第十四章 記憶の出汁
冬の風が、湯気の立つ街を横切っていく。
ヴァルグランの温泉宿は、湯の香と薪の焦げた匂いが入り混じる。
夜の帳が降り始めたその時、扉が勢いよく開いた。
「メンジロウさんっ!」
熱気を裂いて、泥まみれの少女が飛び込んできた。
息を荒くし、頬は火照り、髪は汗に張り付いている。
驚く間もなく、彼女はまっすぐメンジロウに抱きついた。
「おいおい、危ねぇって!」
受け止めた拍子に、鍋のスープが少しこぼれ、床を濡らした。
エルシアの腕が彼の背に回る。細い指が震えている。
温かい――けれど、その熱は焦りの色をしていた。
「……お前、どうしたんだ」
声をかけた途端、エルシアがはっと目を見開いた。
「ご、ごめんなさいっ!」
飛び退くように離れると、頬まで真っ赤に染め、視線を落とした。
「その、あの……」
言葉が続かない。喉の奥で声がほどけていく。
その様子を見ていたミナミナは、口を開けたまま硬直していた。
いつも明るくて、何でも遠慮なく言う彼女が、なぜか言葉を失っている。
「なに、今の……?」
声はかすれていた。
エルシアが胸にすがっていた光景が脳裏から離れない。
その瞬間、自分の胸がずきりと痛んだ。
なんだこれ――。
怒りでも、嫉妬でもない。
ただ、息が詰まる。
その痛みの正体を、彼女はまだ知らなかった。
「落ち着け。何があった?」
メンジロウの声は穏やかだが、目は鋭い。
エルシアは唇を噛んで、必死に息を整えた。
「……シオラが、大変なんです!」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
湯気が消えたように、張り詰めた沈黙。
「メンマート商会が、小麦の取引を止めたんです」
「止めただと?」
「はい……ガルザさんの店、もう二週間も開けられてなくて。領主様も怒っておられますけど、商会が値を上げて、誰も逆らえない……」
メンジロウは拳を握り締めた。
「――やりやがったな」
ミナミナが立ち上がった。「戻ろうぜ! 親父が困ってるんだろ!」
「落ち着け。今行っても、解決策がねぇ」
「でも――」
「行動する前に考える。まずはラザルトのとこだ」
***
ギルドの応接室。
暖炉の火がぱちぱちと音を立て、外の吹雪が窓を叩く。
ラザルトは机に肘をつき、重い声で言った。
「メンマート商会、か。あそこは王都にまで金の根を張ってる。敵に回すと、王族でも息が詰まる」
「何か手は?」
「……あるにはある。東の島国から来た若い商人、名をシュウユという。アーレンを遡って交易路を開き、商会の独占に楔を打ち込んだ。だが、あいつは“利”でしか動かん」
「構わねぇ。会わせてくれ」
ラザルトは笑みを浮かべた。
「相変わらず無茶だな。だが気に入った。話を通しておこう」
***
港の倉庫街。
塩の香りと鉄の匂いが混ざる。木箱の山の中、黒髪の青年が帳簿を閉じた。
「君が“ラーメン職人”か」
「メンジロウだ。頼みがある。シオラに小麦を運んでほしい」
「代金は?」
「金はない」
「なら、話は終わりだ」
即答だった。
その冷淡さに、ミナミナが噛みつく。
「おい、困ってる人がいるんだぞ!」
「困ってる人間が世界にどれほどいるか、知ってるか?」
シュウユの声は冷たいが、どこか哀しみを含んでいた。
「この世界を動かすのは情じゃない。利だ」
メンジロウは鼻で笑った。
「だったら、俺の“舌”で動け」
「……舌、だと?」
「食って納得したなら動け。俺の味に賭けろ」
シュウユは短く笑った。
「面白い。明日、私の舌を唸らせろ。できたら取引を考えよう」
***
翌日。倉庫の一角で、鍋がぐつぐつと鳴っている。
魚醤を垂らすと、特有の甘い酸味が鼻を抜けた。
煮干しを入れ、火を弱める。
琥珀色の湯が静かに波打ち、メンジロウは味見をする。
「……まだだな」
やがて現れたシュウユが、無表情で丼を受け取った。
一口。沈黙。
「なるほど。香りは悪くない」
メンジロウは黙って見つめる。
「だが――驚きはない」
「何だと」
「魚醤は私の商材の一つだ。味の輪郭は読める。夜泣きラーメンも塩も食べた。君の腕は確かだ。だが、未知ではない」
ミナミナが噛みつく。「ぜいたく言うな!」
メンジロウは肩を落とし、短く息を吐いた。
「いいだろう。三日くれ。想像を超えてみせる」
「三日だ。それを過ぎたら契約はない」
***
三日後、倉庫の中は煮詰まったスープの香りで満ちていた。
メンジロウは無言で味を確かめては捨て、また煮直す。
豚骨、魚介、塩。何度重ねても違う。
「濃い、臭い、重い……全部ダメだ」
「もう十分うまいじゃん!」
「“うまい”で満足したら終わりだ」
その時――鼻をかすめたのは、湿った土の匂い。
清盛の店の記憶が蘇る。
土の匂い、香ばしさ、あれは――。
「狩りに行くぞ」
「は?」
「必要な香りがある」
冬の森は冷え、雪がちらつき始めていた。
ぬかるんだ地面を掘ると、黒い根が出てきた。
「木の根っこ?」
「違う。牛蒡だ」
ミナミナは眉をひそめる。「それ食うのかよ」
「香りの芯になる」
焚き火の上に網を置き、皮ごと炙る。
ぱち、ぱちと弾ける音と共に、土と煙の匂いが広がった。
それをスープに沈める。
煮立つ音が静かに落ち着き、やがて湯気の質が変わった。
重さが消え、香りが深く澄んでいく。
「……これだ」
その言葉に、ミナミナは黙って頷いた。
***
夜、再びシュウユが倉庫に現れた。
メンジロウは何も言わず丼を差し出す。
白濁したスープ。底には淡い茶色の粒――炙った牛蒡の欠片。
シュウユは麺を啜った。
瞬間、息を止めた。
豚骨の重厚さ、魚介の旨味、そして香ばしい土の香。
互いを打ち消さず、共鳴している。
「……これは……」
彼はしばらく黙り、ゆっくりと箸を置いた。
「獣の濃さを土が包み、海の香りが抜ける。こんな味、聞いたことがない」
メンジロウは静かに笑った。
「清盛の味だ。土と海が同じ鍋で息をしてた」
シュウユは息を吐き、口元に薄い笑みを浮かべた。
「いいだろう。契約成立だ。私が小麦を運ぶ」
「見返りは?」
「そんなものは後でいい。――君の味は、金より価値がある」
港の風が吹き抜ける。
メンジロウは火を落とし、鍋を見つめた。
「……シオラへ戻る。ガルザの店を取り戻す」
「へっ、いいじゃねぇか!」とミナミナが笑った。
その隣で、エルシアは静かに彼を見つめていた。
嬉しさと、どこか言葉にできない寂しさが胸に残る。
湯気の向こうで、三人の姿が溶けていく。
それぞれの胸に、違う熱を抱えたまま――。




