第17章 港町
船底の木材が、低く軋んだ。
水平線の先に、ぼんやりと影が浮かび始めたときだった。
「あれか……島ってやつは」
ミナミナが舳先にしがみついたまま、目を細める。
「……う、うぉ……まだ揺れてる……」
数刻前まで真っ青だった顔色は、ようやく人並みに戻りつつあったが、足元はいまだ覚束ない。
一方、エルシアは船縁に手をつきながら、言葉を失っていた。
海。
空。
島。
すべてが初めてだった。
甲板に立つメンジロウは、潮風を胸いっぱいに吸い込む。
鼻の奥に残るのは、鉄と塩と、干し魚の匂い。
そこに──微かに混ざる、昆布の甘い香り。
「……違うな」
思わず、声が漏れた。
大陸沿岸とも、リュースポートとも違う。空気そのものが違う。
船が港へと滑り込む。
石積みの岸壁。
木製の桟橋。
昆布が干された網。
魚の血と海水で黒ずんだ地面。
港町・トウガ。
喧騒が、耳に飛び込んできた。
「でっけぇな……!」
ミナミナが思わず声を上げる。
エルシアは、ただ唖然と立ち尽くす。
「……音が、街じゃなくて……海みたい」
波音と、人の声と、かもめの鳴き声。
活気があって、湿り気があって、どこか生命力に満ちた場所だった。
その日の宿は、港から少し離れた崖沿いの温泉宿だった。
岩をくり抜いた露天風呂。
海を見下ろすように湯が張られ、白い湯気が立ち上っていた。
硫黄と塩の混ざった匂いが、呼吸の奥に落ちてくる。
ミナミナは、肩まで湯に浸かりながら大きく息を吐いた。
「……生き返る……」
戦いでもなく、走るでもなく、ただ「温かい」という感覚に、少し戸惑っているようだった。
湯の向こう側で、エルシアは静かに海を見つめていた。
湯煙に滲む水平線。
ちらりと、メンジロウの方を見るが、すぐに視線を逸らす。
メンジロウは、岩に背を預けながら天を仰ぐ。
湯気。
空。
遠い波の音。
「……この国の味は、きっと優しい」
そう、心の底で思った。
夜。
宿の食堂に、木の香りが満ちていた。
卓の中央に大皿の刺身が置かれる。
身は透明に近く、薄く脂を帯びている。
だが──
醤油はない。
小さな器に盛られているのは、ただの白い塩。
「……塩で食えってか」
呟きながらも、一切れ口に運ぶ。
悪くない。
むしろ、素材の味そのものが際立つ。
だが。
「……足りねぇな」
ミナミナは気にせず豪快に食べている。
「これうまいぞ! 肉よりあっさりしててよ!」
エルシアは、一切れずつ大事そうに噛みしめていた。
夜更け。
メンジロウは宿の厨房を借りた。
まず、豚骨。
鍋に骨を放り込み、水を張る。
火を入れた瞬間、脂と獣の匂いが立ち上る。
数刻後。
板前が顔をしかめた。
「……なんだ、この……匂いは……」
宿の客も、鼻を押さえて小さく咳き込み始めた。
できあがったスープ。
味は、悪くない。
だが──国には合わない。
翌日。
昆布と乾物で出汁を取る。
塩だれを合わせ、細麺を打つ。
塩ラーメン。
これは、受け入れられた。
「珍しいが……食べやすい」
だが“衝撃”ではない。
港町の朝。
網に干された魚。
潮風に揺れる昆布。
地面には魚の鱗が光っていた。
メンジロウは歩きながら考える。
濃すぎるものは嫌われる国。
強さより、清さが尊ばれる舌。
──ならば、どうする。
そんな背中に、手を叩く音。
「なあ」
ミナミナが、笑った。
「最近さ、ずっと鍋振ってねぇか?」
「……」
「冒険者らしいこと、してねぇぞ」
港の風が、三人の間を抜けていく。
「この国、まだ見てねぇ場所だらけだろ」
「うまいもんも、魔物も、たぶん両方あるぞ」
メンジロウは、考え込む。
エルシアは、何も言わず二人を見る。
静かに、港の外れに立つ看板が目に入る。
トウガ港町冒険者ギルド。
遠く、鍋の音。
煙。
海の音。
「……この島には」
心の中で、呟いた。
「この島のラーメンが、あるはずだ」




