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妹に婚約者を奪われた私、”血に飢えた狂犬” に嫁ぐことになりまして

掲載日:2025/06/08

「君との婚約を破棄することにした」


 第一王子――ユリウス殿下は、まるで世間話でも始めるかのように、椅子に腰を下ろしながらそう告げた。

 場所は政務室。

 テーブルの上には、彼が明日の公務で読み上げる予定の演説草稿が広げられている。


「……理由を、お聞かせいただけますか?」


 私は感情を押し殺し、努めて丁寧に尋ねた。

 ユリウス殿下は発想豊かで、自分の想いに真っすぐな方だ。

 言い換えれば直情的で、気分に任せて突飛な言動をとることも少なくない。

 今回もただの気まぐれであってほしい、そう願って私は問いかけた。


「君は優秀だ。よく働くし、判断も早い。……だが、王妃には相応しくない」


 けれど返ってきた答えは、迷いのない明確な意志だった。


「相応しくない……ですか」


「ああ、君がいると僕は気が休まらない。もうウンザリなんだ」


 要するに政務では役立ったが、隣に立つには堅苦しすぎる、ということか。


「やはり王妃は、国の長である王を癒してこそだろう」


 演説草稿に視線を落としたままこちらに一瞥も寄こさず、肩をすくめて彼は言った。


 ……よろしいのですか、殿下。

 その原稿、私が書いたものですよ。

 先日、議会で満場一致の賛同を得たあの草案も。

 殿下の体質に合わせて調合した薬茶も。

 すべて私が、貴方のために整え、支えてきたことなのに。


 呆然とする私に目もくれず、「代わりに」と彼は言葉を続けた。


()()()()クラリッサなら、優しくて柔らかくて小さくて……守ってやりたくなる。そう、ああいう女性こそ、王妃に相応しいと思うんだ」


 妹の名前が出た瞬間、私はすべてを悟った。

 最近、妹が王宮に呼ばれる機会が増えていたのは偶然ではなかったのだ。


「……そうですか」


 口元だけで微笑む。

 目の奥はきっと、氷のように冷えていただろう。

 だが涙は出なかった。

 不思議と心は静かだった。


 私は一生懸命頑張ったけれど、それでは足りなかった。

 ……いや、頑張ったのが良くなかったのかもしれない。

 この人が求めていたのは頑張る女ではなく、愛らしくて守りたくなる小動物のような女の子なのだ。

 ただ、それだけのこと。


「クラリッサと……どうぞ、お幸せに」


 丁寧に一礼して、私はその場を後にした。




------




 部屋に戻って、荷物をまとめる。

 少しでも殿下の助けになれればと奔走した王宮生活。

 私室に私物はほとんど置いていない。

 必要な書類や帳簿も、すでに引き継ぎの準備はできていた。

 窓辺に立ち、遠く王都の塔を見下ろす。

 ここで過ごした数年間が、頭の中に淡くよぎった。


(……まあ、これでよかったのかもしれない)


 肩の荷が下りたような気がする。

 毎日遅くまで調べものや書類作成、殿下の不在時には代理で議会にも出席していた。

 私がやらねば誰もやらず、結果だけが殿下の手柄として讃えられてきた。


(あの人、これからは自分でやるのかな……大丈夫だろうか)


 ……いや、何を考えているんだ。

 もう必要ないと言われたのに、まだ心配してしまうなんて。

 きっと大丈夫だろう、癒してくれる可愛いクラリッサがいるのだから。

 どこか遠い景色を見るような気分で、私は小さく笑う。


(……がんばってたんだけどな)


 誰かに褒めてほしかったのかもしれない。

 いいえ、せめて……裏切られた、なんて思いたくなかったのだ。


 もともとこの婚約は、政略の意味合いが強かった。

 恋愛感情なんて、互いに抱いていなかっただろう。

 それでも、夫となるはずの人を支え、国に貢献できるのならと、私は懸命に働いてきた。

 それがこうして報われることなく終わるとは、思っていなかっただけで。


(……でも、もういいわ)


 そう思いながら、私は静かに室内を振り返る。

 名残を惜しむでもなく、最後の礼を心の中でひとつ。

 そして扉を開ける。

 その先に待っていたのは、王子付きの臣下たちと王宮の重役たち。

 皆、一様に神妙な顔をしてこちらを見つめていた。


「……すまない。こんなことになるとは」


 そう言ったのは、王宮付きの老官僚だった。


「いいえ。殿下もおっしゃっていたでしょう?

 王妃の務めは王を支えること。

 その役目には、私より妹のクラリッサの方がふさわしかった。

 それだけのことです」


 私が淡々と言うと、老官僚は「そうか」と短く頷き、言葉を詰まらせた。

 代わって前に出てきたのは、控えていた侍女である。


「……それでは、今後のことをご説明いたします。

 ゼスティア様にはこれより、辺境の要塞都市へと向かっていただき、

 そちらを治める騎士団長と婚約していただく手筈となっております」


 辺境の要塞都市。

 今度は、そこで身を捧げろというわけか。

 まあ王宮を離れても、王都の中に私がいるのは、殿下にとって目障りなのだろう。

 できるだけ遠くに追いやりたいのも、彼らなりの配慮なのかもしれない。


「辺境を治める騎士団長は、王国にとって重要な抑止力です。

 そこと繋がることで、ゼスティア様のご実家にとっても……」


 侍女は必死に前向きな言葉を並べていた。

 けれど、私はもう聞いていなかった。

 すでに決められたことなのだ。

 それだけ理解し、黙って頷いた。




------




 王都から辺境の砦までの道のりは、二週間ほどを要した。

 馬車の揺れは容赦なく、道も半ばで舗装が途切れ、岩と泥に変わった。


 私がこれから婚約する相手、要塞都市を治める騎士団長は、『血に飢えた狂犬』と呼ばれ恐れられている。

 王宮にいた頃から、彼の噂は耳にしていた。

 剣一本で戦場を切り裂き、敵味方の死体を踏み越えて進む姿から、そう呼ばれるようになったとか。


 ……他にも、無口で粗暴。

 女嫌いで、礼儀作法も知らない野人のような人物だとも。

 正直に言えば、怖くなかったわけではない。

 王子と妹の一件で凍てついていた私の心に、久しぶりに芽生えた感情。

 それは恐怖と警戒だった。


 砦の門をくぐった瞬間、馬車が止まり扉が開かれた。


「――お初にお目にかかる。ゼスティア嬢。……オレが、騎士団長のエルヴィンだ」


 低く、よく通る声。

 威圧的ではないのに、不思議と抗えない重みがある。

 まるで戦場の静寂をそのまままとったような男性だった。


 大柄な体格に、重厚な軍装。

 無精髭もなく、乱れのない身なりは、粗野というより練度の高い兵のそれ。

 目元に刻まれた傷跡が、彼の過去を物語る。

 けれどその眼差しに敵意や猜疑の色はない。

 ただ、淡々とこちらを見据えているだけ。


(……想像していた狂犬とは、ずいぶん違う)


 噂ではもっと荒くれ者かと思っていたが、目の前の彼は無用な言葉を削ぎ落としたような。

 狂犬というよりは、静かな猛獣とでも呼ぶべき人だった。

 彼は私をじっと見つめ、ハッとしたように瞬きを数回。


「案内しよう」


 それだけ言って、彼は私より数歩先を歩く。

 背中で語る男という言葉があるが、なるほど確かに、と私は内心で苦笑した。




------




 与えられた部屋は、思っていたよりもずっと清潔で整っていた。

 火が入った暖炉、温かい湯の入った湯桶。

 そして窓辺には摘みたての野花が、小さなガラス瓶に活けられていた。


 これが彼の指示によるものなのかは分からない。

 少なくとも、私を丁重に迎える配慮がうかがえる。


(無愛想で、怖い人だと聞いていたけれど……)


 第一印象は、ほんの少しだけ覆された。


 その日の夕食は、砦の食堂で簡素に取られた。

 獣肉のシチューと焼きたての黒パン。

 彼は寡黙なままで、食事中ほとんど喋らなかった。

 だが席につこうとしたとき、無言で手を伸ばし、椅子を引いてくれた。

 それだけのことなのに、私は一瞬、動きを止めてしまった。


「……ありがとうございます」


 やっと口に出したその言葉に、彼はわずかに頷いた……ように見えた。

 怒っているのか、喜んでいるのか、その無表情からは何ひとつ読み取れない。

 けれど妙な気遣いや建前がないぶんだけ、逆に安心できた。

 飾らず、飾らせず、ただ静かにそこにいてくれる人。

 その不器用な距離感が、むしろ心地よく思えてしまうのが不思議だった。


 食後、彼は「明日から砦の案内をする」とだけ告げて席を立った。

 礼も世辞も何もない。

 けれど、その背中には信頼できる何かがあった。

 私は思わず、小さく息を吐く。


(……殿下とは、まるで違う)


 頭の中で、自然とかつてのあの人の姿が浮かんでしまう。

 彼はよく喋り、よく褒め、甘い言葉を惜しまなかった。

 でもそれは全部見せかけだった。

 私の努力も忠義も、言葉の裏で簡単に踏みにじられた。


 目の前のこの人は、何も言わない。

 けれど、その沈黙の奥に、嘘のない何かがある。


(……本当に、変な人)


 なのに、なぜだろう。

 その無骨さに、ひどく救われた気がした。

 こんなふうに感じるのは、いつ以来だっただろうか。




------




 辺境に嫁いでから、季節がひとつ過ぎた。

 この地の冬は厳しいと聞いていたが、砦の中は思っていたより穏やかだ。

 火は絶やさず、水は凍らぬよう循環され、兵士たちは規律正しく持ち場を守っていた。

 それはすべて、騎士団長であるエルヴィンの采配によるものだ。


 寡黙で無骨で、表情の乏しい彼。

 だが彼の一言には重みがあり、誰もがそれを信じて動いていた。


 私はというと、砦の記録係として、ささやかながら事務仕事を任されていた。

 エルヴィンには「何もしなくていい」と言われたが、休むだけというのも中々落ち着かない。

 頼み込んで、軽作業ならと許しを貰ったのだ。


 私は朝になれば執務室の机に向かい、帳簿を整理し、報告書をまとめる。

 王城にいた頃とは比べものにならないほど地味で、けれど心穏やかな仕事だった。


 作業に取りかかろうとすると、既に向かいの席にエルヴィンがいて、お茶を淹れている。

 無言で、無駄なく、手際よく。

 まるでそれが当たり前の習慣であるかのように。


 茶葉の香りは、日ごとに違っていた。

 兵士たちの話によれば、もともと水ばかり飲んでいた彼が、私との婚約が決まった途端、街で茶葉を買い漁るようになったのだという。

 陶器のポットも新調し、侍女に頼み込んで淹れ方を学んだらしい。


 きっと、私の好みに合わせたのだろう。

 おそらく王都から渡された書類のどこかに、「紅茶が好き」とでも記されていたのだ。

 かつて神経をすり減らしていた王城で、ティータイムだけが唯一の息抜きだった。


 毎朝、彼は何も言わず、目も合わせず、湯気の立つカップを私の机にそっと置いていく。

 その静かな習慣が、優しく胸に沁みる。

 いつからか、紅茶の香りで一日が始まることを、少しだけ楽しみに思うようになっていた。


 そんなある日、砦に一通の文が届いた。


「……王城からだ」


 エルヴィンが手紙を手渡してくる。

 ざらついた封筒。

 見覚えのある筆跡。


「読みたくなければ、読まなくていい。返事は適当にオレがしておく」


 その言葉は、不器用な慰めのようだった。

 けれどそれ以上に驚いたのは、彼が私の目をまっすぐ見つめて言ったこと。

 普段は、何気ない会話の時でさえ視線をそらすくせに。


 深い、翡翠のような瞳。

 硬質な色をしているのに、そこには温かさがあった。

 目が合った瞬間、胸の奥に何かが満ちた。


「……大丈夫です。読ませてください」


 私がそう返すと、彼はわずかに眉を動かして頷く。


「そうか。何かあったら言え」


 それだけ言って、彼は静かに部屋を後にした。

 去っていく背中を見送りながら、私は小さく息をつく。

 ひとりにしてくれること。

 「言え」と、頼れる場所を示してくれること。

 どちらも、彼なりの優しさだ。


 封筒を開いてみれば、かつての宮廷補佐官が綴った、淡々とした報告だった。


『――第一王子ユリウス殿下、政務を放棄し公務を混乱させた罪により王位継承権を剥奪。

 婚約者クラリッサ嬢、宮廷内での度重なる不敬発言と不適切な行動により勅命で謹慎処分』


 私は文を伏せ、しばらくのあいだ黙っていた。


「……早かったわね」


 誰に向けたわけでもない、内心の独白。

 ふと、もう一通の手紙が封筒から落ちる。

 私はそれを拾い上げ、中を見る。


『あのお方があれほど無能だったとは……王宮は大混乱です。

 ユリウス殿下は肉体も健康で、素晴らしい頭脳と判断力、人間性に優れたお方と思っていた。

 けれどそれは、裏に貴方の支えがあったからなのですね。

 貴方がいなくなってからの殿下は酷い有様です。

 病弱になり回復と療養を繰り返し、出す草案は子供の描く夢物語のようなものばかり。

 演説も原稿が用意されていないことに直前で気づき、何も喋れず無言で下がり、自身の失態を部下のせいにして怒鳴り散らす……』


 こちらは、かつて王子の臣下だった若い官吏の筆跡だ。

 王城では、おおむね予想していた通りの事態が起こっているらしい。


 演説の構成、政策の立案、予算配分の調整。

 全てを援助していた私がいなくなったのだから、そうなるのも当然だろう。

 常に私は影で動き、王子が脚光を浴びる。


 だが、真実などいずれ浮かび上がるものだ。

 剥奪された地位、打ち捨てられた名誉。

 手にしたものが全て崩れ落ちる無情な音が、風に乗って遠く離れたこの砦まで届いた。

 

『殿下は、もう一度ゼスティア様とお話がしたいと仰っています。

 ですが、貴方様が気にすることは何もございません。

 色に溺れて大切なものを自ら手放した愚か者の戯言です。

 貴方様をこれ以上振り回すわけにはいきません。

 こちらのことは、こちらで処理します。どうか、お元気で』


 手紙の最後は、そう締めくくられていた。

 この手紙の主は、ユリウス殿下に憧れて王宮での仕事を志願した。

 酷い書き様だが、思い描いていた理想と現実とのギャップに彼も苦しんでいるのだろう。


 数日後、もう一通の書状が砦に届いた。

 今度は私の妹、クラリッサからだった。

 薄く、香り立つ便箋。

 丸みを帯びた文字。


『お姉様へ。お久しぶりですね、お元気ですか?

 あれから色々と思うところがあって……。

 そろそろ、私たちも落ち着いて話をするべきだと思うの。

 一度だけでいいから会ってもらえないかしら?

 そうそう、殿下もお姉さまに会いたいと仰っていましたよ。

 辺境のさびれた土地、血に飢えた狂犬のもとで怯える生活にももう疲れたでしょう?

 もう一度、王都で華やかな生活を送ってみない?』


 便箋には、流麗な筆跡で丁寧な言葉が並んでいた。

 けれど読み進めるほどに、胸の奥に冷たいものが広がっていく。


 “あれから”とは何のことか。

 なぜ、落ち着くまでの時間が必要だったのか。

 どれも曖昧なまま、私に歩み寄れとだけ言っている。


 自分は何も悪くない、ただすれ違いがあっただけ。

 そんな空気が、行間に濃密に滲んでいた。


 言い訳すらしない。謝罪もない。

 ただ「姉妹だから分かり合えるはず」と、都合のいい幻想を押し付けてくる。

 あまつさえ、この都市やエルヴィン様を貶すような物言い。

 我慢が、ならない。


 私は大きくため息をついて、手紙を机に投げ捨て、湯を沸かしに立ち上がった。

 喉が渇いたわけでは無い。

 ただ何かをしていなければ、胸の奥に沈んだざらつきが浮かび上がってしまいそうだった。


 もう、あの子の言葉に乱されるような私ではないはずなのに。

 なのに、どうしてこんなにもやるせないのだろう。


 背後から足音が聞こえる。

 振り返れば、そこにはエルヴィンがいた。


「内容は、大方想像がつく。…………どうする。お前が行くと言うのなら、オレは止めない」


 彼はそれだけを訊ねた。

 私は頷く。


「返事は送りませんし、王都にも戻りません。必要なものは、もうこちらにありますから」


 そう言った私の声は、不思議と澄んでいた。


 その夜、久しぶりに眠りが浅かった。

 火の揺らぎを見つめながら、自分の内側に問いかける。


(あの頃の私は、ただ報われたかっただけなのかもしれない。でも今は……)


 毎朝、湯気の向こうに浮かぶ影。

 黙って隣に座り、何も言わずに紅茶を注いでくれるたくましい男性の姿。

 私は思う。


(誰かを愛することと、誰かのために身を削ることは、違う。

 そして私は今、ようやく後者を選ばなくていい場所にいる)




------




 春の兆しが辺境の空気を緩め始めた頃。

 砦の中庭に、咲き始めの花がちらほらと色を添えていた。

 ふと見れば、エルヴィンが庭の片隅にしゃがみ込んでいる。

 あの無骨な騎士団長が無言で土をいじっている姿は、少しだけおかしくて、とても愛おしかった。


「何をなさっているんですか?」


 声をかけた瞬間、彼はびくりと肩を揺らした。


「ッ……な、何でもない」


 土のついた手を背中に隠しながら、珍しく動揺した様子で立ち上がる。

 その背後には、いつも私の部屋に置かれている鉢植え。

 そこに植えられたばかりの、まだ蕾のままの花々が揺れていた。


「……それ、私に?」


 そう問うと、彼は顔を真っ赤にして視線を泳がせ、苦しげに眉をひそめる。

 返事はないけれど、その反応こそが答えだった。


(お花を……私のために?)


 その不器用な優しさが、胸の奥をそっと締めつける。

 荒削りなのに、どこまでも真っ直ぐで、ひどく愛おしい。


「エルヴィン様」


 私は彼の手をとった。

 土にまみれた、ごつごつとした手。

 けれどその温もりは、どんな宝石よりも尊く思えた。


「……汚いぞ」


「いいえ」


 私はかぶりを振り、その手をぎゅっと包み込むように握り直す。

 そして、彼の瞳をまっすぐ見つめた。


「いつも私のために、たくさんのことをしてくださって……本当にありがとうございます」


 そう言うと、彼は大きく目を見開いた。

 困惑したように、照れ隠しのように、ふいと視線を逸らす。


「……別に、お前のためではない」


 つれない言葉。

 けれど私はもう、その言葉の裏側に隠された優しさを知っている。

 そして今日は、その先があった。


「――お前のためじゃない。……オレのためだ」


 え? と、私は思わず小首を傾げる。

 彼はしばらく逡巡するように口を閉ざし、やがて静かに、しかし確かに言葉を紡いだ。


「お前が……笑ってくれると、嬉しい。お前が幸せだと、オレも幸せになる。

 だから全部、オレがオレ自身のためにやっているだけだ。……礼なんて、いらない」


 その瞬間、胸の奥に灯る熱が全身を包み込んだ。

 じんわりと広がって、涙が一粒、頬を伝う。


(こんなにも……愛おしい気持ちがあるなんて)


 言葉にならない感情がこみあげて、私はただ彼を見つめた。

 するとエルヴィンはそっと手を伸ばし、固い指先で私の涙をなぞる。

 そして少しだけ顔を近づけて囁いた。


「……あまりこういうのは得意じゃない。一度しか言わないから、よく聞け」


 どくん、と心臓が高鳴る。

 彼の瞳が私を真っ直ぐ射抜いていた。


「――お前を初めて見たとき、目を奪われた。

 今ではもう、お前が愛しくてたまらない」


 そして上着の内ポケットから、小さな木箱を取り出した。

 蓋を開けると、中には銀の指輪が一つ。

 飾り気はないけれど形は滑らかで、彼の性格をそのまま写したようなものだった。


「一生、オレの傍に居てくれ」


 まっすぐで、不器用で、誠実な願いだった。

 私は、そっと指輪を手に取る。

 その重みは、どんな宝石よりも確かなものだった。


「ええ……喜んで」


 風が吹き抜ける。

 中庭に、春の匂いが漂った。




 その後まもなく、王子と妹の正式な処分が下った。

 王子は地位を追われ、王城の地下牢に幽閉されたという。

 妹は王宮からも実家からも追い出され、遠方の修道院で慎ましやかな生活を送っているとか。

 噂話のように、砦の兵士たちが笑っていた。


「ざまぁみろ」と。


 私はその言葉に、ただ静かに微笑む。

 復讐も怒りも、今はもう何も湧かなかった。

 私はもう、“必要とされる自分”ではなく、“思い描くままの自分”として生きていける。


 今日も、愛する人が淹れてくれたお茶の香りに包まれて、幸せな一日が始まる。


 私を捨てた元王子?

 婚約者を奪った妹?


 ――ああ、そういえば。


 そんな人たちも、いましたね。

最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。

ご意見ご感想、心よりお待ちしております。


現在、異世界恋愛の長編小説を連載中です。

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タイトル:黒の令嬢、魔法騎士を目指す~魔法色判定『黒』で家の恥だと言われたので、飛び出して自分の力で生きていくことにしました~



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― 新着の感想 ―
国の政務を混乱させたハニトラ妹の罰にしては軽いですね。 修道院は寄付金がなければ入れませんから、実家から見捨てられたと言いつつしっかり庇護されている訳で。 しかしながら、馬鹿王子は頭が悪いレベルを越…
無骨で不器用な旦那様。 きっと王都からこんな綺麗な嫁が来てくれて、どうしたらいいのか分からないのよね。 なに話したらいいのか分からんし、触ったら壊しちゃいそうだし。 でも大切で愛おしい。 とても良い旦…
いやぁ、エルヴィンかっこいいですねー。背中で語るって中々できないです。寡黙だけど必要な事はきちんと言う、態度に表す。ちょっとゼスティアちゃん、良い男じゃない!(関西のおばちゃん風に) 私もこの2人恋愛…
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