その子育て間違ってます! ~皇室保育士の母子手帳~
部屋の真ん中で、赤子が泣いている。
(ああ、懐かしいなぁ……)
下女のマリア・イーリスは思わず笑みを覗かせた。
生まれた村は老人ばかりで、赤子を見たのはこれが初めてのことだ。
にもかかわらず、懐かしいと思ったのは、彼女の秘密に関係している。
マリアには前世がある。
生まれたのは日本という国、子ども好きが高じて保育士の仕事を選んだ。しかし、生まれつき体が弱く、自分の子を抱く夢は叶わなかったのだ。
若くして亡くなった彼女は生まれ変わり、ここアルディストル皇国の天宮という場所で働き始めた。
皇帝陛下の御子を育てる特別な施設だ。
(生まれ変わっても保育の仕事に就けるなんて、ラッキーだ)
金銀の装飾が施された広大な室内の中心に、巨大なゆりかごが置いてある。そこで泣いている赤子こそ、皇帝陛下の一七番目のご子息、ルイ・アルディストルだ。
彼の世話をするために、九人の乳母と五〇人の下女が集められている。
とはいえ、下女全員に仕事があるわけではない。
御子の世話は、乳母が一人、多くても二人もいれば事足りる。
雑用も下女が二、三人いればいいだろう。
乳母への覚えを良くしてもらおうと率先して働く下女もいるが、マリアはその手のでしゃばりは好まなかった。足並みを揃えなければ、疎まれるのが天宮という社会だ。
(今日は真面目な顔をして立っていれば終わり。簡単なお仕事だなぁ。人手不足だった保育士時代が嘘みたい)
一人の赤子に五〇人も六〇人もお世話係がいるのは、日本の保育所では考えられない。あっちは本当に戦場みたいなものだった。
あくびをかみ殺しながら、マリアは退屈と戦っていた。
しかし、雲行きが怪しい。段々と切羽詰まったような声が飛び交い始めた。
御子が泣き止まないのである。
「ルイ様っ! どうなさいましたっ!? わたくしの母乳では不服でございましょうかっ!?」
乳母のマチルダが悲鳴のような声を上げている。
ルイは大声で泣いており、マチルダがどれだけ乳を飲ませようとしても、まったく興味を示さないのだ。
(というか、前の乳母が一時間前にあげたばかりって言ってたから、お腹空いてないだけでしょ。御子様だからって、人より沢山飲むわけじゃあるまいし)
退屈そうに育児の様子を眺めながら、マリアは眠い目を軽くこする。
刻一刻と泣き声は強くなり、他の乳母たちも焦り始めた。
「ど、ど、ど、どういたしましょうっ!?」
「天母様をお呼びしては?」
「こ、このようなことで天母様のお手を煩わせるわけにはいきませんっ! ジュリアッ、あなたが代わりになさいっ!」
「しょ、承知しましたっ!」
マチルダに変わって、ジュリアがルイに母乳を与え始める。
すると、今度は飲んだ。
「る、ルイ様っ。ありがとうございますっ!!」
ルイがごくごくと母乳を飲んでいくと、慌ただしかった乳母たちからほっと安堵の息が漏れた。
その次の瞬間、ルイが口から飲んだ母乳を勢いよく吐き戻した。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁっっっ!!」
と、乳母の絶叫が鳴り響いた。
(初めての育児じゃあるまいし……)
乳母たちの動きが怪しいため、マリアは不安になってきた。
「る、ルイ様……そ、んな……」
顔面蒼白にし、がたがたと体を震わせながら、ジュリアは御子を見つめる。
「ジュリアッ!! あなたっ、あろうことか、御子様にお吐き戻しなど、許されませんよっ!! このような不敬、天母様の耳に入ったならば、どのような処罰が下るかっ!」
「おっ、お許しをっ!! お許しくださいっ!!」
「いいえ、許されませんっ! どうせ日頃の不摂生がたたったのでしょう! 母乳が不味いから吐いたのですよっ! なんという不始末!! 天母様にご報告いたします!」
「なっ! そ、それだけはっ! マチルダ様っ! 何卒、何卒お慈悲をっ!」
皆の視線が、言い争う乳母二人に釘付けになっていた頃、マリアだけは御子を見ていた。
「ちょっと、みんな、なにしてるんですかっ!」
慌ててマリアが駆け出して、ジュリアの腕の中にいるルイを奪った。
「あ、あなた、下女がなにをなさって……! 不敬ですよっ!」
ジュリアが言う。
「馬鹿ですかっ! 吐き戻しをしているのに、仰向けのまま放置して、窒息しますよっ!!」
「えっ、あっ……」
マリアは素早く御子を横向きして、母乳を吐かせると、口をタオルで拭った。
すると、ルイは更に母乳を吐いた。
「きゃあああああああああああああああああああぁぁぁっ!!」
「大丈夫ですよ。乳母なら吐き戻しぐらいでいちいち騒がないでください」
冷静にマリアは告げる。
「で、ですが、皇帝の御子たるルイ様に、お吐き戻しをさせてしまうなどという無礼があっては……」
「無礼でもなんでもなくて、新生児は胃や食道が未発達なんですから、逆流ぐらいして当たり前なんですよ」
「え……?」
驚いたようにマチルダが目を丸くする。
「そもそも、母乳をあげすぎです。二、三時間ぐらいを目安にするのが常識でしょう。だから、余計に吐き戻ししやすいんですよ」
「で、ですが、泣いていらっしゃるので」
マリアの腕の中で、ルイは再び泣き始める。
「ほ、ほら、やはりお腹が空いているのでございます」
「違います。まず皆さん、おろおろするのをやめていただけますか? 笑ってください。ほら」
にっこりとマリアは笑う。
「あの、それは……どういう?」
「周りが不安になっていたら、御子様も不安になるでしょう。皆さんがおろおろしているから、ルイ様は怖くて泣いてしまったんですよ。だから、笑ってください」
「え、あ……そ、それじゃ」
マチルダは半信半疑ながらも笑う。
ジュリアや他の乳母たち、下女たちも皆にっこりと笑った。
すると、少しずつルイの泣き声が小さくなってくる。
「ちょっと失礼します」
マリアは御子を抱いたまま、歩いていき、室内に設けられた白い砂場でしゃがみ込む。御子が成長した時に遊ぶための場所だ。
巾着袋を取り出すと、そこに砂を入れた。
そうして、ルイの耳元でその巾着袋を振り始める。
シャリシャリとノイズのような音が鳴っていた。
「あの……それはなにをなさっているのですか?」
マチルダが聞く。
「御子様は十月十日、お腹の中にいらっしゃったでしょう? すごく居心地の良いところから、いきなり外に出てきたから、なにもなくても不安で泣かれるんですよ」
砂の巾着袋を振りながら、マリアは言う。
「お母さんのお腹の中は、けっこううるさくて、こんな音がするそうなんです。だから、赤ちゃんはこういう音が安心するんですよ」
やがて、ルイはまぶたを閉じて、すやすやと寝息を立て始めた。
「あぁ、ルイ様が……」
「お眠りになって……」
小声で乳母たちが言った。
「マリア、だったかしら? あなた、すごいのね」
不思議そうにしながら、マチルダは褒めてくれた。
「……あー」
なんとも言えず、マリアは曖昧に首をかしげた。
(でしゃばってしまった……)
彼女は他の下女たちに疎まれるのではないか、と不安になった。
◇
その夜。
宿舎にいたマリアはノックの音を聞いた。
ドアを開けると、立っていたのは三つ編みの少女だ。服装を見るに、マリアと同じ下女だろう。
「天母様がお呼びです」
「え? わたしですか?」
下女も個室部屋なので自分以外いるわけがないのだが、驚いてマリアは聞き返してしまった。
「はい。来てください」
短く告げると、下女は歩き出した。マリアは慌ててついていく。
魔法昇降機に乗り、二人は上階に上がっていく。
この天宮は巨大な塔だ。そして、身分が高い者の部屋ほど上の階に位置するようになっている。
最上階の100階から50階までが基本的に皇帝の血を引く、御子のエリアだ。ルイは一七番目の御子なので、八三階である。
魔法昇降機が止まったのは五〇階。
ここで働く者の中で、二番目に位が高い貴族、天母たちのエリアである。
「ちなみに、どの天母様がお呼びでしたか?」
マリアは問う。
現在の天宮に天母は四人いるのだ。
「エマ様です」
マリアは自然と眉根を寄せる。
(悪魔のように厳しいといわれるエマ・ディカーソン様かぁ)
どの件で呼び出されたのだろう、とマリアはこれまでの失敗を指折り数えるのだった。
「マリアさんを連れてきました」
「ご苦労。下がっていいよ」
「失礼します」
エマの執務室にマリアは一人取り残される。
目の前には金の髪に、褐色の肌の天母エマがいた。
彼女はルイを抱いている。
「そなたがこれを作ったそうね」
と、エマが取り出して見せたのが、砂の巾着袋だった。
(あー、それかぁ……)
誤魔化しようもなく、マリアは正直に答えることにした。
「そうです」
「天宮に六〇年務める乳母すら知らぬこと。そなた、育児はどこで習った?」
一瞬、マリアは答えあぐねる。
(って言われても、正直に話して信じてもらえるとは思えないなぁ)
「エマ様。ここだけの話にしていただけますか?」
「構わない」
「実は私は過去の記憶がないのです」
マリアは思いきって嘘をつくことにした。
「どこか遠い異国にいたような気はします。育児の術は全てそこで学んだものでしょう。しかし、過去の私がどこでなにをしていたか、思い出すことができません」
「……そうか」
エマはじっとマリアを見つめている。
(この視線、バレてるのか、バレてないのか、どっちなんだ?)
内心、緊張しながらも、マリアは神妙な面持ちで言葉を待った。
「よくわかった。ではマリア、そなたには今後、乳母として働いてもらいたいが、どうか?」
「お断りします」
即座に答えると、驚いたようにエマは目を丸くする。
「なぜだい?」
「天宮の乳母は下女として一〇年勤め上げ、厳しい試験に合格なさった方のみのはず。そのどちらも満たしていない私が乳母になれば、皆に疎まれることになるでしょう」
まず間違いなくいじめの標的にされるだろう。
天宮での仕事は誉れも高く、乳母ともなれば憧れの職業だ。もしも天母になれたなら、平民にすら貴族の身分が与えられる。それも、アルディストル皇国では侯爵に匹敵する地位があるのだ。
(ここに来たばかりの私が出世したら、大事だ。平穏に暮らしたい)
にっこりとマリアは笑った。
「そなたは頭がいいね。気に入った」
ゆっくりとエマはマリアのもとまで歩いてくる。
「あたしのお付きにしてあげよう」
「……え?」
思わず不満が声に漏れた。
(エマ様お付きの下女は一ヶ月ももたずに辞めるのが殆ど。三ヶ月もてば奇跡といわれるほど過酷だという噂だ……)
「ちょうどいいだろう? 給金は上がるし、身分も上がる。その上、同情はされても、疎まれることはない」
エマは嗜虐的な笑みを覗かせる。
「それはそうなんですが……」
(この人、自分の噂をわかってて下女をとっかえひっかえしてるのか……)
マリアは嫌な予感が止まらなかった。
「できれば、今のままが……」
と、その時だった。
「ママぁ……」
可愛らしい声が響き渡る。
無論、その声はエマの腕に抱かれている御子ルイのものである。
驚いたマリアが覗き込むと、小さな手が彼女の顔に触れた。
「ママぁ……」
(なんて可愛い……って、そうじゃない)
マリアは優しい笑みを浮かべる。
「え、えーと……ルイ様、わたしはお母様ではありません……」
そう言いながらも、マリアは一つ疑問を覚えた。
(ルイ様は生後2ヶ月のはず……どうして……?)
「ママぁ……」
「あっはっはっは! そなたのことを母親だと思い込んでいるようね」
エマは豪快に笑っている。
「……やめてください。このようなことが皇帝陛下や皇后様に知られれば、ただではすみません」
下手を打てば、クビが飛びかねない。それも、仕事だけならまだ良い方だろう。心配なのは、肉体の首の方だ。
「早速だが、そなたに仕事を頼みたい」
拒否権はない、という目つきでエマは言った。
「なんでしょう?」
「51階。天爵様にルイ様のお顔を見せてあげてほしいの」
マリアは怪訝な顔つきになってしまう。
(天爵……!? 天宮の管理者で、皇帝陛下に次ぐ最高位貴族だ)
平民ではお目にかかることさえ憚れる高貴な御方である。
「あの……私、下女ですが?」
「それがなにか?」
取り合っても無駄だと悟り、マリアは閉口する。
(この調子だから、他の下女たちは辞めていったんだな……)
「かしこまりました」
◇
天宮51階。
執務室のドアをマリアはノックする。
「入れ」
「失礼します」
マリアは執務室の中に入る。
机の前で待っていたのは、豪奢なベストとコートを纏った金髪の男だった。
貴族然とした落ち着いた雰囲気は四〇代を思わせるが、その若々しさは二〇代にも見える。年齢のつかみどころがないが、はっきりしていることが一つある。
目を疑うほどの美青年である。
「やあ。僕はアルセーヌ・ディベリウス。はじめまして」
「マリア・イーリスと申します」
マリアは丁重に頭を下げた。
「ルイ様のお顔をご覧いただくようにと」
「近くに」
「え?」
マリアは戸惑う。
平民と天爵としてはもうすでに距離が近かった。
「その……いいのですか?」
「うん」
(うん……て、この人、天爵なのに貴族らしくないなぁ……)
マリアは仕方が無いと覚悟を決めた。
「失礼します」
と、彼女はアルセーヌの隣まで歩いていく。
彼は嬉しそうにルイの顔を眺める。優しく、慈しむような、そんな表情だった。
(男の人がこんな顔をするところ、初めて見たなぁ。うちの保育所、お父さんが迎えに来ることなかったし)
彫刻のようなアルセーヌの顔を見ていると、ふと彼と目が合った。
「し、失礼しました」
慌てて、マリアは顔を背ける。
だが、アルセーヌはじーっとマリアの顔を見続けている。長い。いたたまれなくなって、彼女は口を開いた。
「あの~、天爵様……?」
「アルセーヌ」
「え?」
「アルセーヌでいい。偉そうなのは嫌いなんだ」
屈託のない少年のような顔でアルセーヌは言った。
「では、アルセーヌ様」
「呼び捨てでいいよ」
邪気のない顔でアルセーヌが言うも、マリアは呆れる他なかった。
「そのような真似をしたら、良くて死罪です」
「あははっ、確かに」
(笑いごとじゃない……)
なぜかツボに入っているアルセーヌを、マリアは横目でジトッと見た。
「ねえ、マリア。お前、なにか気がついたか?」
唐突にアルセーヌはそんなことを聞いてきた。
「……なにか、とおっしゃいますと?」
「ルイのことだよ」
一瞬、マリアは考える。
(確かにおかしいはおかしいけど、こんなこと言っても……)
「なにがおかしい?」
眼光を鋭くしながら、アルセーヌは問うた。
心中を言い当てられ、マリアは驚きを隠せなかった。
「当たりだ。顔に書いてあったよ」
(そんな顔してたかなぁ……)
仕方がないので、マリアは正直に言うことにした。
「ルイ様は普通の子ではないと思います」
僅かに目を丸くした後、アルセーヌは微笑んだ。
「それはなぜ?」
「発語があるのは早くても1歳から、ですがルイ様は生後2ヶ月でママと口にしました」
そこまで言うと、「ママぁ……」とルイが言って、マリアに笑いかけてきた。
よしよし、と赤子を撫でながら彼女は言った。
「これはさすがに早すぎます」
「マリア。ルイのお世話係はお前に任せるよ」
「えっ? それは、どういう……?」
戸惑いながらも、マリアは聞く。
「お前の言う通り、ルイは普通の子ではない。皇帝の一族というのはね、神の血を飲んだんだ」
マリアは目をパチパチと瞬かせた。
「アルセーヌ様……その、正気ですか?」
すると、アルセーヌは天使のように邪気なく微笑んだ。
「死罪はいいのか?」
「あ……す、すみませ――」
「すぐにわかるよ。お前なら、すぐにね」
そう口にして、アルセーヌはドアの方へ向かった。
「アルセーヌ様?」
「仕事があるから、少し外すよ。ここで、ルイの世話をしていてくれ」
背中越しに手を振って、アルセーヌは執務室から去っていった。
「えーと……」
困ったような呟きが、ぽつりとこぼれる。
(神の血を飲んだって言われても……嘘だとしても本当だとしても、ヤバいことに巻き込まれたのは確かっぽいなぁ……せっかく良い職につけたと思ったのに……)
はあ、とマリアはため息をつく。
すると、「あー、ママぁ……」とルイが笑った。
「ふふっ」
思わず、マリアもつられて笑ってしまう。
エマのお付きになったこと、アルセーヌから御子のお世話係を任されたこと。皇帝が神の血を飲んだ一族だということ。
なんだか前途多難な気はしたものの、自分のことを「ママぁ……」と呼ぶ赤子は、とても愛おしかった。
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