第十一章 解けぬ氷、熟す夏
リュースポートの港に、夏の熱気がゆるやかに戻ってきた。
氷の塔の影が届くあたり――そこに一軒の屋台があった。
白い暖簾には、黒い筆文字でこう書かれている。
――冷やし中華。
潮風に乗って漂う香りは魚醤と酒の酸味、そして刻みきゅうりの青い匂い。
氷を浮かべた木鉢の中では、黄金の麺がきらめいていた。
「次の人、三つ持ち帰りな!」
ミナミナが大声を張り上げる。
彼女はすでにこの屋台の看板娘だ。
人懐っこい笑顔と、屈強な腕で客を捌き、誰も文句を言えない。
「これが氷ってやつか……」
「舌の上で溶ける!」
異世界の港町に“涼味”という概念が広がり、
庶民の話題はすっかり「冷やし中華」に染まっていた。
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リーネの氷は高価なものだった。
だが、今回は研究目的という名目でメンジロウに無償提供されている。
アイテムボックスの“時間を止める”術式と、氷の“時間を遅らせる”力。
その二つの干渉に、彼女は強い興味を抱いていた。
夜、屋台を閉めたあと。
メンジロウは豚肉を仕込もうとアイテムボックスを開いた。
取り出した肉を切ると、思わず息をのんだ。
脂が白く透き通り、香りは深く甘い。
「……熟成してやがる」
翌日、リーネが塔から現れた。
「これが“保存”の結果なの?」
「そうらしいな。凍ってもねぇのに、旨味が増してる」
リーネは肉片を薄く切り、匂いを嗅いだ。
「時間の流れが……完全には止まっていない?
氷が魔力の流れを安定させて、ゆっくり……動かしているのかもしれない」
「理屈なんざどうでもいい。旨いんだ、これでいい」
「理屈がわからないままじゃ前に進めない!」
苛立ちを隠さず、リーネは髪を乱した。
「……お前、ほんと研究者だな」
「あなたほどの頑固者には言われたくない」
二人は同時にため息をつき、ふっと笑った。
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屋台の評判は、港中に広がっていた。
魚商人や船乗りたちは、昼の仕込みを終えると冷やし中華を求めて行列を作る。
氷を浮かべた器に、爽やかな酸味と魚醤の香りが立ち上る。
その光景は異様なほどに人気を集め、模倣する者まで現れ始めた。
――だが、模倣は所詮、模倣だった。
別の露店で売られていた「冷やしモドキ」は、
麺が短く、冷たくもなく、魚醤の臭みが鼻をつく。
ミナミナが一口食べて、顔をしかめた。
「うわ、これは冷えてねぇ! 冷やし詐欺だ!」
リーネが肩をすくめる。
「でも……文化って、こうやって伝染するものよ。理屈もなく」
「伝染じゃねぇ。育ってくもんだ」
メンジロウは笑いながら、丁寧に麺を締める。
「いつか、誰かが本物を作れるようになりゃいい」
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だが、繁盛の裏で不満を募らせる者もいた。
メンマート商会。港の流通を牛耳る巨大組織だ。
「港の飯屋が調子に乗りすぎてる。氷も魚も全部、うちの縄張りだ」
夜、ならず者たちが屋台を壊しに現れた。
「勝手に冷やしてんじゃねぇ!」
ミナミナの目が光る。
「……てめぇら、夏の味にケンカ売る気か!」
次の瞬間、拳が炸裂した。
氷桶が倒れ、冷気が路地を走る。
逃げ惑う男たちの中で、ミナミナの笑い声が響いた。
翌朝、役所の兵士が屋台を包囲した。
「無許可営業に暴行事件、拘束する!」
「は? 客が並ぶのが罪なのかよ!」ミナミナが吠える。
そのとき、白い霧が立ち込めた。
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氷の塔の方角から吹きつけた冷気が、路地を覆った。
リーネが現れ、静かに言った。
「彼らは研究対象よ。今ここで拘束するなら、あなたたちが後悔するわ」
兵士たちはたじろぎ、やがて頭を下げた。
メンマート商会は逆に非難され、屋台の人気はさらに高まった。
「助かったぜ、リーネ」
「礼はいいわ。あなたのせいで、解けない謎が増えた」
彼女は苦笑しながら、氷の杖を床に立てた。
「氷温熟成……どうして時間が動いたのか、まだわからない」
「理屈がわかったら、次は味が変わっちまうかもな」
「……あなたって、本当に腹立つ」
「料理人は理屈より旨味を信じるんだよ」
彼の言葉に、リーネは黙って頷いた。
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夏が終わる。
港の風が涼しくなり、氷桶の中の氷も溶け始めた。
屋台の常連たちは「夏が終わるのが惜しい」と口々に言う。
リーネは塔の窓からその様子を見下ろし、拳を握った。
――まだ、この理屈を解明できていない。
メンジロウは暖簾を畳み、塔へ向かう。
リーネが封蝋の施された封書を差し出した。
「ヴァルグランのギルド長宛よ。あなたの料理は、理屈より早く世界を動かす」
メンジロウは封書を受け取り、笑みを浮かべる。
「次は、温かい一杯だ」
「……そのときは、理屈で負けたくないわ」
ミナミナが屋台の跡を振り返り、空を見上げる。
「夏、終わっちまったな」
「また来年も、氷を浮かべりゃいいさ」
メンジロウは静かに言い、港をあとにした。
潮の香りとともに、冷やし中華の夏が過ぎ去った。
だがその味は、確かにこの街に残っていた。




