第七章 火を継ぐ街
焚き火の煙が静かに空へ登っていた。
赤い火が揺れ、メンジロウの顔を照らす。
隣ではミナミナが干し肉をかじりながら、
「なあ、シオラを出るとき、あの店……どうなってた?」
と尋ねた。
メンジロウはしばらく黙って炎を見ていた。
炎の奥に、あの街の湯気が見えた気がした。
そして、ぽつりと呟いた。
「――あれは、火を渡した数日だった」
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回想:火を継ぐ街
シオラの街は、まるでひとつの鍋のように煮え立っていた。
朝も夜も、湯気が絶えず漂い、スープの香りが通りを満たす。
人の声が混ざり合い、まるで湯の中で笑いが泡立つようだった。
それでも、厨房の奥では緊張した空気が流れていた。
「……これじゃ体が持たねぇな」
ガルザが腰を押さえながら言った。
手は荒れ、指の節は固く、粉が爪の隙間に入り込んでいる。
「お前が抜けたら、俺ひとりじゃ回らねぇ」
「分かってる。だから、火を渡す準備をしてる」
メンジロウの声は低く、湯気の奥に溶けていった。
この頃の彼は、旅の話をしても笑わなかった。
街の人々が笑うたび、その笑顔の数だけ責任を感じていた。
ラーメンが“名物”になったことは誇らしかった。
だが――同時に、足を縛る鎖にもなっていた。
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夜。店を閉めたあと、二人は残って練習をしていた。
薄暗い灯の中、粉が舞い、手が打ち鳴らされる音が響く。
「お前の言う“生きた麺”ってやつ、どういう意味なんだ?」
ガルザの手は力強いが、加減が荒い。
「押すときに空気を殺すな。
気泡は呼吸だ。麺が息をしてる限り、スープと会話する」
「会話、ねぇ。そんなもん分かるか」
「分かるさ。
噛んだときに“コシ”じゃなく“音”で分かる。
ピンと鳴く麺は、まだ生きてる」
ガルザは苦笑した。
「理屈じゃねぇな。……手打ちは確かに味が出る。
けどな、これ以上客が増えたら、二人でも回らねぇ」
「分かってる。
手が追いつかねぇなら、鉄の手を借りるしかねぇ」
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翌日。
鍛冶屋グレンの工房に、メンジロウが図面を持って現れた。
「また妙なもんを作らせる気か」
「鉄で麺を延ばす。だが魂は手が教える」
グレンは鼻で笑いながらも、火を入れた。
鉄を打つ音が続く中、
グレンは低く呟いた。
「鉄も生きもんだ。叩いたやつの機嫌で、鳴き方が変わる。
お前の麺も、きっと同じだろう」
メンジロウは微かに笑った。
「そうだ。音を聞けりゃ、味が分かる」
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数日後、製麺機が完成した。
鉄のローラーがきしみ、手動で回すと生地が滑らかに延びていく。
それは冷たい金属の仕事だったが、
刃を通る瞬間、細い麺の一筋一筋が光を放つように見えた。
「……これで千人分でも出せる」
「だが、手の温もりはどこ行った?」
「無くしちゃいねぇ。
これを回す手が、覚えてりゃいい」
メンジロウはガルザにハンドルを握らせた。
「粉の抵抗を感じろ。重みを覚えろ。
それが“手の記憶”になる。
けど、毎朝三玉でいい。必ず手で打て。
機械の味だけじゃ、ラーメンは死ぬ」
ガルザの手が、鉄の冷たさを通して温もりを取り戻していく。
「……お前の手の跡を忘れねぇ」
「忘れろ。
真似しようとするな。
自分の麺を打て。
火は、そうやって継がれてくんだ」
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そしてある朝、行列の中で客たちが囁いた。
「今日の麺、なんか変わったな」
「でもスープの香りが前より立ってる」
「ガルザの店、前より旨くなってねぇか?」
その声を聞きながら、メンジロウは包丁を拭いた。
厨房の隅に置いた旅支度の荷袋が、やけに重く感じた。
扉の向こうには、ミナミナが待っている。
「行くのか?」と問うガルザに、短く頷く。
「街の火はお前に任せる。
……手を休めるな」
「おう。
次は俺のラーメンで、あんたを黙らせてやる」
扉を開けると、朝の光とスープの匂いがぶつかった。
行列のざわめきの中、
誰かが「メンジロウの兄ちゃん、いってらっしゃい!」と叫んだ。
彼は振り返らず、湯気の中に歩いていった。
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焚き火の炎に戻る。
ミナミナが静かに笑った。
「なるほどな。お前のラーメンが、街ひとつ育てたってわけか」
メンジロウは火を見つめたまま、淡く答えた。
「育てたのは火だ。俺は、火を渡しただけだ」
風が吹き、火の粉が夜空に舞う。
その一粒一粒が、あの街の湯気に似ていた。




