第5章:静寂の癒やし
冬の夜が、牙を剥き始めた。
大寒波の予報がラジオから流れ、街中の人々が頑丈なドアを閉ざしていく中、二人はただ一枚の薄汚れた毛布の下で重なり合っていた。
男の足は、もはや腐敗の異臭を隠しきれなくなっていた。
「……あ、が……っ、はあ、はあ……」
傷口から回った毒が、男の意識を混濁させていく。高熱にうなされ、節々の痛みでのたうち回る男の心拍は、今にも千切れそうなほど速く、弱々しい。
少年は、男の胸に耳を押し当てていた。
ドクン、ドクン……と、今にも止まりそうな不規則なリズム。
死神が、すぐ隣の暗闇に腰を下ろして、男を連れて行くタイミングを計っている音が聞こえる。
(行かせない)
少年は、決意した。
第3章で見せた、世界を支配するための咆哮ではない。今必要なのは、破壊の力ではなく、男の壊れゆく細胞を一つに繋ぎ止めるための、極小の旋律。
少年は、唇をほとんど動かさず、吐息のような音を漏らし始めた。
「…………ん、………………」
それは、人間の耳では「無音」に近い、超微細な振動だった。
12オクターブの才能を、針の穴を通すような精密さで一点に絞り込む。少年の喉が細かく震え、その振動が直接、男の胸板へと伝わっていく。
音は男の皮膚を透過し、血管を震わせ、炎症を起こして暴れる白血球をなだめるように、心地よいリズムを刻み始めた。
少年の放つ周波数が、男の体内で「癒やしの共鳴」を起こす。
(……温か……い……)
男は朦朧とした意識の中で、不思議な感覚を味わっていた。
凍りつくような冬の夜、自分の体の中から、微かな春の陽だまりのような熱が湧き上がってくる。激痛に悲鳴を上げていた壊死した足の神経が、少年の奏でる音の粒子に包まれ、眠りへと誘われる。
男の荒い呼吸が、次第に穏やかなものへと変わっていった。
だが、代償はあまりに大きかった。
全力で叫ぶよりも、繊細な音を制御し続ける方が、少年の未発達な内臓には過酷な負荷をかけた。少年の鼻孔から、一筋の血が糸のように垂れ、男のボロ服を汚していく。心臓は爆発しそうなほど高鳴り、全身の毛細血管が悲鳴を上げている。
少年は、自分が削られていくのを感じていた。
自分の「命」を「音」に変換し、それを男の体へと注ぎ込む作業。
「……あ、……あ……」
一晩中、少年は歌い続けた。
男を救うためだけの、世界で一番静かな、世界で一番贅沢な歌。
夜明け前、男の熱は奇跡的に下がり、死神の足音は一度、遠ざかっていった。
しかし、少年の指先は、もはや感覚を失うほどに冷え切っていた。




