二十三話
早苗の話によると、宿泊客は二人で、突然の大雨で桜の舞にやってきたらしい。そしてそのままこの旅館に泊まることになったようだ。
「雨宿りってことは、宿泊客じゃないんじゃないの?」
気になって千歳は聞いた。しかし早苗はすぐに首を振った。
「ここに泊まるんだから宿泊客よ。予約していなくても、宿泊客なの」
千歳はよくわからなかったが、早苗は間違ったことを言わない。そうなんだ、と答えた。
「じゃあ、お金はどうするの?雨宿りで偶然ここにやって来たんでしょ?」
そう言ってすぐに千歳は、はっとした。田舎に戻ってきてから、もうお金のことなんて考えないと決めていたからだ。お金を欲しがる人間に絶対ならないと決意したのだ。こんなことを言った自分が恥ずかしかった。
「……お金はどうでもいいよね。いらないよね」
千歳が言うと、早苗は黙って頷いた。
「さあ、早く夕食を作らないとね。とびっきりの料理をご馳走しましょう」
そう言って早苗は台所に向かって歩いて行った。千歳は、自分はどうしようかと考えた。早苗の料理を手伝おうか。しかしすぐに宿泊客の顔を見ようと思い直した。
正面玄関に近付くと、祖父の驚くほど明るい声が聞こえてきた。
「いい天気だったのに、どうしたんでしょうかね」
「まさかどしゃぶりが降るとは思ってなかったから、もうびしょ濡れですよ」
若い男性の声が聞こえた。千歳は森から出てきた時を思い出した。あの時聞こえたのはこの人の声だったのだ。この声の人物は森の近くにいたのだ。
そっと顔を覗かせると、男性の横顔が見えた。優しそうな目をしていて、爽やかに笑っている。
そして、その男性の隣に、不機嫌な顔をした女性が立っていた。その女性があまりにも母に似ていることに千歳は驚いた。まさかまた母がここにやってきたのかと思った。
「ああ、ちいちゃん」
祖父が声をかけてきた。千歳は緊張しながらゆっくりと近付いた。
「お客さんだよ。挨拶して」
千歳は何も言わず、ただ頭を下げた。
「じゃあ、さっそく部屋にご案内します。ちいちゃん、頼むぞ」
千歳はもう一度頷き、二人の顔を見た。
「どうぞ。ご案内します」
短く言うと、すぐに千歳は後ろを振り返った。
部屋に行く間に、二人は自己紹介をした。青年の名前は遠藤貴広といい、女性は勝田明子といった。二人は同じ東京の大学に通っていて、今二年生らしい。
「こんなに緑の多い場所に来たのは初めてですよ」
嬉しそうに言う貴広の横で、明子が雨に触れた髪を不機嫌そうにタオルで拭いている。
千歳も同じように自己紹介をした。名前と年齢しか言わなかった。
「ずっとここにいるんですか」
不思議そうな顔で貴広に見られ、千歳は目を逸らした。
「ここが好きなんです。あたしの大事な場所なんです」
千歳がそう言うと、貴広はそうか、と呟いた。
「若いのに、おじいさんとおばあさんのお手伝いをしてるなんて、偉いわね」
明子が感心するように言ってきた。千歳は少し驚いた。梨紗の口調によく似ていたからだ。信じてもいいのか混乱する話し方だ。
そんなことないです、と千歳が言うと、さらに言ってきた。
「素朴で純粋で、千歳ちゃんっていい子ね。おじいさんたちも、きっと喜んでると思うわよ」
そしてにっこりと明子は笑った。それも梨紗によく似ていた。
「学校には行かないの?17歳なんでしょう?高校、通ってないの?」
ぎくりとしたが、千歳は動揺を隠し、小さく答えた。
「おじいちゃんとおばあちゃんが心配だし……。通えるお金だってないし、そもそもここには高校なんてないし」
そういった後、千歳は短く付け加えた。
「学校に通うには、都会に行かなきゃいけないし」
明子は目を丸くした。そしてもう一度聞いてきた。
「どうして都会に行かないの?都会には、楽しいことがたくさんあるわよ。それに、ずっとここにいても恋人だって作れないでしょ。仕事だって見つからない。都会に行った方が、ずっと楽しいわよ」
千歳は何も答えず俯いた。昔、過ごした地獄の日々が、じわじわと胸ににじんでくる。
「やめろよ」
貴広が明子の肩を掴んだ。そして大きなため息を吐いた。
「そんなこと、千歳ちゃんの勝手だろ。そうやって他人のこと根掘り葉掘り聞くんじゃない」
そして千歳の顔を見つめ、頭を下げた。
「ごめんね。こいつ、何でもかんでも知りたがり屋で。気分悪くしちゃったね」
「いいえ」
小さく首を横に振りながら、千歳は貴広に救われたと感じた。しかし油断してはいけないとも思った。
では、と言って、千歳は一旦部屋から出た。二人はどういう人間なのだろうか。心の底には悪魔が潜んでいるのではないか。
それに、と千歳はもう一つ気になることを思い浮かべた。どうしてこんな小さな田舎にやってきたのか。何も面白いこともない、ただ年寄りが集まっている場所だ。なぜ二人はここにやってきたのか。
急に悪寒がした。すぐに部屋から遠ざかり、自分の部屋に逃げ込んだ。




