始まりは一本の電話
多部春成はさっきまで四十分かけて風呂に入っていた。
夜八時に電話がかかってくることは珍しいことだった。かけてきたのが恋人の為家雫。雫と出会ったきっかけは大学のサークル。
「もしもし?珍しいね。君からかけるなんてさ」
「何となく声を聞きたくて・・・・・・」
雫は今日、友達と学食で昼食を食べていたときに春成について話をしていた。
「雫はいつ彼と一緒に暮らすの?」
「暮らす!?」
「そうよ。周囲の人達も恋人と同棲しているでしょ?」
「それはそうだね・・・・・・」
大学生になってから、このような話をよく聞くようになった。通っている大学は同棲しているカップルが多い。
そのことを別の大学の友達に話すと、みんな驚いていた。
「私達、まだ手を繋いでデートぐらいしかしていないのに・・・・・・」
「嘘でしょ!?雫と春成さん、恋人同士になって、半年は経つのよね?」
「うん」
振りかえってみると、あっという間だ。春成と一緒に過ごす時間は楽しいときがたくさんある。
たまに喧嘩をするときはあるけれど、時間をかけて話をして、必ず仲直りをする。
「そろそろそんな話をしてもいいんじゃないの?」
「まだ早いよ」
「あんたね・・・・・・そんなにノロノロとしていると、他の女に横取りされるよ?」
「横取り・・・・・・」
そんなことをされては困る。雫にとって春成は初恋相手でもあるので、特別な存在だ。突然、女が現れて、大切な人を奪われることは許されていいことではない。
昼休みに友達と話していたことを春成に伝えると、納得していた。
「なるほどね、それで不安になって、僕に電話をかけてきたんだ?」
「不安になんてなっていません!」
「嘘だよ」
「本当です!」
雫の大声に驚いたのか、春成が黙り込み、雫も何を話していいのかわからず、黙ってしまった。数秒間の沈黙が長く、重く感じた。
雫は口を開きかけては閉じ、また開きかけては閉じていた。
「雫」
「は、はい!」
「君は同棲したい?」
「したいです。だけど、正直・・・・・・今はまだ・・・・・・」
今はまだそこまで考えることができない。
だけど、いつかはしたい。一緒に外出したり、毎日美味しい手料理を作って、好きな人を喜ばせたいから。
「わかった」
「こんな遅い時間にすみません。失礼します」
電話を切ろうとした雫に、春成が慌てて止めた。
「待って、まだ切らないで!」
「春成さん?」
「もう少し話をしよう?」
「いいですよ」
それから雫と春成は約三十分話をしていた。学校のこと、行きたい場所、夢中になっているものなど。
話している間、ずっと笑いあっていた。
「雫、さっきの話に戻っていい?」
「何の話ですか?」
「一緒に暮らす話」
それを聞いた雫は頬の熱が上がった。
「は、はい!」
「同棲は急がなくていいけれど、たまに互いの家にお泊りしてみない?」
「お泊りですか!?」
毎日でなくとも、雫はかなり緊張する。オロオロしながら、何を話すべきか悩んでいた。
「修学旅行だと思ったら、少しは気が楽にならない?」
「修学旅行?」
そう考えると、確かに少しだけ気が楽になった。
お泊りに興味を示した雫に春成がほっとしたように笑っていた。
「だからさ、今日から始めてみない?」
「始める?」
家のチャイムが鳴り、玄関の扉の覗き穴から見ると、春成が立っていた。
雫が勢いよく扉を開けると、ぶつかりそうになった春成は扉を手で押さえた。
「こんばんは、雫」
「こんばんは。あの、どうぞ入ってください」
雫が中へ入れようとすると、春成はそっと雫の手を握った。
「今晩、家に帰ることができないんだ。泊めてくれる?」
春成の嘘が何だか可愛らしくて、雫はくすくすと笑った。
「わかりました。よろしくお願いします」
「うん、こちらこそよろしくお願いします」
冷たい手をした春成にホットミルクを作ることを考えながら、雫は春成の手をぎゅっと握りしめて、彼に微笑んだ。そのお返しに春成は雫の頬にキスを落とした。