、感心するように深く頷いた。

「ああ、わかるよ。自然って不思議だよね。別に声をかけて励ましてくれているわけでもないのに、自然とストレスを解消してくれるみたいな力があるんだよね」

 千歳は貴広の顔を見た。そして、小さく睨んだ。何が「わかるよ」だ。都会にいる人間に、大自然の素晴らしさがわかるわけがない。知ったかぶりをしている貴広が馬鹿に見えた。

 何も言わない千歳を見て、貴広はまた動揺した。どんな話をすればいいのか、必死に考えているようだ。

「そうだ。昨日のこと、本当に悪かったね」

 貴広は声を震わせながらもはっきりとした口調で言った。千歳は何も言わない。

「昨日の明子の言葉、聞こえてたんだろう?本当にごめんね」

 そして頭を下げた。だが千歳はまだ黙っていた。

「明子は、昔からああいう性格なんだよ。もう病気みたいなものなんだ。頭に来たのはわかるけど、どうか許してやってくれないかな」

 何度も何度も深く頭を下げる。それが逆に鬱陶しくて気分が悪かった。

 千歳は昨日の夜のことを思い出した。あの女は、千歳のことをけなし、田舎にもけちをつけ、さらに早苗たちのことまで悪く言ったのだ。それなのに本人がやってくると臆病になる。自分の言った言葉に責任を持てない、だめな人間だ。自分からは謝らず、貴広に代わりに謝ってもらうというのも、度胸がないからなのだ。

「明子には、よく言っておくよ。だから、どうか許してやってくれ」

 しかし千歳は頷きもせずに歩いて行った。何も言えずに、貴広も後から連いてきた。

 歩きながら、千歳は思っていた。都会人はみんな冷たい。何も悪いことをしていない人間を、平気で地獄に落とす。笑っているが、実は悪魔だったりするのだ。この遠藤貴広という男も、その中の一人なのかもしれない。自然が好きなようだが、それも千歳を油断させる嘘なのかもしれない。しかも相手は男で大学生。もしほんの少しでも気を緩めてしまったら、一体どんなひどい目に遭うのかわかったものではない。とにかく、この男を信用してはいけない、と千歳は考えていた。


 桜の舞に戻ってくると、早苗が朝食の支度をしていた。

「ちいちゃんと遠藤さん、こんな早くにどこに出かけてたの?」

 早苗が目を丸くした。千歳はため息をつき、小さく呟いた。

「別に。いろんなところを歩いてただけ」

 ぶっきらぼうな口調になってしまった。また早苗を傷つけてしまった感じがし、後悔した。

「だからって、こんな早くに……」

「僕が、無理矢理連いていってもいいかって言ったんです。千歳ちゃんが、僕のことを起こしに来たんじゃないです」

 横から貴広が言ってきた。そして、にっこりと微笑んだ。

「ここは素晴らしいところですね。大自然に囲まれていて、素敵な場所です。ここに来て、本当によかったです」

 千歳は何とも思わなかったが、早苗は顔を明るくさせた。

「まあ。遠藤さんは、自然がお好きなのね」

「はい。こんなに大自然に囲まれた場所に来たのは初めてです」

 何を言っているんだ、と千歳は呆れていた。ただのご機嫌取りにしか聞こえない。

「嬉しいわ。ところで、千歳が何か失礼なことをしませんでしたか?」

 早苗の言葉に、貴広は突然驚愕の顔をした。目を逸らし、小さく答えた。

「失礼なことなんて……、してませんよ……」

「そうですか。何か失礼なことをしたら、私に言ってくださいね。ちいちゃん、失礼なことをしたらいけませんからね」

 早苗は千歳の顔と貴広の顔を交互に見ながら言い、「じゃあ、お食事の用意をしますね」と言って台所に向かった。

 後に残された貴広は、何も言わずに立ち尽くしていた。千歳は冷ややかな目でその姿を見つめながら、言った。

「隠しましたね。自分たちのしたこと。自分たちが、失礼なことをしたんだってこと」

 貴広は顔を真っ青にし、千歳の顔を見た。千歳はもう一度、同じように声を発した。

「本当に悪いと思ってるなら、自分たちのしたこと、隠しませんよね。あたしだけじゃなくて、おじいちゃんのことも、おばあちゃんのことも悪く言ったんですからね。全部正直に話して、全員に謝らなきゃいけませんよね」

 千歳の言葉に、貴広は何も言えなくなったようだ。俯いたまま、ゆっくりと部屋に向かって歩いて行った。



 

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