スパイスの曼荼羅と一皿の旅
第十章:スパイスの曼荼羅と一皿の旅
今夜の『赤兎馬』の暖簾を潜ると、そこはいつもの北の酒場ではなかった。幾重にも重なる芳醇なスパイスの香りが、熱帯の市場の熱気を運んでくる。
「今夜は、俺なりの『旅』を盛り付けてみた」
武がカウンターに置いたのは、磨き上げられた円形のステンレス皿。その上には、色彩豊かな小鉢が並ぶ本格的な『ターリー』が完成していた。
まずは『豆のカリィ(ダル)』。
武が収穫し、乾燥させておいた数種類の地元の豆を使用している。一晩水に浸けて柔らかく戻した豆を、クミンとターメリック、そしてたっぷりの玉ねぎと共に形が崩れるまでじっくりと煮込んだ。仕上げに、熱した油で熱したマスタードシードをジャッとかける「タルカ」の工程が、豆の素朴な甘みに鮮烈な香ばしさを与えている。
隣には『チキンカリィ』。
猟師仲間から譲り受けた鶏を、自家製ヨーグルトとガラムマサラに一晩漬け込み、肉質を極限まで柔らかくした。トマトの酸味と、カシューナッツをすり潰したペーストが、ルゥに深いコクと濃厚なとろみをもたらしている。
そして、ひときわ力強い香りを放つのが『マトンカリィ』だ。
独特の癖があるマトンを、あえて大粒のホールスパイス――カルダモン、シナモン、クローブ――と共に煮込んだ。骨から出る髄液の旨味が溶け出したソースは、口に含んだ瞬間に複雑なスパイスの礫が弾けるような衝撃を。
口直しには『ヨーグルトサラダ(ライタ)』。
細かく刻んだキュウリとトマトを、クミンパウダーを混ぜたヨーグルトで和えたもの。カリィの熱を、この爽やかな酸味が優しく鎮めてくれる。
「ナンも、炭を熾して焼き上げた。強力粉に少しの全粒粉を混ぜて、香ばしさを出したぞ」
皿からはみ出すほど大きな『ナン』。武が手捏ねで生地を作り、発酵を見極め、高温で一気に焼き上げたそれは、外はパリッと、中は驚くほどモチモチとしている。これを千切って、三種のカリィを交互に潜らせる。
「スパイスも物々交換か?」客が尋ねる。
「いや、これは昔、海外を回っていた時に覚えた調合だ。手間さえ惜しまなきゃ、一皿の中に世界を閉じ込めることだってできる」
武は、少し残ったスパイスを指先で拭い、満足そうに笑った。
千円。その代金で、客は北の僻地から一気に熱狂の大地へと連れ出された。
三種のカリィが混ざり合い、最後に残るスパイスの余韻。
一組限定の夜、赤兎馬のカウンターは、広大な世界のどこかへと繋がっていた。




