二話
千歳が家に戻ると、祖母の早苗が台所で夕食を作っていた。
「ただいまあ」
千歳が声をかけると、はっとしたように、振り向いた。
「ああ、おかえりなさい」
いつものように、丁寧な口調で言った。
「ちょっと遅かったわね。どこかに寄ってたの?」
「うん。川瀬おばあちゃんのところに行ってた」
そう言いながら、千歳は台所に入ろうとした。
するとすぐに早苗のお説教が飛んできた。
「ちいちゃん、ちゃんと手を洗いなさい」
千歳は言われたとおり、洗面所に向かって歩いて行った。
手を洗いながら、千歳は古くなった洗面所を見回した。壁は茶色く変色し、床にはホコリがたまっている。窓も開かなくなってしまった。トイレのドアも、開けづらくなってきた。
早苗は小さい頃、「お嬢様」みたいに育てられたようだ。確かに茶道や華道も得意だし、礼儀にはとにかく厳しい。
きっと、子どもの時は、こんな家に住んでいなかっただろう、と、千歳は早苗の顔を頭に浮かべながら思った。
まさか自分がこんな家に住むなんてこと、思ってなかったはずだ。
千歳は、早苗を見ながら、かわいそうだとよく思う。
台所に入り、川瀬おばあちゃんからもらったしじみの佃煮を早苗に渡した。
「あらあら。また川瀬さんから?」
早苗は冷蔵庫に佃煮を入れながら、困ったように笑った。
「次はどんなお返しをしなきゃいけないのか、迷っちゃうわ」
千歳は、川瀬おばあちゃんに、帰る時に言われたことを、早苗に言った。
「川瀬おばあちゃんは、あたしがいるだけで、満足なんだって。だから、お返しなんか、いらないんだって」
早苗はうーん……と考え、「でもねえ」と首を捻った。
「ちゃんとお返しをしなきゃ、だめよねえ」
そんなことを話していると、廊下の奥から、祖父が歩いてきた。
「何を話しているんだ?」
眠そうな声で言った。話し声がうるさくて、起きてしまったのだろう。
「川瀬さんから、しじみの佃煮を頂いたのよ」
早苗に言われ、祖父の顔がぱっと明るくなるのがわかった。祖父は佃煮が大好きだ。特に、しじみが一番お気に入りだった。
「そうか。じゃあ、何かお返しをしなきゃいけないな」
そして、早苗と話し始めた。
千歳は自分の部屋に向かって歩いて行った。
最近、祖父が出てくると、千歳は逃げることにしていた。嫌な話をしてくるからだ。
「ちいちゃんは、結婚とかしたくないのか?」
「したくない」
千歳が答えると、祖父は残念そうな顔をした。
「もうちいちゃんも17歳だ。都会に出て行こうと思ったりしないのかい?恋人が欲しいとか、思わないのかい?」
「嫌だ。絶対、都会になんか行きたくない。恋人なんて、いなくたって死ぬわけじゃないし」
千歳は一生、この田舎で生きていくと決めていた。もちろん、これには理由がある。
「あたし、ずっとここにいるよ。ここで生きていく」
そう言う千歳に、今度は早苗が言ってくる。
「都会に行ったら、おいしいご飯を食べられたり、綺麗な洋服を着たりできるのよ」
しかし千歳は首を激しく横に振った。
「行かない。おいしいご飯も、綺麗な洋服もいらない。結婚もしたくないし、子どもも欲しくない」
祖父はさらに残念そうな顔をして、「そうか……」と呟いた。
「……確かに、私たちがちいちゃんを護るって言ったんだものね」
早苗もため息をつきながら、俯いた。
孫の幸せそうな姿を見たいのはわかるのだが、千歳は何としてでも都会に行くわけにはいかなかった。
「ぜっっったい行かないから!」
そう言って、千歳は自分の部屋に逃げるのだ。