第35話 対峙する雨
その日は酷い雨が降っていた。
色も、臭いも、景色も、音も、怒りも、悲しみも、体温も、世界も、何もかもをそぎ落とすような鋭い雨が、バケツをひっくり返したように降っていた。
森の中に居るのに、川の底に来てしまったような気分になる。
けれど、自分は川の底に居たいとすら考えてしまっていた。
服に着いた血の跡は、雨の中にあってもくっきりと残っている。
雨は目の前の父と母の死を洗い流してはくれない。
次は自分の番だと、大きな爪の切っ先が向けられた。
もしもここが川の底なら、その爪が自分の肉を裂き、血を啜ったとしても、痛みを感じることがなさそうだから。
痛みまで、どこかに流してくれそうだから。
目を閉じた。
「おい。大丈夫かよ」
怪物は死んでいた。
バケツをひっくり返したように降る雨の中、巨大な嵐にその身を引き裂かれたように、何本もの木を巻き込んで怪物が倒れていく姿が見えた。
そして自分の横には、傘を差した男がいた。
「いや、大丈夫じゃねぇよなぁ……ガンドラの奴に行ったらなんとかなるか?」
「あ……た、助かっ……た?」
「ん? ああ、ギリギリな。その代わり……悪い、お前の親は助けられなかった」
ここが川の底だったのなら。
痛みを感じる間もなく、痛みすらもどこかに流してくれるものだとばかり思っていた。
けれど降りしきる雨の中、胸の奥底に響く痛みは流れ落ちることなく、槍のように心臓を貫いて悲しみの声を上げている。
ここが川の底だったなら。
ここが川の底だったなら。
自分も、母や父と同じ場所に行けたかもしれないのに。
「泣くな泣くな。あー……そうだ」
傘を差した男は、自分に言った。
「槍を教えてやるよ。お前がなくしたくないもんを、守れるように」
◇
エルディア王国の玄関ホール。
レイと相対したコルトは、先手必勝とばかりに玄関ホールを駆け抜けた。
「兄貴ィ!」
レイの下へとまっすぐと走るコルト。その勢いに任せた穂先が、勢いをそのままにレイへと肉薄する――しかし、次の瞬間にその軌道は変化した。ぐるりと弧を描くようにコルトの体が回転し、槍の穂先が振りかぶられたのだ。
体勢は殴打の構え。まるで両手に握った棍棒を上から打ち付けるかのように、コルトの槍が振り下ろされた。
バッとレイの傘が開く。それが防御の構えであることはわかり切っていた。一見すれば布切れにしか見えないレイの傘は、けれどその骨組みから編みこまれた布地までもが、鋼鉄をも遥かに超える強度を持つ兵器なのだから。
しかし、コルトの槍が負けていると言えば、そんなことはない。
鈍器のような槍の一撃を受け止めたレイの足元は陥没し、周囲の石畳に亀裂が入る。それだけの衝撃。それだけの威力。戦いの火ぶたを切るにはふさわしい初激といえよう。
「兄貴!」
そして、鍔ぜり合うように互いの武器が拮抗する中で、傘の向こうに居るレイへ、コルトは叫ぶように言葉を向けた。
「どうして、こんな奴らの、味方を――してるんだよッ!!」
それはあの時、言えなかった言葉。
ガンドラを殺した理由。メレチエレに被害を出した理由。
そして自分を、殺そうとした理由。
もしも理由があるとしたら、それはきっと自分なんかが及びもしないような高尚な理由なのかもしれない。
だってレイは自分を助けてくれたから。
メレチエレの街を恐怖から救ってくれたから。
魔王と共に、王都を戦場にした戦いをし、更には親友にさえ手をかけるような人間じゃないはずなんだ。
そんなコルトの訴えを凝縮したような言葉は、空気を伝ってレイへと届く。それは傘ですら防ぐことのできない。
「……そうだな」
武器の押し合いの中、傘を上げながらコルトは言った。
「“俺”は、お前の考えるような奴じゃなかった。それだけだ」
瞬間、閉じた傘が保たれた拮抗を崩した。押さえつけられていた傘は自由を取り戻したように躍動し、その切っ先をコルトへと向ける。
対してコルトも、急ぎ態勢を立て直して斬り返した。
すれ違うように切っ先は互いの命に向けて振り抜かれる。
あと一歩。あと数センチ。力を入れて振り抜けば、相手の喉を、顔を、命を貫ける直前で、二人の穂先は停止した。
「嘘つくなよ兄貴……ッ!!」
コルトが槍を握る手は、力強くも怯えるように震えている。無二の恩人に刃を向けているのだ。唯一の憧れに死を突きつけているのだ。
泣き出してしまってもおかしくないこの状況で、彼は血が出るほどに唇をかみしめながら、それでも確かめるように言う。
「あんたは昔、教えてくれただろ! ガンドラは、昔の仲間だったんだろ! 家族みたいな存在だったんだろ……!!」
その昔、酔い交じりの言葉で聞いた話だ。
ガンドラとレイはその昔、同じパーティーに居た。苦楽を共にした、兄弟のようなものだったと。
そしてコルトは、確かに二人からそのきずなの強さを感じていたのだ。
レイは一人になってしまったコルトをガンドラに預けたし。
ガンドラはレイに、メレチエレを襲う魔物を任せた。
その信頼関係は、間違いなくコルトが憧れた冒険者の一つの姿だった。
だから何か裏がある。
コルトはそう、確信している。
レイが魔王に着いたのも、あの雨の中でガンドラを殺したのも、すべてに理由がある。
だって、そうじゃなきゃ――
「俺は……俺は何を目指して来たんだよ……兄貴……!!」
その言葉だけは、戦いの中に紡がれたとは思えないほどに弱弱しかった。
コルトの存在意義。
自分自身の証明。
今まで自分が証明し続けた理由を問うように、彼は叫ぶように言うのだ。
けれど槍は無慈悲に進む。コルトは自分に向けられた傘に力が入ったのに気が付いて、体に突き刺さる直前で身を捻って回避した。
僅かに肩口に傘の切っ先が滑り込み、服を切り裂いて鮮血が流れ落ちる。けれどそれは、今気にするべき傷ではない。
「答えろよ!」
彼の意識は、目の前に居るレイへと注がれているのだから。
傘を携え、佇むレイは、静かに傘の先端に着いたコルトの血を見た。雨のしずくのように、それは地面に滴り落ちる。
カンッと、振り払うように傘が地面を叩いた。
「別にいいだろう、そんなことは」
キリキリと傘の先端が地面に跡を描く。少しずつ、少しずつ、レイがコルトへと近づいてきているのだ。
その歩みの中で、レイは静かに語りかけてきた。
「俺がガンドラを殺したことがそんなに重要か? メレチエレの街には俺のせいで死んだ人間が他にもたくさんいたはずだぞ」
キリキリギリギリ。
傘の先端が地面を削りながら近づいて来る。
「それに……前も言ったはずだ――」
ギリギリギャリギャリ。
火花が迸った。
「コルト、お前には関係ないはずだ」
そして放たれた傘の刺突は、神速をもってしてコルトへと迫った。それは降っただけで風を巻き起こし、突風のような余波が発生するほどの威力だ。
まともに食らえばただじゃすまない。それこそ、かつてメレチエレの街を襲ったあの怪物のように、体に風穴があいてもおかしくない、そんな一撃だった。
けれどコルトは、真正面からそれを受け止めていた。
槍を使い、狙いを逸らしながら、それでもいなしきれなかった槍の一撃に肩を大きくえぐられつつも、攻撃を受け止め、立っていたのだ。
レイの目が見開かれる。
受け止められるとは思っていなかったのか、それとも――
「兄貴」
痛みに歯を食いしばりながら、だらだらと流れる血をそのままに、コルトは言った。
「俺はあんたに救われたんだ」
例え拒絶されようとも、傷だらけになろうとも、コルトはまっすぐとレイを見て言うのだ。
「俺は兄貴みたいになりたかったんだ。誰かを助けられる人間に、強い人間に、なりたかったんだ!」
まっすぐ、まっすぐと。
少年の瞳で彼は言い切った。
「だから言ってくれ兄貴、なにか……なにか弱みを握られてるってんなら、俺がなんとかする……理由があるんなら、納得できるように頑張る……絶対に、兄貴の、弟分として……今度は俺が、あんたを助けるんだ!」
「ッ……!!」
初めてレイがその顔に苦痛を浮かべた。
レイの体に傷はない。
けれど、もう見ていられないとばかりに眉間に深いしわを作り、不愉快さと悲しみをないまぜにしたような表情で、彼はコルトから距離を取った。
「……お前には、わからないだろうな」
そして、語る。
まるで手のひらから掬い取った水が、指の隙間から零れ落ちるように。
「本気で俺は、この世界を壊すために、魔王様に仕えているんだ」
雨が、降り始めた。




