第十二章 湯の街
──霧を抜けた瞬間、空気の温度が変わった。
眼前に広がるのは、湯気に包まれた巨大な都市。
石造りの街並みのあちこちから白い蒸気が立ちのぼり、陽光を受けて揺らめいている。
温泉の都──ヴァルグラン。
「すげぇな……街全体が湯に浸かってるみてぇだ」
ミナミナが感嘆の声を上げる。
メンジロウは深く息を吸い込み、ほのかに漂う硫黄の香りに目を細めた。
「湯の匂いだ。……この街の塩気、悪くねぇな」
坂を下りながら街へ入ると、温泉水が石畳を流れ、足元からじんわりと温かさが伝わってきた。
湯気の中を行き交う人々は活気に満ち、通りには湯上がりの客向けの屋台がずらりと並んでいる。
肉の串焼き、パン、温かいスープ、果実酒──
誰もが笑いながら食べ歩き、ヴァルグランの夜はまるで祭りのようだ。
だが、メンジロウの目は冷静だった。
「……惜しい」
「またそれかよ」ミナミナが苦笑する。
「肉は悪くない。けど炭が冷えてる。火を強くして最後に焦がせば、香りが立つ。
パンは塩が弱い。小麦の旨味が死んでる」
「観光に来たんだぞ、お前」
「違ぇ。学びに来たんだ」
メンジロウは通りを歩きながら、屋台の様子を次々と観察していく。
魚を干して売る店の前で立ち止まり、手に取った煮干しを嗅いだ。
「臭みが強い。塩が甘ぇ。……でも、出汁には使えるな」
香草屋では、葉を指で擦って匂いを確かめる。
「……豚骨に合いそうだ」
ぶつぶつ独り言を言う彼に、店主たちは奇異の目を向けた。
街の中心部に差しかかると、湯気の中から巨大な建物が姿を現した。
灰色の石壁に金の紋章が輝く──ヴァルグラン中央ギルド。
「……ここか」
メンジロウが呟く。
「いよいよだな」
ミナミナが笑って背中の大剣を叩いた。
⸻
ギルドの中は騒がしかった。
酒の匂い、笑い声、依頼書の紙音が混ざり合う。
受付で名を告げると、奥から壮年の男が現れた。
白い髭を整え、威圧感を纏った男──ギルド長ラザルド。
「Bランク昇格の申請だと?」
「そうだ」メンジロウが頷く。
ラザルドは二人を見回し、椅子に腰を下ろした。
「理由を聞こう。命懸けで昇格を狙う理由は?」
「食材のためだ」
「食材?」
ラザルドが眉を上げる。
「具体的に?」
「小麦、塩、肉、魚──最高の素材を手に入れる。それが目的だ」
「お前……料理人か?」
「ラーメン職人だ」
「……ラーメン?」
「麺を茹でて、スープに浸し、啜る料理だ。魂を温める一杯だ」
短い沈黙のあと、ラザルドは鼻で笑った。
「バカな話だ。だが、嫌いじゃねぇ」
「俺はもっと美味いもんを食うためにBになりてぇ!」
ミナミナが胸を張る。
ラザルドは呆れ顔のまま、机の上の書類をめくった。
「よし、受理する。ただし──この街の昇格試験は特別だ」
「討伐じゃないのか?」
「違う。北の霊山に籠もれ。霊験が現れるまで、ただ待て」
「霊験……?」
「神秘だ。いつ現れるかは誰にもわからん。
早ければ一週間、遅ければ冬を越す。
だが、それを越えた者は皆、Bになる」
ミナミナがため息をつく。
「また運任せかよ」
「運も実力のうちだ」
ラザルドは笑い、印章を押した。
「気をつけろ、ラーメンの男。
山は、腹より先に心を凍らせる」
メンジロウは背を向け、扉を押しながら答えた。
「腹が減ったら、作ればいい。……それが俺の生き方だ」
⸻
夜のヴァルグランは、昼とは違う顔を見せていた。
湯気の合間をランタンが照らし、街全体が金色に光る。
湯上がりの客が笑いながら歩き、あちこちで酒の香りが漂う。
メンジロウは湯宿の窓から夜の街を眺め、静かに呟いた。
「……湯上がりには、やっぱり塩だ」
「は?」ミナミナが振り返る。
「夜泣きラーメン。疲れた舌に沁みる味だ」
「湯上がりにラーメン食う奴なんていねぇよ」
「俺が作る」
厨房の火が灯る。
寸胴の蓋を開け、鶏ガラを煮立たせる。
灰汁をすくい、干し貝柱と昆布を入れて火を細める。
湯気の向こうで、メンジロウの影が動いた。
「夜泣きの塩は、澄ませて勝負だ」
黄金に透き通るスープを丼に注ぎ、細ちぢれ麺を泳がせる。
刻みねぎ、焦がしねぎ、塩豚の薄切りを添え、最後にごま油を一滴。
湯気が夜風に溶け、香りが街へ広がっていく。
ミナミナが一口すすった。
音が、静寂に溶ける。
「……しょっぱくねぇのに、沁みる」
「それが夜泣きラーメンだ」
酔客がふらりと立ち寄り、湯上がりの顔に笑みを浮かべながら啜る。
夜のヴァルグランに、初めて“旨い湯気”が流れた。
メンジロウは空を見上げ、湯煙の向こうに星を探した。
「……次は、山だ」
湯の都に新たな伝説の香りが立ちのぼる。
──その一杯が、ヴァルグランの夜を変えた最初のラーメンだった。




