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メッセージ

作者: 佃木犬星

文春文庫/デボラ・ブラム著/鈴木恵訳 「幽霊を捕まえようとした科学者たち」を参考文献とし、このうち、「タイタス事件」に着想を得ています。


 キャスリンの鋭い悲鳴で飛び起きたハリーは、妻の顔色を見て仰天した。ついさっき、眠りに落ちるまであれほど優しい薔薇色であった妻の顔は、まるで凍死寸前の人間のように青ざめていた。

 荒い息をつく妻の背を撫でながら、ハリーは彼女に持病があっただろうかと目まぐるしく考えた。彼女は歯をかちかち鳴らして震えていた。その細い指先は、ハリーの腕の肉に食い込んで痛いほどだ。

「どうしたんだ、悪い夢でも見たのかい」

 ハリーはなるべく動揺を表に出さないようにして言った。そして、妻を落ち着かせるための優しいハグを試みた。しかし、妻は彼の体が近づくと、再び金切り声を上げた。

「だめよ、私を頼らないで! へまをするわけにいかないの、家庭を壊さないで! 」

「キャシー」

 今度こそ慌てて、ハリーは妻の肩を力強く揺すぶった。焦点の合わない彼女の濃蒼の目は、秒針のように小刻みに揺れていた。

「しっかりしてくれ、私たちの家庭は壊れたりしない。僕は永遠にきみの夫だし、子供たちはきみを心から愛している。何が起こったって家族は一緒だ」

 不意に、空気が変わった気がした。ハリーは、はたと顔を上げて周りを見たが、彼には何が一秒前と違っているのか分からなかった。だが、それ以前の闇と今現在の闇は間違いなく違うものだった。

 妻の吐息がようやく穏やかになった。階段の音がして、二階の子供部屋から小さな娘と息子が降りてきたのが分かった。ハリーは再びキャスリンへのハグを試みた。彼女が拒絶しなかったので、彼はゆっくりと時間をかけて最愛の妻を包み込んだ。そして振り向いて子供たちをベッドに呼ぶと、夫婦の間に入れて、まとめてハグした。

 子供たちが「マミー」と囁くと、キャスリンは母親の顔に戻り、ぎこちなく微笑んだ。

「どんなことがあっても私たちは一緒ね」

「もちろんだとも」

 ハリーは妻の告白が何であれ、自分の家族を力強く守りきるつもりでいた。それが、荒野を開拓してきたアメリカ男として当然の生き方だ。しかし、妻の色の悪い唇から発せられた次の言葉に、彼は思わず絶句した。

「私、アルバート・ブレナンがどこに居るかを知っているの」




 キャスリン・ルースは、ボストンから馬車で二時間の、リモーア・ビレッジに暮らしている。

 今年で二十八歳になる彼女の悩みは、人より少し老けて見えることだ。若い頃に気苦労が多かったためか、すでに髪の毛には白いものが混じりはじめている。やせぎすで、胸や肩に女らしい曲線がないことも、彼女の見かけを貧相にしていた。そのため、キャサリンは自分の体型よりも少しふっくら見える服を、特に、大きすぎるくらいのパフ・スリーブを好んだ。

 夫のハリー・ルースは村唯一の郵便配達人である。日に焼けた健康的な肌と、生気と情熱に満ちた鳶色の目を持つ。村の便利屋と言ってもいいほど彼の毎日は忙しく変化に富んでおり、いつも一頭立ての郵便馬車で村中を走り回っていた。

 二人はボストンの港市場で出会い、結婚した。ハリーもキャスリンもリモーアの出身者では無かったが、この村の郵便配達人の権利を安く買うことが出来たので、夫婦で移り住んだ。

 村に引っ越してきて間もなく生まれた娘のイヴリンは今年で七歳、息子の“小熊”ことハリージュニアは五歳。彼らの好きなことはキャスリンの焼くカシューナッツ・クッキーを食べることで、嫌いなことはニワトリ小屋の掃除だ。


 キャスリンは今の自分に満足している。食べるもののほとんどは、自分たちのささやかな畑で賄えるし、春になれば森にベリーを摘みに行き、夏には近くの“黒鳥湖”で泳ぐ。秋になれば庭のリンゴの樹から赤い恵みをもぎ取って美味しいジャムを作り、冬には家族で身を寄せ合い、暖炉の側で笑う。このつつましい生活を、彼女は愛しいと思っている。

(だから、へまはしないわ)




 その年の六月十三日は、よく晴れていた。

 キャスリンはキッチンで胡瓜のピクルスを作りながら、大きく深呼吸をした。

 その日はおおむね良い日だった。娘がどこからかデイジーの花を摘んできて、窓辺に飾ってくれた。息子が“厳しくチェックした”クッキーを自分の口に押し込んでくれた。六月の昼下がりはどこまでも瑞々しく、初夏の陽光が、家の隅々まで明るく照らし出していた。

 ただ一箇所、キャスリンの真後ろを除いては。

(あっちへ行ってちょうだい)

 キャスリンはぎゅっと目を閉じ、後ろを振り向かないままで念じた。

(あたしには何も出来ないわ。消えてちょうだい)

 キャスリンはあえて何気ない態度を装い、特製のハーブ入りビネガーのボトルをぎゅっと力任せに締めた。ボトルの中で胡瓜がたゆたい、びしゃんという音がした。

 いや、違う。びしゃんという音は背後からだ。

 キャスリンの後ろで、それはびしゃり、びしゃりと歩いている。その足音は右に左に、やけに遅く不安定に動きながら、キャスリンに近づいてきた。キャスリンは両手でピクルス瓶をつかんだまま、何度も神の名を呼んだ。

「マミー」

 イヴリンの声がして、キャスリンは、現世に意識を取り戻した。後ろの黒々とした湿っぽい気配は、跡形も無く消えていた。

「保安官が来てるわ。アルバート・ブレナンを見ませんでしたかって」




 キャスリンは、ハリーと出会うまでに何度か“へま”をしている。

 一度目は、七歳のクリスマス。

 まだ分別の無かったキャスリンは、パーティのために集まった一族を前にして叫んだ。

「ねえ、もっと火を大きくしてちょうだい! マーガレットおばさんが寒いって言ってるわ」

 マーガレットとはキャスリンの叔母で、その年、一族のクリスマスの晩餐を欠席していた。彼女はイギリス人の金持ちに見初められて、今は大西洋で優雅な船旅をしている真っ最中のはずなのだ。

 しかし小さなキャスリンは、マーガレットが「今そこにいる」と言って譲らなかったので、大人たちは当惑した。

「ねえ、マーガレットおばさん、どうしてそんなに濡れているの? まあ、銀の指輪を忘れたの? エイブラハムってだあれ? 」

 数日後、マーガレットが死んだという知らせが一族の元にもたらされた。彼女は旅の間にイギリス男と仲たがいをし、「アメリカに帰るわ。あの人のプロポーズを受けるの」とうわごとのように繰り返し、やがて極寒の大西洋に海に身を投げたのだ。

 彼女の実家の鏡台には、別の男からもらった銀の指輪が大切にしまいこまれていた。秘密の恋人のファーストネームは、エイブラハムと言った。



 親族は、キャスリンがマーガレットについて言い当てたことを、すべて無かったことにしようとした。特にキャスリンの厳格な母は、彼女にこう言い含めた。

「ねえ可愛いキャシー、もしもお前が、すてきな男性と結婚をして、かわいい子供を産んで、幸せな一生を送りたいと思うなら――お前に見えているものの半分を見えないことにするのよ」

 キャスリンは、それを脅しだと解釈した。母の言いつけを破れば、すてきな男性と結婚できないし、かわいい子供も産めないし、幸せにはなれないのだ。

「もしも今度“へま”をしたら、母様はお前をもっともっとぶちますからね」




 二度目の“へま”は、十四歳の時だった。キャスリンは小学校を卒業した後、両親の牧場の仕事を手伝った。時々牧師の家に行き、彼と村長の娘の間にできた小さな男の子の「ねえや」をして、小遣いを稼いでいた。

 本当のことを言えば、依然としてキャスリンには不可思議なものが見えていた。

 彼らはキャスリンが少しだけ遠い目をしたとき―――夕食の献立や、明日の服装や、最近食べていないパンケーキのことを考えているとき―――にふらりと現れた。彼らは、夜の闇をそっくりゼラチンで包んだような姿をしている。キャスリンはそれらを見ないように努めたので、顔立ちや性別などといったところまで判別できることは稀だった。

 だが、その日に限ってキャスリンはその闇の煮凝りの顔を見てしまった。いや、見せられてしまった。

 彼は、キャスリンが望もうと望むまいとに関わらず、ずかずかとやってきて彼女の肩をつかみ、力任せに揺すったのだ。

 霊に接近され、なおかつ触られるなどということは、さしものキャスリンにも初めての体験だった。目の前にあるその顔は、これまで見たどんなものより恐ろしかった。目をカっと見開き、頭からおびただしい血を流している。額に、はっきりとした銃創が見えた。

 彼女は、思わず悲鳴とともに叫んだ。

「どうなさったんです、牧師様! 」


 彼女の悲鳴を聞いた奥方が駆けつけ、キャスリンに何を見たのかを言うように強要した。女主人の命令に、キャスリンは母親の言いつけを忘れ、すべて打ち明けてしまった。奥方は青ざめると、すぐに馬を飛ばして、牧師の外出先へと向かった。

 その日、かの町では久しぶりの死刑執行があり、牧師は囚人に最後の慰めを与えようと出かけていたのだ。しかし、囚人に穏やかな死は訪れなかった。彼は処刑台から逃げ出し、保安官の銃を奪うと周囲に乱射したのである。死刑囚は保安官たちの返り討ちにあったが、何人かの観衆が負傷した。運悪くもっとも囚人に近い場所に居合わせた牧師は、額を打ちぬかれてこの世を去った。


 この事件で、キャスリンは母の言いつけが正しかったことを、まざまざと思い知った。

 キャスリンは女主人に解雇を命じられたのみならず、死刑囚との関わりあいを疑われた。最初から、牧師が死ぬことを知っていたのではないかと言うのである。あげくの果てには、牧師との肉体関係までも尋問された。彼女はすべてにおいて潔白だったが、疑いがかけられることそのものが、十七歳の少女には辛すぎた。

 疑惑が晴れてからも、キャスリンの受難は続いた。近隣の人々の態度が変わったのである。気味が悪いと遠巻きに見られるのはまだ良いほうで、最もキャスリンを傷つけたのは、彼女の母も祖母も霊媒であるという噂が立ったことだった。キャスリンの先祖は綿々と続く魔女の家系である――そんな物語まででっち上げられていた。


 キャスリンは逃げるように田舎を離れた。今度こそ、“へまをしない”と固く決意して。


 以来、彼女は誓いを、二八歳の今日まで一度も破っていない。夫のハリーに自分の異常な力のことを打ち明けてはいないし、そんな事実をおくびに出したこともない。子供たちへのおとぎ話さえ、魔女や怪物、吸血鬼や幽霊やその眷属が出てくるようなものを避けてきた。教会への祈りは欠かさず、敬虔なプロテスタントがやるべき儀式はすべて、真面目に果たすようにしてきた。

 そのおかげで、こんなに確かな幸せを手に入れることができている。

 だからこそ、彼女はここで過ちを犯すわけにはいかなかないのだ。




「アルバート・ブレナンが居なくなったらしいんだ」

 避けたいと思う話題ほど、向こうから駆け足でやってくる。ハリーは帰宅して早々、首元の汗も拭わないうちにそう言った。子供たちと一緒に夕食の皿を並べていたキャスリンは、またあの気味の悪い音を聞いたような気がして、肌を粟立たせた。

「それは心配ね」

 妻の反応がいつもより鈍いことに、ハリーは気づかなかったようだ。「捜索隊を作ることになりそうだよ」と言いながら、自分の椅子に着いた。

 アルバート・ブレナンは、村はずれにある牧場の三男だ。今年で十七歳か、十八歳になる。

「普通の若者なら、村での暮らしが嫌になって、どこかに出て行ってしまったんだと思うところだけれど」

 ハリーは食事の間も、やや興奮ぎみに話し続けた。子供たちは大好きなほうれん草のオムレツを口に運ぶのも忘れて、父親の話に釘付けになっている。

「アルバートに限って、そんなことは出来ない。何しろ、彼は足が悪いからな」

 キャスリンは咳払いをした。子供たちの前で、不吉な噂話をしてほしくなかったというのもある。が、それ以上に、自分の頭の中にアルバートのイメージを構築したくなかった。

「きっと、アルバートは、家出をしたのよ」

 おませなイヴリンが、人参のピクルスを突きながら言った。

「アルバートは馬に乗るのが上手よ。あたし、見たことがあるもの」

 ハリーは幼い娘の言葉に、真剣な顔で頷いて見せた。

「それは過去の話だよ、イヴリン。今のアルバートが一人で馬に乗るのはとても困難なんだ。それなのに、彼はいなくなった……彼の馬も一緒にね。誰か悪い友達が、手引きをしたんだろうか」

「わるいともだちってなあに? 」

 ハリージュニアがあどけない口調で言ったので、ようやくハリーも自分の不用意なおしゃべりに気づいたようだった。彼は子供たちに肩をすくめて見せると、キャスリンに言った。

「明日から僕は捜索隊の手伝いをすることになると思う。道案内をするつもりだ」

「捜索隊だなんて、大掛かりなのね」

 キャスリンはよそよそしくなりすぎない程度に、事の上っ面をなぞった。しかし、彼女の夫は沈痛な面持ちで耳打ちをしてきた。

「保安官は潜水士を何人か雇うつもりだと言っていた。アルバートの馬が、黒鳥湖のほとりで見つかったんだよ

 彼女の後ろで、また、べちゃりという音が聞こえた気がした。



 あれから数日、アルバート・ブレナンは見つかる気配が無い。ボストンの船舶会社から潜水士が何人かやってきて湖に潜ったが、結果は思わしくなかった。

 イヴリンいわく、潜水士は悪魔のようだった。ぴったりした革の潜水服を着た彼らが、丸いガラスの奇妙なお面をつけて湖にもぐっていくさまは、平穏な村に視覚的な異常をもたらした。

 しかし、最新の潜水服に身を纏った彼らをもってしても、黒鳥湖の透明度は絶望的に低く、途方もない位に深かった。彼らが藻だの水草だのをいっぱい巻きつけて何度浮き上がってきても、アルバートの手がかりは一つたりとて浮き上がって来なかった。

 裕福な牧場主であるミスター・ブレナンは息子のための捜索費を惜しまなかったが、それがどれだけかかるものか、いつ終わるものか計り知れなかった。村人たちは、次第にアルバートが誰かの手で別の馬車に乗り、彼しか分からない新天地に旅立ち、幸せに暮らしているのではないかと思うようになった。




 アルバート少年は、確かにあまり幸せとは言えない青春を送っていた。かつての彼は健康で、誰よりも馬に乗るのが上手だった。くすんだブロンドの髪と笑顔がチャーミングだったアルバートは、そのまま成長すれば村で一番魅力的なカウボーイになることは間違い無かった。だが、彼は自分の腕前を信じるあまりにひどい落馬をし、後ろを走っていた馬車に轢かれた。以来彼の足はわずかしか動かなくなり、あれほど輝かしかった笑顔は完全に消滅してしまった。

 ブレナン一家がアルバートを家に閉じ込めている、という噂もあった。ミセス・ブレナンが、見舞いに来る友人やガールフレンドを片っ端から追い払っているという噂も。それが真実にしろそうでないにしろ、アルバートが人前に決して出て来なくなったことだけは間違いなかった。

 アルバートが彼の部屋から消えたのは、ミセス・ブレナンが買い物のために街に出て行った朝9時から、帰宅した夕方4時までの間のことだという。彼のベッドには読みかけの本が置いてあり、遺書らしきものは何も無かった。無くなっていたのは、彼のカウボーイハットと乗馬靴、そして愛馬だった。まるで足が突然全快したかのように、アルバートは家からさっさと出て行ってしまったのだ。

 帰宅するなり異変に気づいたミセス・ブレナンは、半狂乱になった。ブレナン一家は三男の姿を求め、隣町までもくまなく探した。彼の愛馬が黒鳥湖のほとりで草を食んでいるのが見つかったのは、翌朝のことだった。



「だんだん、僕もアルバートが家出をしただけじゃないかと思うようになってきたよ」

 ハリーはキャスリンと同じベッドで、少し疲れた顔をして言った。

「きっと、アルバートの足はすっかり治っていたんだ。それを、ブレナン一家は過保護にも家に閉じ込め続けていたんじゃないかな。理由は分からないけれど」

 キャスリンは話の腰を折る為にわざと寝返りを打った。ハリーにそういう話をしてほしくなかった。しかもこんな真夜中に、ベッドの中で。

「まあ、確かにブレナン夫人は少しばかり神経が過敏すぎるところがある。アルバートの話になると、彼女はとても情緒不安定になるんだよ。息子が窮屈に思うのも無理はないかもしれないな」

「あなた」

 ハリーをたしなめるように、キャスリンは彼の頬を撫でた。夫は妻の髪をゆっくりと梳き、彼女を安心させるように微笑んだ。

「ごめんよ、こんな話ばかり。明日捜索隊が帰るらしい。これで捜索は打ち切りさ。保安官は、アルバートを家出人として登録するつもりだそうだ。そうしたら、僕の手伝いも終わるよ」

 やがてハリーは、キャスリンを置き去りにして眠ってしまった。彼の胸が規則正しく深い呼吸を繰り返すようになっても、キャスリンは眠れずに、目を見開いて考えていた。



(わたしのしていることは、正しいのかしら)

 今も、気配がある。彼は、夫婦の寝室の隅で、まるで二人に遠慮するかのように、大人しく座り込んでいる。

 キャスリンが何度無視しても、何度追い払っても、アルバート・ブレナンは結局、彼女のもとに帰ってくるのだ。

 時折、ふらりとどこかに居なくなることはある。自分の訴えを聞いてくれるほかの誰かを探しに行っているのか、教会に救いを求めに行くのか。あるいは、母親の顔を見にいくのかもしれない。だが彼はとぼとぼと、ぎこちない足取りでキャスリンの背後に戻ってくるのだ。

 まるで、キャスリンしか頼れる所が無いとでも言うように。

(アルバートは死んでいるわ、湖の中で)

 彼女は夫の胸の中に顔を埋めて考え続ける。このまま明日になれば、きっと、捜索隊は解散し、アルバートは「どこかに行った」ことになるのだろう。謎は謎のままで終わり、やがて風化していく。ミスター・ブレナンやミセス・ブレナンは諦めずに息子を捜し続けるかもしれないが、それが何らかの事情で出来なくなったとき、この事件は終わる。ブレナン夫妻は天寿を全うし、アルバートの兄弟たちが時折、彼の行方に思いを巡らす程度になるだろう。

 その方がいいのかもしれない。少なくとも、ブレナン一家は”結論”を味わずに済むのだ。

(でも、本人にとってはどうだろう。もしアルバートが、ハリージュニアだったら、どんな結果を望むだろう)

 考えて、キャスリンは暖かな寝床の中でひどい寒気を感じ、体を震わせた。想像するだに恐ろしいことだった。一家のかわいい小熊は、一人ぼっちで湖に留まることになるのだ。両親の名を呼びながら、僕はここだよと叫びながら、永遠に水の中でゆらゆらと―――――。

 ふと、ハリーが身じろぎをした。キャスリンは夫の胸から顔を上げた。

「見つけてよ」

 水草にまみれたアルバートが、ベッドの真上からキャスリンを覗き込んでいた。




 郵便配達人のハリー・ルースが、保安官のマシュー・ダンパーに捜索の続行を懇願したのは翌朝のことだった。黒鳥湖のほとりでもう一度調べて欲しいところがある、と、彼は言うのだ。

「信じてもらえないとは思うけれど、妻のキャスリンがアルバートと夢で会ったらしいんだ。彼は自分の居場所を妻に訴えた。自分は湖の中にいると」

 ダンパー保安官は一笑に付したが、結局、このお人よしの郵便配達人にチャンスを与えることにした。何しろ、捜索の打ち切りを決めてからというもの、ブレナン一家からの抗議が凄まじかったのだ。保安官は、ブレナン夫妻にもう一度だけ潜水することを約束した。が、ほとんどのポイントを捜索し終わっており、新たなアイディアは皆無だった。夢のお告げであろうが何であろうが、“あと一回”をクリアすれば捜索は終わる。最初から無駄と分かっている作業だし、もうどこでもいい、というのが正直なところだった。

 潜水士は一人だけ用意した。一番潜りの上手いフリッツ・ユーバシャルというドイツ系の男だった。若くて屈強なその男は、はなからこの仕事をばかにしていた。

 保安官と潜水士が黒鳥湖にやってきてからほどなく、郵便馬車に乗ってルース夫妻が到着した。

ダンパー保安官の知る限り、キャスリン・ルースはどこにでもいるありふれた主婦だった。決して美人とは言えないが、謙虚で、信心深くて、料理上手なところが、村での彼女の評判を上げていた。ダンパーの知る限り、彼女はおかしな夢を見たといって捜索にしゃしゃり出てくるタイプの女では無いはずだった。

 夫の手を借りて馬車を降りたキャスリンは、しかし保安官の知る女と違っていた。蒼白の肌と、真一文字に引き絞られた唇は、奇妙な威厳をまとっていた。彼女が慎み深いお辞儀をすると、保安官と潜水士は嘲笑を凍りつかせた。気がつくと、保安官は帽子を脱いで胸に当てていた。

「御案内します」

 そう言ってキャスリンが自分の前を通り過ぎた時、保安官は蒸し暑い初夏の湖畔に突然霜が舞い降りたような、体の芯までくる身震いを感じた。

 キャスリンはほとんど何も言わなかった。彼女は黒鳥湖をぐるりと取り囲む板張りの桟橋を歩いた。

 桟橋は黒鳥湖で魚釣りや鴨射ちをするために作られたもので、手すりは無かった。ところどころ深い葦や水草が繁っていて、目測を誤れば足を踏み外しかねない危険な場所もある。最初、ダンパー保安官はアルバートがここから落ちたものと考えていた。そのため、桟橋周辺はすべて、潜水士たちがくまなく探し尽くしている。

 キャスリンの細いちっぽけな背中を見ていると、ダンパー保安官の波立った心は正常に戻ってきた。彼女の後ろには、心配顔の夫が付き添っている。田舎の主婦に何ができるというのか。きっと、キャスリン・ルースは家の中でひまを持て余すあまり、夢と現実の区別がつかなくなったのだ。気の触れた女のたわごとなど、さっさと終わらせてしまおう。

「ここです」

 不意に、キャスリンが桟橋の木杭の一つを指差して言った。

「ここに潜って下さい」

 キャスリンの指が示す先をしばし見つめた後、保安官と潜水士は同時に顔を見合わせた。そのポイントは二人にとっておなじみの場所だった。誰のものか分からないブーツが発見されたので、重点的に調べられた場所なのだ。結局、ブーツはアルバートのものでは無いとブレナン夫人が証言し、ポイントは疲労とともに放棄された。

「こんな無駄なことはそう無いな」

 フリッツは不満たらたらに暑い潜水服を着込んだ。保安官が日給を割増することを保証するまで、若い潜水士は文句を言い続けた。

 フリッツが桟橋から重りを落とそうとすると、キャスリンは彼を制した。

「ここではなく、もう少しこちらです。湖側ではなく、橋の方を見てほしいの。この杭の下の底から二番目、組み上げられた木枠に引っかかるようにしてブーツの先が見えるはずです。アルバートの体や頭は、こちらからは見えないわ。水流のせいで、木組みの奥に引っかかってしまっていますから」

 キャスリンの言葉は冷静で端的だった。ダンパー保安官はあっけに取られた。

「水草が視界を覆っていますから、注意して下さい。あなたが前に潜った時よりももっとひどく繁っているはずです。それから、水草をかき分けるときは、どうぞ泥を巻き上げないようにしてね。ブーツが腐って、木枠と似たような茶色になってしまったから、見分けがつきにくいかもしれないと彼が言っているわ」

 フリッツは貼り付けたような薄笑いを浮かべて保安官を見た。保安官は大げさに首をかしげ、肩をすくめて見せた。二人に出来る最大限の強がりだった。

 フリッツが茶色い水面の奥へと消えていくと、保安官は自分の掌を握りこんだ。掌の中はじっとりと汗ばんでおり、それでいて、指先は氷のように冷たかった。

 ぞっとしていた。昔、強盗に銃口を向けられた時でさえ、こんなに怖気をふるわなかったはずなのだが。ダンパーは隣で湖面を見下ろす主婦を直視することが出来ない。

(もし万が一この真下でアルバートが見つかったとしたら、他殺を視野に入れ、キャスリンをまっさきに容疑者に加えなければ)

 頭ではそう分かっているのに、彼はその女の横顔を盗み見る気にはなれなかった。

 恐ろしい。強盗より、殺人犯より、水中にあるかもしれない死体より、この女が。

 やがて、湖面にぽかりと何か上がってきた。

 それは腐りかけた乗馬靴だった。




 “へまをしない”――そう誓ったはずだったのに。

 キャスリンは揺り椅子に揺られながら目を閉じた。

 アルバートの亡骸が見つかったことで、あらゆる角度からの検証が始まった。

 誰かがアルバートを湖畔に連れて行き、突き落としたのではないか――その容疑に関しては、キャスリンが第一に疑われた。しかし、ダンパー保安官にとって残念なことに、キャスリンにはその日、村の婦人会でコケモモ狩りを楽しみ、教会の厨房でジャムを作りみんなで試食したという鉄壁のアリバイがあった。また、どこからどう調べたとしても、アルバートとキャスリンに個人的な接点は無かった。

 まるまる三ヶ月かかって、ダンパー保安官はアルバートの死因が事故であったと結論した。彼は母親のいない隙をついて、苦労して家を抜け出し、不自由な体で何とか馬に乗って、湖畔で乗馬を楽しんだのだ。馬に水を飲ませようと湖畔に近づいた時、彼は誤って水中に転落した。そして、浮き上がることができず、そのまま溺死したのだ。

 キャスリンがこの件について保安官に“意見”を求められたのは一度や二度ではない。アルバートと生前に接点が無かったキャスリンに、保安官は「彼はこの件について、あなたに何か言いに来ていないだろうか」と尋問した。その現在進行形の質問は最初から破綻していて、保安官はひどくばつが悪そうだった。

 キャスリンいつも「いいえ」と答えた。

 キャスリンが真実を知らなかったわけではない。だが、アルバートがキャスリンに求めたのは、彼の居場所を伝えることだけだ。アルバートが家族に向けていた激怒と暴力を、今更世間に伝えたところで何になろう。あの日、息子にひどい言葉でなじられたブレナン夫人が泣きながら家を飛び出していたことも、アルバートが言い知れない罪悪感と絶望に打ちひしがれて、自主的に家を離れ、自主的に湖面に身を躍らせたことも――――もう、誰も知らなくていいではないか。

 あれからもう、アルバートは現れていない。

 彼を最後に見たのは、アルバート自身の葬列だ。 少年は、母親の横に寄り添っていた。その足は、もうすっかり良くなったようだった。

 彼の闇は、ずいぶんと薄らいでいた。濁った湖面が、透明な清水へと変わっていくように。

 天国というものがあるかどうか、キャスリンは知らない。知らないが、彼が“そちら側”への道を見つけたであろうことは明白だった。きっと彼は、母親の傷が癒えていくのを確認して、遠くない将来、虹の橋を渡っていくだろう。

 それでもやはり、キャスリンがしたことは“へま”だったのだ。

 ハリーは保安官にキャスリンの関与を伏せてほしいと頼んだが、潜水夫のドイツ男に金をつかませるのを忘れた。ドイツ男から噂は広まり、アルバートの事件はあっという間に近隣に広まった。いつの間にか、ことの顛末は黒鳥湖事件と呼ばれるようになり、その主役はアルバート・ブレナンではなく、キャスリン・ルースになっていた。ついには、ボストンの新聞さえその記事を書きたてた。

 村人はもうキャスリンを普通の主婦だとは思わない。彼女が教会へ行くと、賛美歌が止まる。婦人会の人々は今までどおりおつきあいをしましょうねと言うが、彼女たちの声はいつも少し震えている。ハリーや二人の子供たちは相変わらず明るく賑やかに過ごしていたが、彼らが家の中にいる時間は格段に増えた。以前のように気軽に、村人たちが一家に接触してこなくなったことの証明だった。

「アニーがうちに遊びにこないって言うの」

 キャスリンがうつろな気持ちで揺り椅子に揺られていると、イヴリンが目にいっぱい涙を溜めて帰ってきた。キャスリンが両手を広げると、イヴリンはボールのように飛び込んできた。

「でも平気よ、アニーなんか最初からキライだからね。あたし、もっとジュニアと遊ぶことにするわ。いいお姉さんになるのよ」

 積み木をしていたハリージュニアは、何故か泣き顔になってキャスリンの片足にすがりついてきた。<BR>

「ぼくもだっこ」

 キャスリンは二人をかき抱いた。自分のせいで、こんな小さな子供たちを村から孤立させてしまった。これは何の試練なのだろう。私が“へま”をするたびに誰かに危害が及ぶ。もしかすると、私の存在そのものが“へま”なのではなかろうか。

 夫は今までどおりの仕事が出来るだろうか。郵便配達だけではなく、村の頼れる便利屋としてのささやかな地位を守れるだろうか。子供たちは、この村で成長していけるだろうか。魔女のような母親を持ったままで、劣等感を抱かずにまっすぐ育つだろうか。

 押し寄せてくる不安が、とめどなく彼女の頬を濡らし続けた。どこに向けたらいいのか分からない悲しみが、海の波のように繰り返し繰り返し押し寄せてきた。この悲しみが満ち潮になって、彼女の内側のすべてを塞いでしまう時、自分はどうなるのだろう。キャスリンがキャスリンであることは、これから先一生、変わらないというのに。

 つと、コンコン、と、窓ガラスがノックされるような音がした。

 キャスリンは顔を上げた。子供たちにもまたその音が聞こえたらしい。二人はキャスリンの胸の中で顔を上げ、きょろきょろと周囲を見回しはじめた。

ノックの音は、あちらこちらから気まぐれに聞こえてきた。窓ガラス、時計の横、キッチン、床、揺り椅子の背もたれから。

「何の音? 」

イヴリンが言った。

「わかんない。でもぼく、こわくないよ」

 ハリージュニアが言った。

 キャスリンには見えていた。

 部屋中にいる彼らが。

 叔母のマーガレットがいた。死んだはずの父と母がいた。窓辺には、アルバートがいた。彼は昔のように、にこにこと懐こく笑っていた。

 そう、何故か皆微笑んでいるのだ。親愛の情を瞳いっぱいに湛え、まるで何かを祝福するかのように。

 コンコン。

 ドアから、はっきりとノックの音がした。それはとても物理的な音で、親子三人を正気にした。キャスリンの膝から、仔猫のように子供たちが飛び出していく。キャスリンもまた立ち上がった。

 もう、家の中から、“彼ら”の気配はかき消えていた。

「どちらさまでしょうか」

 キャスリンはドアを開けて息を呑んだ。

 知らない男が立っていた。背が高く、金のボタンがついた背広を着こなし、つばの広い今風の帽子に、大きな指輪をしている。ポーチに繋がっているのは二頭立ての馬車で、御者さえいた。キャスリンが今まで出会った人間のうちで、最も身なりのいい紳士であることは間違いなかった。

「ミセス・キャスリン・ルース? 」

 キャスリンが頷くと、紳士は帽子を脱いだ。帽子の下はくすんだ赤毛で、年頃はキャスリンと同じくらいか、その下だ。そばかすの目立つその顔は、案外庶民的にも見えた。

「私はハワード・マイアル。イギリスのロイヤル・アカデミーに所属する生物学者です」

 イヴリンとハリージュニアが、もじもじとキャスリンのエプロンを引っ張っていた。訪問者は子供たちに同じように微笑みかけると、ためらいなくその頭を撫でた。

 学者先生が、私に何の御用でしょう。キャスリンは驚いて、その言葉さえも喉につかえさせていた。紳士はキャスリンを見下ろすと、人懐こい笑顔で歯を見せて笑った。キャスリンは、こんな顔をどこかで見たと思った。そう、アルバートに似ている。

 不意にキャスリンの手が宙に浮いた。

「あなたのような方を、いや、あなたを、ずっと探していました。ようやく見つけ出すことができた」

 紳士はそう言うと、キャスリンの手の甲に、慇懃なくちづけを落とした。

 まるで女王に相対しているかのように、粛々と。



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 ダーウィンの進化論が発表され、急激に近代化されていく欧米社会において、反面教師のように隆盛した学問が「心霊学」であった。心霊現象及び霊媒師が本物であるか否かをあらゆる実験で暴き、真実を探り当てようとするこの学問において、最高権威であるASPR(アメリカ心霊研究協会)が最後まで『本物』と認定し続けたのがキャスリン・ルースである。

 多くの有名な霊媒師が次々に「いんちき」の烙印を押される中、キャスリン・ルースただ一人は、どのような環境下においても予想以上の実験結果を出した。心霊現象を完全否定する立場の化学者さえ、彼女が伝える「彼らの声」に説明をつけることは不可能であったという。

 キャスリン・ルースは世界的に有名な霊媒になってからも実験以外での交霊は行わず、自らを「ただの田舎の主婦」と表現し続けた。

 なお、ハリー・ルースは大学教授ハワード・マイアルの勧めで大学の用務員に就職、家族はボストンにてごく平凡に暮らした。

最後までお読みいただきありがとうございました。

冒頭にも書きましたが、登場人物や事件のあらましは異なるものの、全体的な構図はデボラ・ブラム著/鈴木恵訳「幽霊を捕まえようとした科学者たち」のうち「タイタス事件」をなぞっており、これを私の想像で膨らませたのがこの短編です。


実際のタイタス事件をご存じの方も多いと思いますが、湖で亡くなったのは少年ではなく少女です。少女を見つけ出したのはこの作品の通りただの主婦ですが、その後霊媒にはなっていません。私がキャスリンのモデルとしたのは主婦・ネリー・タイタスではなくて、むしろパイパー夫人(アメリカの超有名な霊媒)のほうかなと思います。


以前、KISS企画というステキな企画様に混ぜて頂きたくって連作のつもりで書き始めた本作ですが、結果1作しか書けませんでした。こうしてまた人様の目にさらせただけで嬉しいです。

ありがとうございました。

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