第21話 天使の梯子
「何が起きてやがる……」
メレチエレの街を走るコルト。
すでにその体は雨粒でびしょびしょになっており、衣類に着いた水分のせいで体が重い。地面はいつの間にかぬかるんでいて、気を付けなければ滑ってしまいそうだ。
「あうっ!?」
「おい、大丈夫かよ! ……っ先行くからな!」
案の定、彼の背後でアネッサがスッ転んでしまったようだけれど、それを気にしていられるほどの余裕がなかったコルトは、そのままギルドの方へと走っていった。
走る。
走る。
走る。
雨の中を。
不安の中を。
焦燥の中を。
「……あ?」
その時、ふらりとコルトの体が傾いた。
「チッ……!! なんだこれ……!」
頭の中がぐらぐらと揺れる。地面から均衡が消え、世界が傾いてしまったように地面との距離が近くなった。
立っていることすらままならず、コルトはそのまま膝を付いた。
冷たい地面の感触が気持ち悪い泥の感覚と共に伝わる。
それがより、彼の意識を混乱させる。
世界が動いたわけではない。
大地が傾いたわけではない。
ただ、彼がその場に倒れただけだ。
「力が……」
体の力が奪われていくようだ。
足に力が入らない。気を抜けば地面に倒れてしまいそうだ。
気を抜けば――
「――こんなんで……俺が止まるかよ!!」
気を抜けば倒れてしまう。
だからコルトは、全身全霊を込めて立ち上がった。
揺れる世界を、ままならぬ歩みのまま、コルトはただひたすらにギルドを目指したのだ。
そしてついに、彼はたどり着いてしまった。
レイがガンドラの胸を貫いた場所へ。
「な、に……やってんだよ……兄貴……!」
道端に倒れ伏す人々。
こときれたように動かないガンドラ。
その中で一人佇む世界で一番尊敬する人。
彼は雨の中、三日月のように鋭い笑みを浮かべて佇んでいる。
「……コルトか」
くるりと彼の傘が回る。
その傘は黒々として、いびつで、おぞましい。
「森の奥に行ったんじゃないのか」
「雨が降ってきたから……じゃなくてさ! なんだよこれ! なんで人が倒れてるんだよ! これ……これだと、兄貴がやったみたいじゃねぇか!」
全身に力を込めてコルトは言った。
あたりに倒れる人々は、入り口で見た人のように死んでいるわけではないけれど、みんな苦しげで今にも死んでしまいそうな顔をしている。
けれどレイは、そんな人々を気にした様子もなく立っているだけ。まるで彼が、この惨事を引き起こしたように。
「ああ、そうだ。俺がやった」
「っ!!」
答え合わせは終わった。
もう、冗談や予感では済まない。
「な、なん……なんで……」
「どうでもいいことじゃないか」
涙も汗もすべてが雨によって洗い流されてしまう世界の中、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔のコルトが悲壮に染まる。
彼が憧れた人は人を助ける。
けれど目の前の男は、苦しんでいる人を見下ろしている。
彼が憧れた人は人に愛されている。
けれど目の前の男は、愛を知らぬようにどこまでも冷え切った眼をしている。
信じたいのに、信じられない。
「どうでもよくねぇだろ!」
コルトは槍を取った。
自慢の愛槍。たった一週間だけだったとはいえ、その扱いはレイから教えられたものだ。
その時のあこがれを取り戻すようにコルトは槍を強く握りしめ、信じたくない今に立ち向かおうとした。
「遅い」
けれどレイに向けられた槍の穂先は、瞬く間に距離を詰めてきたレイの振るった傘によっていともたやすくへし折られ、どこかへと飛んで行ってしまった。
「弱いなコルト」
そして侮蔑するような瞳と共に、コルトの体が強く蹴り飛ばされる。
泥の中をコルトの体が転がった。
「ああ、弱い。弱すぎる。お前は強い冒険者になりたいなんて言っていたが、ここまで弱いだなんてがっかりだよ」
「兄貴……」
コルトは、泥の中からレイを見上げた。
レイは曇天のように暗く、雨粒のように冷たい目をしていた。
それでも僅かな希望に縋るように、か細い声でレイの顔を見るけれど。
「俺は一度もお前を弟分だなんて思ったことはない」
レイは彼が縋り付くように伸ばしたその手を踏み潰した。
「あぁ……ああ……」
骨が潰れる音がする。
痛みが背筋を伝う。
けれどなによりも、コルトの心が悲鳴を上げていた。
「たった一週間。それで俺の何を知ったつもりになってやがる。ただのガキが、何を!!」
レイの閉じた傘が振り上げられる。
それはこれから、コルトに向けて振り下ろされるように大地を見つめていた。
否定するように、拒絶するように、絶望するように。
降り続ける雨のように。
「じゃあな」
傘は降った。
「ハッ!」
けれどその傘はコルトに到達することなく、どこからともなく現れた一閃によって弾き飛ばされた。
「一週間? たった一週間だと? 人が憧れるには十分すぎる時間じゃねぇか!」
弾き飛ばされた傘と共にレイは後退する。
だからこそ、雨の中に現れたその少女の姿が良く見えた。
「一週間が何だってんだ、たった一晩の語り草が、たった一言の礼が、人の未来を変えることなんてざらにあることなんだよ!」
その少女は白い髪を雨に濡らしていた。
例え雨の中、泥にまみれていたとしても、その白はとてもきれいに見えた。
「……一応名前を訊いておこう。君は誰だ?」
少女へと、レイが訊ねた。
雨の中、笑みを消した表情で、底冷えするほどの敵意をまき散らしながら。
けれどレイそのそんな態度もどこ吹く風。雨天も何もかもを吹き飛ばすように笑いながら、少女はその名を高らかに叫ぶのだ。
「俺の名はパルフェット! もしも何か俺のことを知りたいってんなら、一つ教えてやるよ――」
挑発するように、彼女は言う。
「俺は魔王を斬るぞ」




