第1話 森は言葉を喰う
銀の森に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
いや、正確に言えば――言葉の重さが変わった。
「……やっぱ来るんじゃなかった」
タイシ・クレストは、小さく呟いた。
声に出したその一言が、妙に長く尾を引いて、霧の中へ溶けていく。まるで森そのものが、言葉を噛みしめているみたいだった。
木々はすべて銀色だ。葉も幹も、月明かりを閉じ込めたように淡く光っている。そのくせ、足元は不気味なほど暗い。視線を落とすと、自分の影が一瞬遅れて動いた気がした。
「落ち着け……ただの依頼だ。森を調べて、戻る。それだけ」
自分に言い聞かせる。
だが、胸の奥がざわついているのを、タイシは誤魔化せなかった。
――銀の森に近づいた者は、大切な言葉を失う。
酒場で何度も聞いた噂だ。
実際、帰ってきた冒険者たちは皆、同じような顔をしていた。何かを言いかけて、途中で口を閉ざす。まるで、肝心な単語だけが抜け落ちたみたいに。
「……俺には、失う言葉なんて」
そこまで言って、タイシは口をつぐんだ。
続くはずだった言葉が、喉の奥で霧散した。
その時だった。
「――来たのね。外の人」
澄んだ声が、背後から響く。
振り返ると、そこに少女が立っていた。
銀色の髪が、森と同じ光を帯びて揺れている。年は同じくらいだろうか。感情の読めない瞳が、じっとタイシを見つめていた。
「……誰だ?」
「私はリュミエル。この森の、案内役みたいなもの」
彼女は淡々と言った。
歓迎でも警戒でもない。ただ、事実を並べているだけの声音。
「忠告しておくわ。この先に進めば、あなたは必ず“何か”を差し出すことになる」
「何かって……?」
リュミエルは一瞬だけ視線を伏せ、そして告げた。
「言葉。想い。後悔。――逃げた理由」
心臓が跳ねた。
なぜだか、その言葉が、自分の胸を正確に撃ち抜いた気がした。
「この森は、逃げた人間の残骸でできている。奥には、“シニガミ”がいるわ」
「シニガミ……」
「あなたみたいな人が、一番、好かれる」
そう言われて、タイシは苦笑した。
「悪趣味だな」
「ええ。とても」
その時、地面が震えた。
森の奥から、低く、歪んだ音が響いてくる。言葉にならない呻き声。けれど、なぜか意味だけは伝わってきた。
――まだ、逃げるのか。
「……うるさい」
タイシは小さく呟き、拳を握る。
逃げてきた。
失敗も、期待も、全部置き去りにして。
それでも――
「言葉まで、奪われる気はない」
リュミエルが、わずかに目を見開いた。
「戦うつもり?」
「……さあな。でも」
タイシは、息を整え、声にリズムを乗せた。
「逃げるなら、せめて――
ちゃんと、言葉にしてからにする」
銀の森が、ざわめいた。
まるでその宣言を、試すかのように。




