二十二話
「それにしても、毎日暑いわねえ」
雲ひとつない真っ青な空を見上げ、早苗が呟くように言った。ここは田舎なので、クーラーなんて便利なものはない。扇風機とうちわしかない。
「こんなんじゃ、畑の野菜もすぐに乾いちゃって、収穫大変ね」
早苗は心配したように言った。千歳はカレンダーに目をやった。もう八月になっていた。ついこの前半年が終わってしまったのかと残念に思っていたのに、もうあれから一ヶ月以上経ったのだ。こうして何もない、同じことの繰り返ししかない日々を過ごしているせいで、日にちの感覚がほとんどなくなっていた。そういえば今日が何曜日なのかということもよくわからなくなってきた。
「水撒きしてくるわね」
そう言って、早苗はその場を離れた。早苗はもうかなり年をとっているが、とても元気だ。誰かの助けが必要なくらいの年齢なのに、家事もするし千歳の面倒も見る。早苗が元気なことが、千歳にとってとても幸いなことだ。もし早苗が病気にかかってしまったら、千歳も困るのだ。
カレンダーを見ながら、千歳はまた都会のことを考えていた。きっとみんな海水浴やら夏祭りやらで盛り上がっているんだろう。都会にいる時、最低最悪いじめ女の梨紗と花火大会の約束をして、毎日カレンダーを見ていたことがあった。
千歳は頭を横に振り、嫌な思い出を消した。
気分転換するために外に出ることにした。汗でぐっしょりと触れた服を着替えて、熱中症にならないように帽子を被った。
裏口のドアを開けると、すぐ目の前に自転車が置いてある。もう何年乗っているかわからない自転車だ。しかし今でもしっかりと走る。千歳の相棒のような存在だ。
サドルに跨り、どこに行こうかと考えた。すぐに昔よく遊びに行った森を思い出した。場所ももちろん覚えている。さっそく千歳は自転車を動かした。
五分もかからずに森に着いた。もう何年も経っているはずなのに、森は何も変わっていなかった。中に入ってみると、たくさんの葉が覆いかぶさって、屋根のようになっていた。そのおかげでとても涼しかった。これもまた昔と同じだった。こういう場所があることを、千歳は知っているのだ。
森は千歳をだましたりしない。嘘もつかない。ただ静かに見守ってくれている。傷ついた心を癒してくれる。千歳にとってかけがえのない友人だ。側に生えている草花も千歳を裏切ったりしない。都会に行けとも言わない。千歳の本当の友達はこの素晴らしい大自然なのだ。
自然は、人間にとってとても大事なものだと千歳は気が付いた。こうした自然があるから、人は純粋に生きていける。優しい気持ちになり、純粋に愛することができる。固いビルに囲まれた場所にいたら、心も固くなってしまうのだ。固い壁を作り、他人を疑ったりするのだ。都会にいる人が冷たくなったのは、自然が消されてしまったからだろう。
やはり自分は田舎にいるべきだ、と千歳は改めて思った。都会に行きたくないという想いがさらに強くなった。何が何でも、都会になんて行きたくない。
しばらく歩き回り、森を出た。そして自転車に跨ろうとした時に、声が聞こえたような気がした。それも年をとった人ではなく、自分と年齢の近い人の声だと思った。
しかし千歳はそのまま自転車を走らせた。そんな馬鹿なことがあるわけがない。ここにいる若い人間は、もう自分だけなのだ。
そのまま家に帰る気にはならず、寄り道をすることにした。川瀬おばあちゃんの家に向かって、勢いよく道を走っていく。
「おばあちゃん!あたしだよ!」
大きな庭の掃除をしていた川瀬おばあちゃんに、明るく声をかけた。
いつもと同じく、川瀬おばあちゃんはにこにこと笑い、千歳を迎え入れてくれた。
「よく来たね。お茶とお菓子持ってくるから、座ってて」
うん、と言って千歳は座布団の上に正座した。そしてぐるりと和室の中を見渡してみた。
本当に、この家は広い。一人で暮らしているなんてもったいない。もし「桜の舞」がこんなに広くて綺麗なお屋敷だったら、宿泊客の数はかなり多かったはずだ。たたむなんてこともなかっただろう。そう思うと千歳は惨めな気持ちになった。
お茶とお菓子を持った川瀬おばあちゃんがやってきた。千歳は今考えていたことを頭の中から消した。
「ありがとう。迷惑じゃなかった?庭の手入れしてたのに……」
そう言うと、川瀬おばあちゃんは手を振った。
「何言ってるのよ!ちいちゃんが来てくれて、ものすごく嬉しいよ。そんなこと気にしないで」
ありがとう、と言って千歳は微笑んだ。川瀬おばあちゃんもにっこりと笑った。
しかし突然川瀬おばあちゃんは不思議な顔をした。そして心配するように言った。
「ちいちゃん、何かいつもより元気ないね」
「えっ」
千歳が目を丸くすると、川瀬おばあちゃんはじっと顔を見つめてきた。
「何だか、いつものちいちゃんと、ちょっとだけ違って見えるんだけど」
「違って見える?」
そう言いながら、千歳はどきりとした。もしかして、祖父の言葉で千歳が落ち込んでいることに気付いているのか。
「何か嫌なことがあったの?遠慮しないで、おばあちゃんに言って」
動揺しながら千歳は首を横に振った。いくら家族のようだと思っていても、店をたたむということは話せない。金城家の話なのだ。川瀬家は関係ない。
「嫌な事なんて何もないよ」
しかし、川瀬おばあちゃんはまだ首を傾げている。
「でも……いつもよりも元気がないように見えるんだけど……。何か悩み事とかあるんじゃないの?」
千歳はもう一つの悩みを思い出した。都会に行ったほうがいいのかという悩みだ。
「悩み事なんてないよ。本当に何もないから」
無理矢理笑いながら言った。そして川瀬おばあちゃんが自分の悩みに気が付いたということに驚いた。永いこと生きているだけに、他人の顔を少し見ただけで相手がどんなことを思っているのかがわかるのだ。老いている人たちはみんな鋭い洞察力を持っているのだ。
そうなの、と言って川瀬おばあちゃんは質問を止めた。千歳は安心して小さく息を吐いた。
それからは全く違う、楽しいおしゃべりをした。千歳がいろいろな話をし、川瀬おばあちゃんが聞き役に回る。どんな話をしてもきちんと最後まで聞いてくれるのが川瀬おばあちゃんなのだ。
しばらくして、川瀬おばあちゃんは「あっ」と小さく声を出した。
「何?どうしたの?」
千歳が聞くと川瀬おばあちゃんは窓の方を指差した。
「雨が降ってる。大雨よ」
「雨?」
「さっきまですごく晴れてたのに」
すぐに千歳は立ち上がった。残念だったが自宅に帰らなくてはいけなくなった。
「ごめん。あたし、家に帰らなくちゃ」
「そうね。おばあちゃんたち心配してるだろうし」
川瀬おばあちゃんが貸してくれた傘をさし、雨で濡れてしまった自転車をひきながら、千歳はゆっくりと家に向かって歩いた。
裏口の前に自転車を置き、そのままドアに入った。こんなに髪も服も濡れていたら絶対に早苗は怒るだろう。どこに行っていたんだと言われるだろう。早苗に注意されるのは苦手なのだ。
「ちいちゃん」
さっそく早苗が千歳の元にやって来た。動揺しながら千歳は言った。
「ごめん。ずっと川瀬おばあちゃんのところにいたの。勝手に外に出ちゃって……」
しかし早苗は全くそんなことに気にしていないようだった。目を丸くして興奮したように顔を赤くしていた。
「ど……どうしたの……?」
千歳が言うと、早苗はがっしりと千歳の肩を掴んだ。
「来たのよ……」
「来た?何が?」
わけがわからず千歳は首を傾げた。しかしすぐに早苗の言いたいことがわかった。
「……まさか……」
「そうよ」
早苗は興奮で震えていた。千歳の体も震えだした。
「お客さんが……」
そう言うと、早苗が思い切り抱きついてきた。嬉し涙も流していた。
「やっと、お客さんが来てくれたのよ。願いが叶ったのよ!」
千歳も早苗に抱きついた。奇跡が起きたとしかいいようがなかった。まさかこんな場所に宿泊客が来てくれるなど、夢にも思わなかった。
「よかった……。まだあたしたち、働けるんだ……」
千歳が言うと、早苗は何度も頷いた。




