十二話
梨紗が声をかけてきたのは、みなみと話をしてから二週間経った時だった。
昇降口で靴に履き替えていると、突然梨紗に名前を呼ばれた。
「千歳、ちょっと話があるんだけど」
振り向くと梨紗が困ったように笑っていた。
「話?」
千歳は首を傾げた。梨紗がこんなことを言ってくるのは初めてだった。
基本的に千歳は梨紗の言うことは何でも聞いた。せっかくの友情を壊したくないために、梨紗に逆らうようなことは絶対にしないと決めていた。だからこの時も話を聞くことにした。
梨紗の元に行くと、申し訳なさそうに梨紗が言った。
「ここじゃちょっと話せないんだ」
梨紗は後ろを向き、歩き出した。少し不思議に思ったが特に気にせず、千歳はそのまま連いていった。
梨紗が向かった場所は誰も使っていない空き教室だった。一番角の部屋で、生徒たちの声はほとんど聞こえない。
「誰にも聞かれてほしくないから」
そう言って梨紗は教室の中に入った。
しかし千歳はその場に立ったまま動かなかった。なぜか嫌な予感がした。千歳の嫌な予感は結構当たるのだ。
「どうして誰にも聞かれたくないの?」
千歳の質問に、梨紗は何も答えなかった。
「梨紗、ちゃんと答えて……」
「千歳、早く入って。そうしないと日が暮れちゃう」
千歳の言葉を遮り、梨紗は言った。
「ね、ほら。早くこっちに来て」
そう言いながら梨紗は千歳の腕を掴んだ。後になって考えれば、この時逃げてしまえばよかったのだ。しかし千歳はそのまま入ってしまった。
千歳が椅子に座ると、梨紗も向き合うように座った。
「話っていうのは」
ゆっくりと梨紗は話し始めた。千歳は梨紗の顔から目が離せなくなっていた。
「お金を貸してほしいってことなの」
梨紗は甘えるような口調で言った。あまりの衝撃に体が固まった。
都会に行く前に、早苗はいろいろなことを千歳に話した。その中で一番しつこく何度も聞かされたのはお金のことだった。
「ちいちゃん、よく聞いて」
早苗の真剣な顔と力強い声が頭の中に浮かんだ。あんなに厳しい目つきをしたのは初めてだった。
「都会に行ったら、絶対にお金を貸したらいけないよ」
「えっ?」
千歳は首を傾げた。お金のことをよくわかっていなかった。
早苗は続けた。さらに真剣な表情で千歳を見つめた。
「お金はね、人間の頭の中を狂わせる、麻薬みたいなものなの」
「まやく……?」
千歳は麻薬という言葉を知らなかった。千歳の住む田舎では麻薬なんてものは存在しない。
「麻薬っていうのは、頭の中がおかしくなる薬みたいなもの。一度匂いを嗅いだら、もう逃げ出せない。もっともっとほしいってなっちゃう。それで、人間はボロボロに壊れちゃうの」
「頭がおかしくなって、ボロボロに壊れる……」
千歳は想像できなかった。そんなことが本当に起きるのだろうか。
「お金も、もっともっとほしいってなるでしょ。お金が嫌いな人なんてどこにもいない。みんなお金がほしくてほしくて仕方がないの。お金がほしいから、人を殺しちゃう人だっているんだから」
千歳はどきりとした。冷や汗が流れた。
「人を殺しちゃうの?」
早苗は頷いた。そしてきっぱりと言い切った。
「お金がほしいって人はたくさんいるの。だから絶対にお金を貸したらいけないよ。どんなに仲がよくて優しい友達にも、絶対に貸したらだめ。貸しても返ってこないからね。絶対にそんなことをしたらだめだからね。もし貸してしまったら、その次も、またその次も貸さなきゃいけなくなる。そうしたらちいちゃんのお金はなくなっちゃうよ」
早苗の言葉を聞きながら、千歳は緊張した。お金がどれほど恐ろしいものか、早苗に言われなかったらわからなかった。
千歳は早苗の顔をじっと見つめ、誓うように言った。
「わかった。あたし、絶対にお金を貸したりしない。どんなに仲がいい友達にも貸さない」
早苗の厳しい顔が緩んだ。そして安心したように息を吐いた。
「約束だからね、ちいちゃん」
「うん」
千歳は頷き、早苗と指きりげんまんをした。
そして今、早苗が言っていた「お金がほしい人」に出会ってしまった。ずっと女神だと思っていた梨紗も、お金がほしくてほしくてたまらない人間だったのだ。早苗の言っていたことは本当だったのだ。
千歳は動揺した。体中から冷や汗が噴出した。緊張の糸で縛られているようだった。
「千歳、お願い」
手のひらを合わせて梨紗が言った。友達なんだからお金を貸すのは当たり前でしょ、という目つきだった。しかし早苗は「どんなに仲がよくて優しい友達にも絶対に貸したらだめ」と言っていた。
何と答えたらいいかわからず、千歳は黙ったまま俯いた。
「ねえ、千歳……」
もう一度梨紗の声が聞こえ、千歳は震えながら小さく口を開いた。
「……何のために使うの……?」
とりあえずいろいろと聞いてからにしようと思った。すぐに渡すのは危険だ。
すると梨紗はそっと目を逸らし、何かを考えるように上を向いた。
「別に、何のためってことは考えてないんだけど」
曖昧な答えを聞き、さらに怪しくなった。もう一度千歳は聞いてみた。
「じゃあ、いくら必要なの……?」
梨紗はまた上を見つめた。芝居にしか見えなかった。
「本当にちょっとでいいんだ。具体的には言えないけど……」
怪しさが倍増した。絶対に金を取る気だ。梨紗は女神でもなんでもなかったということを知り、千歳は悲しくなった。
「ごめん」
千歳はできる限り動揺を隠し、静かな声で言った。
「悪いけど、あたし、どんなに仲がいい人でもお金の貸し借りはだめだって親に言われてるから」
すると梨紗は一瞬睨むような目をし、すぐにもとの笑顔に戻った。しかしその笑顔は完全に作り笑いだ。目が笑っていない。
「そっか、そうだよね。ああ、じゃあ香央理に頼もうかな」
早口言葉のように言うと、千歳を残しさっさと教室から出て行った。もうこいつには用がない、と背中に書いてあった。
千歳はふう、と息を吐いた。危なかった、とまた独り言を呟いた。
「おばあちゃん、約束、守ったよ……」
そう言って大切な財布が入っている鞄をそっと抱きしめた。




