黄金の出汁と砂漠の雫
第十三章:黄金の出汁と砂漠の雫
今夜の『赤兎馬』は、暖簾を潜る前から、カツオと昆布、そして何らかの肉の脂が混じり合った重厚な香りに包まれていた。カウンターの中では、大きな角鍋から真っ白な湯気が立ち上り、店主の武が静かにお玉で灰汁を掬っている。
「寒い夜には、これに限る」
武がまず差し出したのは、小ぶりなグラスに注がれた日本酒。だが、その色は淡い黄金色に濁っている。『日本酒のおでん出汁割り』だ。
「出汁七に、酒三。仕上げに七味を一振り。これが一番身体を温める」
客が一口啜ると、熱々の出汁の旨味とアルコールの熱が混然一体となって五臓六腑に染み渡った。酒の角が取れ、出汁の塩気が甘みに変わる。その至福の余韻の中で、最初の一皿が供された。
おでん(大根、蒟蒻、豆腐)
「三日、火を入れたり寝かせたりを繰り返した」
まずは『大根』。武の畑で霜に当たって甘みを蓄えた大根を、米のとぎ汁で下茹でし、繊維の奥まで出汁を染み込ませてある。箸を当てるだけで自重で崩れるほど柔らかい。
続いて『蒟蒻』。格子状に細かく隠し包丁を入れ、弾力がありながらも、噛むたびに出汁が溢れ出す。
そして『豆腐』。崩れないよう木綿豆腐を一度脱水し、出汁の海でじっくりと泳がせたものだ。
「派手さはないが、時間が味を作ってくれる」という武の言葉通り、三つの素材が黄金のスープを吸い尽くしていた。
サボテンの天ぷら
次に出されたのは、意外な一品だった。
肉厚で鮮やかな緑色の、棘を丁寧に取り除いた『サボテン』だ。
「観賞用じゃないぞ。食用のウチワサボテンだ。温室の片隅で育てていたんだが、こいつは天ぷらにすると化ける」
武は、薄力粉に冷水を合わせ、粘りが出ないようざっくりと混ぜた衣にくぐらせ、高温の油で短時間で揚げた。
サクッとした衣の中から現れたのは、意外にもオクラのような「ねばり」と、キウイのような微かな「酸味」。それが衣の脂と合わさり、酒を進ませる。砂漠の生命力を閉じ込めたような、瑞々しくも力強い味わいだ。
サーモンレアフライ
今夜のメインは、包丁を入れた断面が美しい『サーモンレアフライ』。
武は、漁師から物々交換で届いた極上のサーモンの柵を、まずは強めの塩で脱水し、旨味を凝縮させた。その後、表面にだけ薄く小麦粉、溶き卵、細かなパン粉を纏わせる。
「揚げ時間はわずか三十秒。余熱で中に火を通すのが一番難しい」
供されたフライは、衣は狐色でカリッとしているが、中心部は透き通るような美しいオレンジ色のレア。
そこに、武が自家製のおでん出汁をベースに練り上げた特製のタルタルソースを添える。
「刺身の甘みと、フライの香ばしさ。両方の良いとこ取りだ」
口に運べば、とろけるようなサーモンの脂が広がり、それを「出汁割り」が追いかける。和と洋、そして熱と冷が交差する、赤兎馬ならではのフィナーレ。
「手間をかけて、火加減を見極める。一組限定だからこそ、この『一瞬』の食感を提供できるんだ」
武は、自らも少しだけ出汁割りを啜り、満足げに鍋の火を落とした。
千円。その代金で客が手に入れたのは、時間をかけたおでんと、一瞬を切り取ったフライ。
それは、一組限定の夜にしか存在し得ない、贅沢な調和の味だった。




