0センチメートルの向こう側
高校進学に伴い、島外へと出ていく友人との別れ話。
※軽い百合要素あり。縦書き推奨。
春の足音はもう聞こえていて、けれどまだまだ肌寒い朝早く。がらんとした始発電車に乗り込んだ私は座席に腰を下ろした。くすんだ窓の向こう側は次第次第に流れを早めていく。私の住んでいる辺りはもう見えないが、遠く海岸線だけは変わらずに続いている。環状の線路は元々、島の中心にある山を取り囲むように作られたのだから当たり前なのだろうけれど、それを実感出来たのは中学生になってから。円とはある意味で閉じられているということなのだと、その頃になってようやく、おぼろげながらに理解したのだ。彼女が外へ行くと決めたのもたぶんそういうことなのだと思う。
島外の進学校に行くと彼女は常々言っていたのだけれど、私はなかなか実感が湧かなかった。それは今も変わらない。今日の昼、いよいよ彼女が旅立つというのに何ともふわふわした心持。どうしようもなくやるせない。薄情なのだろうかと自分に問いかけても答えは返ってこなかった。
彼女と過ごしたのは、たった三年であり、たっぷり三年でもある。中学生と言う時期はあっけなくもあり、濃密でもあった。既に過ぎ去ったからそう感じるだけなのかもわからないが、少なくとも私にとって真実であればそれはそれでいいのだろう。そうあれかし。彼女の口癖だ。私にもうつってしまったのかもしれない。そうあれかし、そうあれかしだ。
ふふっと笑みがこぼれた。思えば彼女はいつだってそうだ。自分のやりたいことをやろうとして周囲の人々を振り回すのだ。とりわけ私が被害にあっていたのは彼女なりの親愛なのだろう。そうして、今日という日もその延長なのだ。
まさか卒業してからも中学の制服に袖を通すことになるとは思っていなかった。ちょっと窮屈な、紺色のセーラー服。彼女が曰く、『制服デート』なるものらしい。とはいえその内実は多分に儀式めいたもので、だからこその制服なのかもしれない。より感傷的に言い換えるなら『けじめ』という奴で、彼女が島を出る今日という日に制服を脱ぎ捨てることはきっと大切なことなのだ。彼女にとっても、私にとっても、今日を区切りにしなければならない。もはや無い過去といまだ無い未来に形を与えるためには必要なことなのだ。
そんなことを考えていると、待ち合わせをしている駅に着いた。駅とは言っても中々に古びたホームと小さな待合室しかないところだから、都会人からすると無人駅に見えるかもしれない。しかしこれでもマシな方なのだ。この駅は学園へと通う学生が主に下りる場所で、きちんと駅員はいるのである。
下車をした私は、駅員に定期券を見せると待合室を見渡した。一瞬誰もいないのかと不安になったが、果たして彼女はぼんやりとベンチに座っていた。ライトブラウンのショートカットにくりっとした瞳、私と同じ紺のセーラー服。今までと変わらない姿に私は知らず安堵していた。
私の姿を認めたのだろう、腰を上げた彼女は顔を綻ばせ、ぱたぱたとこちらへ近づいてきた。
「おはよー」
いつも通り間延びした挨拶をする彼女に、私もぎこちなく笑いかけながら、おはようと返した。
彼女は私の手を引っ掴み、「よし、行こー」と宣言してすたすた歩き始める。私も慣れたもので、引きずられることなく歩調を合わせて彼女の横に並んだ。これが私たちなのだろう。
駅から出ると、陽は大分昇っていたが人影はまばら。学生の殆どは春休みということでまだまだ夢の中のはずだ。部活熱心な人々はそろそろ活動開始かもしれないがはてさて……。
そんな益体のないことを考えていられるのは彼女と交わす言葉が元来少ないからだ。彼女は御喋りと言うほどでもないが無口と言うわけでもない、と思う。少なくとも私の知る範囲ではそうだ、ということであって、ひょっとすると、どちらかと言えば口下手な私に合わせてくれているのかもしれない。そうだとすると罪悪感を感じずにはいられないのだけれど、何だかんだでこの距離感が気に入っているのだから致し方ない。彼女の方もきっとそうなのだと思う。だからこそ、スタンスを変えようとしないのだろう。
と、そこで思い出し笑いをしてしまった。
黙っていた彼女は「どーしたの?」と首を傾げた。
私は敢えてそれには答えず、問いかけた。
「結局、見つかったの?」
彼女は一瞬目を見開いて(悔しいことにそんな何気ない動作も可愛らしいのだ)うーんと唸った。
「見つかったと言えば、見つかったのかも……」
ふうん、と私が気のない風に(これもまたいつものことなのである)相槌を打つと、彼女は珍しいことに非難がましい視線を寄越した。
「天使ってさあ、いるのかなあ……」
懐かしい言葉だった。
「どうだろう。いるかもしれないし、いないかもしれない」
「あいまいまいんってやつ?」
彼女も懐かしそうに呟いた。
「見い出せないってこと」
私たちは顔を見合わせて、どちらともなく笑った。
「よく覚えてたねー」
彼女は立ち止まり、少し背伸びをすると、よしよしと私の頭を撫でた。何度されてもくすぐったい気分になる。彼女の手は魔法の手。幸せが伝染するのだ。
「だって、初対面でそんなこと言われたからね」
それに唐突だったし、読書してた時だったし。ぶっきらぼうな私の言葉を気にも留めずに彼女は目を細めた。照れ隠しだってことなんてお見通しなのだろう。
「髪の毛、染めないの?」
「高等部に行っても、知ってる人は結構いるからね。――高校デビューって柄でもないし」
彼女はにへらと笑った。
「綺麗な黒だもん。もったいないよね」
手櫛で優しく梳かれると胸がきゅうっとなった。私は逃げ出す様に言葉を絞り出した。
「ねえ、どこ行くの?」
彼女ははぴくりと梳いていた手を止めてしまった。
「どこ、行くんだろうねえ」
その問いは今日のデートについてだったのだけれど、彼女は違う風に捉えたようだった。
私は彼女の手を握った。ぎゅっと握った。そして歩き始めた。少なくとも今は離してはいけないような気がしていた。
私たちは残り少ない時間を、二人で三年間通った通学路の踏破に費やした。異常とも言える速度だったと思う。普段なら四半時程度の道を何倍にも引き延ばしたのだ。それは三年という道程そのものだったのかもしれない。一方が覚えていない出来事は、必ず一方が覚えていた。あるいは二人とも忘れていたことがあったのかもしれないけれど、形作られた過去――歴史と言ってもいい――には、なんら綻びは無かったのだから、やっぱりそれは私たちの三年間なのだ。
私たちは坂を上った。山の中腹に校舎はある。長く苦しい坂だ。私は来年度も同じような坂を登ることになる。丁度山向こうには私が通う予定の学舎があるのだ。そしてその時には一人なのだ。傍らに彼女はいないのだ。実感はまだ遠く、けれどひたひたと別れの足音が近づいていた。
中等部の校舎が段々と大きくなる。最後なのだ。私は心の中で呟いた。そう、最後なのだ。
坂を登り終えた私たちは、門前で立ちつくした。門は開いているけれど、閉じていた。もう入ってはいけないような気がしていたのだ。
ぼうっと眺めていたら、不意に手が引っ張られた。どうしたのかと彼女を見ると、彼女はいつのまにか御辞儀をしていた。私もそれに倣った。だけれども私は何に対して頭を下げているのかわからなかった。彼女はどうして御辞儀を始めたのだろう。私にはついぞわからなかった。
再びくいと手を引かれる感触。顔を上げると、彼女が行こうと目で促していた。
麓に下りると、その足で彼女の家へと向かった。その間もぽつりぽつりと思い出を零し続けた。毎年花見もしたよね、私がそう言うと、じゃあ今から見に行こー、と言って彼女は拳を突き上げた。
道をほんの少し逸れれば、すぐに桜並木が見えてきた。道路の左手には神社があり、石塀が続いている。右手には歩道、緑のフェンス、公園がある。私たちはあの公園で花見をしたのだ。だから公園に入るのだと思っていたのだけれど、予想に反して、彼女は神社の入り口、石段の前で立ち止まった。彼女はそのまま長いこと黙ったままだった。私は困惑して、どうしたのと尋ねたが、やはり彼女は何も言わない。彼女はいったいどうしたのだろう。今日は久しぶりにわからないことだらけだった。それは嫌だった。
彼女は繋いでいた手を唐突に離し、石段の前にある円石に座った。私は戸惑っていたため、突っ立ったままだ。彼女はじっと私を見つめていた。再び長いことそのままだった。きっと客観的には短いのだろうけれど、少なくとも私には永遠にも感じられた。
ある時、さわさわと木々が鳴った。彼女はそれに合わせるように口を開いた。
「キス、しない?」
桜並木の下、円石に腰かけた彼女は恥ずかしげに微笑んだ。陽に照らされたライトブラウンの髪は今や綺麗なブロンド。春風がさらさらと短髪を揺らしている。天使のように思えた。だけれど、そのぱっちりとした瞳には少しばかり寂しさが混ざっていた。心の軋む音が聞こえた。誰のだろう。
しようか、と私は努めて平静に呟いたつもりだったが、やっぱりどこか震えた声だった。本気にするとは考えていなかったのだろうか、一瞬驚いたような表情を浮かべた彼女は、また一つ微笑むと目をゆっくり閉じた。
私は腰を屈めた。そうして緩慢に顔を近づけていくと、彼女もまた震えていることに気が付いた。怖いのだろうか。そう思った途端、私ははっとした。怖いのだ。今の今まで実感していなかった別れが目前に迫っている。怖くないはずがないのだ。口づけをしてしまえば、寂しさに肉感を与えることになる。これはそういう接吻なのだ。
私の躊躇いを感じ取ったのだろう、彼女は薄く目を開けた。じっと私を見つめる眼差しはやはり寂しげだったが、それ以上に何がしかの意思で彩られていた。
ぎゅっと手を握り締めた。そうでもしなければ何かが決壊しそうだった。それは涙なのかもしれないし、喚き声なのかもしれない。寂しさなのかもしれないし、ひょっとするとやましさなのかもしれない。わからなかった。わからないのは嫌だった。
私は彼女を見つめ返した。彼女の瞳には私はどう映っているのだろう。友達? 親友? わかるはずのない答えがどうしようもなく気になった。
私が解を求める前に、彼女は再び瞼を下ろす。有無を言わせないという意思表示なのだろうか。いいや違う。彼女はもはや私の一部であり、私は彼女の一部なのだ。三年の月日とはそういうものだ。私がそうであるように、彼女もまたそうなのだ。私も彼女も、既にして決断よりも必然が先に来ているのだ。行うことは確定している。後はそれを実行するだけなのだ。
握り締めていた手を開いて、彼女の肩に載せる。ぴくりと肩を震わせる彼女。ぼやける視界を誤魔化そうと私も瞳を閉じた。そうして今度こそ、迷わずに――いや、迷いながらも、それを断ち切るかのように私は唇を近付けていった。
数瞬後、僅かに触れるだけのキス。けれど私はその味を生涯忘れないだろう。
寂しさと喜びと終わりが結晶した涙。それが私たちのキスだった。
彼女を乗せたフェリーが少しずつ水平線へ向かっていく。
私も彼女も別れの言葉は発しなかった。「またね」とも「さよなら」とも言わず、私たちは最後に頷くだけだった。手紙も、メールも、電話も、――――もちろん再会も、何の約束も結ぶことなく、彼女は去っていく。だってそれがいつものことだったのだから。
けだし、彼女は私にとっての『誰か』なのだ。いつか私の円が途切れるまでその事実は終わらないのだろう。遠ざかるフェリーに向かって手を振りながら、そんなことを考えていた。
手を下ろしたころには、潮の香りのせいか、鼻がやけにツンとしていた。呆けたように蒼い海を眺めていた私は、そろそろ帰ろうと海に背中を向けた。太陽は少し傾いていて、山を斜めに照らしている。緑のキャンバスには桜色が所々混じっていた。葉桜はまだまだ遠い。
何とはなしに空を見上げると、天の底に小さな影がぽつりと沈んでいた。
――見つけていてほしいな。
そんなことを、願った。
仙石 寛子の漫画を読んだら書きたくなったもの。
少し少女漫画を意識してみました。