愛着障害かまってちゃんの回復日誌
愛着障害かまってちゃんの回復日誌
「一次も通らないなら、書いたって紙くずじゃない」
新菜は郵便受けから引き抜いた文芸誌を、玄関のたたきに落とした。コンクリートに伏せた選考結果のページから、埃の匂いが立ちのぼる。
今度も名前はなかった。
白か黒か。やるかやらないか。一番でなければびりと同じだ。落第生だ。頭の中で、昔から鳴り止まない警報がぐるぐると回り始める。
部屋へ入ると、六畳間の床に脱ぎっぱなしの靴下とスーパーのチラシが落ちていた。朝、湯を沸かそうとした電気ポットには水が入ったままで、スイッチも押されていない。新菜はチラシを拾おうとして、ちゃぶ台の角にすねを強打した。
「痛っ……! もう、何なのよ!」
すねをさすりながら座り込む。涙がにじむ。そのタイミングで、スマートフォンが短く震えた。
文芸サークルの佐伯からだった。
『結果見ました。僕の短編は二次に残ってました! 新菜さんは読むのにも時間かかるし、商業向きじゃないのかもですね。でも熱意だけは買いますよ(笑)』
「……はあ?」
声が裏返った。喉の奥が一気に熱くなる。
熱意だけ? (笑)って何?
親指が勝手に画面を叩き、返信欄は一瞬でトゲだらけの文字で埋まった。
『人の読む速度を笑うような底の浅い小説が二次に通るなんて審査員も節穴ですね。二度と連絡してこないでください』
送信ボタンに指を乗せた瞬間、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
送れば佐伯は怒るか、慌てて言い訳してくるだろう。そうしたら今夜じゅう画面を睨みつけ、「私がどれだけ傷ついたか」を延々と書き連ねて相手を困らせ、深夜に一人で吐き気を催すのだ。昔からそうだ。かまってほしいくせに相手の襟首を掴みにかかり、白か黒かの二者択一を突きつけて、人間関係を灰にしてきた。
「やめろ、やめろ……」
新菜はスマートフォンを敷布団へ放り投げた。
胸が焼けるように苦しい。落ち着くために台所へ行き、ポットのスイッチを入れた。カチリと音がして、赤いランプが点る。
お椀に乾燥わかめをひとつまみ放り込み、味噌のパックを出す。手を動かしていないと、また布団へ飛びついて送信ボタンを押してしまいそうだった。
ちゃぶ台の上には、黒いビニールクロスの表紙が擦り切れた『新共同訳 聖書』が置いてある。小口は手垢で黒ずみ、頁の厚みは不揃いに膨らんでいた。その上に、透明な緑色のリーディングルーラーが乗っている。
新菜は活字を読むのが極端に遅い。文字の群れが波打って見え、油断すると行が上下に跳ねてどこを読んでいるか見失ってしまう。大人になってディスレクシアの傾向を知るまで、自分はただの頭の悪い落第生だと思い込んでいた。
そんな自分が、なぜかこの分厚い本だけは、緑のルーラーを行に当てながら八回も通読している。
教会には通っていないし、宗教の教義を丸ごと信じているわけでもない。ただ、どうしようもなく心が荒れると、この本を開いてしまう。
新菜はルーラーを滑らせ、サムエル記の下を開いた。
イスラエルの偉大な王、ダビデの記録だ。神の箱を都に運び込む行列の場面に、緑色のスリットが重なる。
ダビデは歓喜のあまり、麻のエポデという薄い衣一枚で、神の前で力の限り跳ね回って踊った。踊り狂いすぎて、着物が盛大にはだけて下半身が丸出しになった。それを宮殿の窓から見下ろしていた妻のミカルは、心の中で夫を軽蔑したと書いてある。
しかもそのあと、家に帰ってきたダビデに、ミカルは冷ややかに言い放つ。『イスラエルの王は、今日さぞかしご立派だったことでしょう。下品な男が恥ずかしげもなく肌をさらすように、侍女たちの目の前で裸になられて』。
「……ぶっ」
新菜の鼻から、間の抜けた笑いが漏れた。
何回読んでもひどい。一国の英雄であり、詩人であり、神に愛された名君が、テンションが上がりすぎて人前でパンツを飛ばすような踊りを披露し、嫁に死ぬほど冷たい目で見られているのだ。完璧どころか、ただの調子に乗ったおっさんではないか。
ページをめくると、今度はヒゼキヤ王のやらかしが目に留まった。
熱心に祈って重病から奇跡的に命を救われ、寿命を十五年も延ばしてもらった立派な王様だ。それなのに、敵国であるバビロニアから使者が来ると、すっかり気が大きくなって「見てよこれ、すごいでしょ」と国の宝物庫も武器庫も隅から隅まで自慢して見せてしまう。あとで預言者のイザヤに『あんた何してくれてんの。全部バビロンに奪われるわよ』と詰め寄られ、気まずそうにしている姿が記録されている。
どんな苦難にも耐えたとされる義人のヨブだってそうだ。最初は神を呪わず立派に耐えていたのに、見舞いに来た友人たちからズレた理屈で説教され続けると、ついに我慢の限界を迎えて『お前らの慰めは全部迷惑だ! 頼むから黙ってくれ、それがお前らの知恵だ!』とブチギレ散らかしている。
「……なんだよ、こいつら」
新菜はルーラーを握ったまま、くすくすと肩を揺らした。
みっともなくて、浅ましくて、見栄っ張りで、短気。
聖書に出てくる人間は、誰ひとりとして完成された聖人君子なんかじゃない。みんな盛大にやらかし、怒られ、恥をかき、それでもその不完全なでこぼこの器のまま、泥臭く人生を転がしている。
ふっと、胸の奥の固いしこりが緩んだ。
自分は一体、何を気負っていたのだろう。
新人賞の一次で落選したくらいで、この世の終わりみたいに絶望して。あんなダビデ王の裸踊りに比べたら、十万字書いて落選したことなんて、かすり傷ですらない。
電気ポットがカチリと音を立てて蒸気を吐き出した。
新菜はお椀に湯を注ぎ、味噌を溶いた。粉末だしを適当に入れたせいで、一口すすると案の定しょっぱかった。思わず顔をしかめる。
「うわ、濃いな……」
湯を足してかき混ぜると、今度は少しぬるくなった。けれど、両手でお椀を包んで飲むと、じんわりとした温もりが胃の底へ落ちていった。
布団の上で、スマートフォンがまた一度だけ震えた。
見に行くと、文芸サークルの全体連絡だった。佐伯のメッセージは、画面の上にまだ留まっている。
母の顔がふと浮かんだ。
小学生の頃、連絡帳に「授業中にじっと座っていられない」「文字を飛ばして読む」と書かれるたび、母は新菜の隣に座って、絵本の文字を指で一つずつ追ってくれた。
一方で、テストで悪い点を取ると、母は困ったように眉を下げて「次はもう少し頑張ろうね」と言った。その顔を見るのが怖くて、新菜は百点を取れない自分を落第生だと決めつけ、一番でなければ愛されないと思い込んでしまったのだ。
でも、母だって完璧な親じゃなかった。不完全な親が、注意欠陥で文字の読めない子どもを必死で育ててくれた。それだけで十分だったのだ。
新菜は佐伯の返信欄に打ち込んでいた罵詈雑言を、バックスペースキーで全部消した。トントントン、と文字が消えるたびに、部屋の空気が澄んでいくような気がした。
代わりに、短く打った。
『読む速度について言われたのは傷つきました。今後そういうメッセージは送らないでください。二次通過はおめでとうございます』
送信ボタンを押すと、すぐに佐伯のトークを非表示にし、スマートフォンの電源を切った。
引き止めない。挑発もしない。相手がどう思うかは相手の問題だ。私は私の敷地に線を引き、自分の足元に戻る。
新菜は聖書の紐栞を挟み、緑のルーラーと一緒にちゃぶ台の隅へ寄せた。
神様が本当にいるのかは分からない。でも、あの欠点だらけの人間たちの記録を読んでいると、不思議と「必要なものは、その日の分だけちゃんと与えられる」と思えるのだ。
引き出しから、新しい四百字詰め原稿用紙を三枚だけ取り出した。
机の上に並べ、黒のボールペンをカチリとノックする。
一度に十万字の傑作を書こうとするから白か黒かになるのだ。今日書くのは、たった三枚でいい。
最初のマス目に何を書くか迷い、新菜はさっき玄関のたたきに落ちた文芸誌の鈍い音を思い出した。あの情けなくて、ちょっと間抜けな音から書き始めてみよう。
新菜はペン先を紙に落とした。
ぬるくなった味噌汁の最後の一口を飲み干すと、少ししょっぱかったけれど、腹の底から確かな力が湧いてきた。




