第六章 啜る者たち
第六章 啜る者たち
白耀粉の袋が、日に日に軽くなっていった。
スープは完成している。チャーシューも完璧。
かんすいも見つけた。麺も黄金に輝く。
――なのに、完成しない。
厨房の奥。夜。
メンジロウは黙って火を見つめていた。
寸胴の中でスープが静かに沸き立つ音が、心臓の鼓動のように響く。
何度目かの試作。
啜り、噛み、飲み込む。
……違う。
湯気の向こうに、完璧なはずの味がある。
だが、その一口には“生きた呼吸”がない。
レナがそっと覗き込む。
「もう何日も続けてます。粉も……残りわずかですよ」
「わかってる」
「これで十分美味しいです。領主様も満足されるはずです」
「俺が満足してねぇ」
その声は、冷静で、だが刺すように鋭かった。
◆
翌朝。
ミナミナがスプーンを片手に座っていた。
「今日も試作品か? 腹は空いてるぞ!」
能天気な声に、メンジロウの眉がわずかに動く。
それでも彼は止めず、湯を張り、麺を落とす。
スープが香る。
チャーシューが沈む。
黄金の麺が白い泡の中を泳ぐ。
「はい、できた」
湯気の向こう、ミナミナが箸を構える。
ズズッ。ズズズッ。
周囲が一瞬静まる。
彼女の目が見開かれる。
「うまい! ……けど、なんか足りねぇ!」
「足りねぇ?」
「うん。腹はいっぱいなのに、食べ足りねぇんだ」
メンジロウはその言葉に目を細めた。
「食べ足りない……か」
一口啜って、思考の奥を探る。
量ではない。塩でも、香りでもない。
“満ちない”理由――。
記憶の底から、湯気が立ち上る。
転生前、東京・秋葉原の路地裏。
屋号《麺屋清誠》。
行列の中で何時間も待った。
カウンターに座り、初めて啜ったときの――
あの長く、永遠みたいな一口。
「……そうか」
彼は顔を上げた。
「麺が、短ぇんだ」
「短い?」
「啜るって行為は、食うことじゃねぇ。
呼吸なんだ。吸って、噛んで、飲み込んで……その間、全部が一体になる。
麺が短けりゃ、その呼吸が途切れる。
食べ足りねぇのは、命の長さが足りねぇからだ」
レナが驚いた顔で息を呑んだ。
「……そんなことで味が変わるんですか?」
「味は変わらねぇ。
でも“体験”が変わるんだ。
料理は舌じゃなく、心で食うもんだ」
◆
彼は生地を打ち直した。
延ばす。延ばす。
粉の抵抗が強くなる。
打ち粉は同じ粉。
余分なものを混ぜるのは邪道だと呟きながら、手に粉をまぶす。
粉の香りすら、味のうちだ。
「切り幅、〇・九ミリ……長さ、三十七センチ前後」
呟きながら包丁を入れる。
前よりも、ほんのわずかに長くしただけ。
だが、湯の中で麺が踊る音が、確かに変わった。
ズズッ、と空気を裂くような音。
「聞こえるか?」
「え、何を?」
「麺が……歌ってる」
◆
スープに麺を沈めた瞬間、香りが広がった。
黄金の湯気が、光のように立ち昇る。
湯気がまるで“呼吸”しているようだった。
「これだ」
静かに箸を取り、一口啜る。
舌の上で、スープと麺が一緒に滑り込む。
香りが立ち上がり、塩気が追いかけ、
チャーシューの脂がその後を包む。
一瞬、時間が止まった。
「……完成だ」
◆
領主ローヴェン邸。
銀の燭台、鏡のような床。
豪奢な晩餐の席に、メンジロウのラーメンが運ばれた。
「ふむ……これが“新料理”か」
領主は銀の器を覗き込む。
湯気と共に香りが立つ。
鼻をくすぐる未知の匂いに眉をひそめた。
「啜るというのは……下品ではないのか?」
「音は、味の証です」
メンジロウが言う。
「黙って食うより、感謝の音を立てる方が正しい」
静寂。
領主は迷いながら、箸を取った。
そして一口。
ズズッ――。
目が見開かれた。
香りが広がり、脳がしびれる。
熱が、味として舌の上を走る。
身体の奥に、風が通るような感覚。
彼は震える手で器を抱え、黙って啜り続けた。
誰も言葉を発せなかった。
やがて、丼の底が見えたとき、
領主は小さく息を吐いた。
「……これは、魂の詩だ」
その夜、ローヴェン領主は「ラーメン」をシオラの名物料理として認定した。
「この味を、領の誇りとせよ」
◆
翌朝。
執事が推薦状を差し出した。
「メンマート商会へ。あなたの名で通ります」
メンジロウはそれを受け取り、少しだけ眺めた。
そして静かに返した。
「悪いが、まだ借りは作れねぇ。
自分の足でBに上がる」
レナが驚く。
「なぜ? これほどの実績があれば……」
「俺の“味”は、誰の看板にもならねぇ。
必要なのは、肩書きじゃなく、丼の中身だ」
ミナミナが笑った。
「真面目って言葉、あんたのためにあるな」
「そうかもな」
メンジロウは笑い、厨房を振り返る。
火の跡、焦げた鍋、割れた丼。
どれも彼の戦場の痕だった。
「……この味で満足したら、終わりだ」
◆
昼。
荷をまとめる。
ミナミナが背に大剣を、メンジロウが腰に包丁を。
エルシアとレナ、ガルザが店の前に立つ。
「帰ってきたら、また一杯作れよ!」
「そのときゃ、スープの火も絶やさねぇでおく」
ガルザが笑い、両手を組む。
メンジロウは軽く頷いた。
「その火、次はもっとでかくしてやる」
二人は街道を歩き出した。
背後で、湯気がひと筋、風に乗って流れていく。
シオラの街がゆっくり遠ざかり、
空の向こう、まだ見ぬ世界の匂いがした。
メンジロウは小さく呟く。
「――ラーメンは、まだ終わっちゃいねぇ」




