I 平民になってやり過ごしたい!
「おい、聞いたか? 王太子が婚約を破棄したんだって!」
「知ってる知ってる!」
「貴族が考えることはわからねぇよな!」
大ジョッキを片手にガハハと笑う坑夫達を横目で見ながら、私は注文された肉野菜炒めをテーブルに置きます。ここは辺境の大衆酒場。私は追加の注文をメモしていますが、気になるのは勝手に耳に入ってくる彼等の話題です。
「でも、それよりもやっぱアレだよなぁ」
「そうそう。フラミンゴだよな」
「正直王太子よりもそっちの方が気になる」
(あぁ〜〜〜〜!!!!)
あの王太子婚約破棄事件は次の日には国内の瓦版という瓦版で取り上げられました。しかし、一面ではなく、なんと二面扱い! その理由は、次代の有能しごでき官僚として国民から期待と畏怖の目で見られている通称氷の参謀殿の珍事が一面に取り上げられたからなのでした。一番大きな文字で”フラミンゴ柄”と書かれた瓦版に皆が熱狂しています。あれから一週間が経った今でもというのですから、その影響力は計り知れません。
「おい、続報で絵姿が出てるぞ」
「なんだって!?」
「なんでも卒業パーティーに参加していた令嬢Bの記憶から記者が描きおこしたんだって」
「肝がすわってるなぁ」
(誰ですかその破廉恥令嬢は!)
私は空いているジョッキを片付けながら横目でその絵姿をチラ見します。
(ちょっと違いますね)
彼のフラミンゴ柄のパンツは総柄ではありますが、ポーズがきちんと一羽一羽異なるセレブリティしか感じないものでした。しかし、そのことを知っているのは私くらいでしょう。私程彼の姿を間近で見た者は居ないのですから。
「しっかし、婚約破棄みたいなシリアスな場面で人のズボンを下げるたぁ、一番肝がすわってんのはこの令嬢Aかもしれねぇなぁ」
「誰なんだろうなぁ、令嬢A」
「あっはっはっは」
(はっはっは……はは……)
私ですよ。あなた方の目の前で酒瓶を片付けている私です。
*
《お父様、娘は急な病で死にました。不出来な娘をお許しください》
あのパーティーの後。混乱に乗じて逃げ帰った辺境で、私は真っ先に自らの死亡宣言をしました。もう社交界には、いえ、貴族として存在することすら許されないと思ったからです。
(昔からドジばかりで本当に駄目な私)
人の役になんて立ったことがありません。
(何人もの邪魔者を裏で処刑してきたと噂される氷の参謀のパンツを世の中にお披露目令嬢に待つ運命はーー死!)
私は表向きには自分探しの旅に出たことにして貰いました。本当のところはこの古びた宿屋でバイトをしています。絶対に正体がバレないように髪を切って、髪色も黒染めし、ベッドメイキングなどの裏方作業をする役をしていたのでした。今日はたまたま人手が足らないとのことで、宿屋の一階にある酒場でウェイトレスをしていたのですが、こう、なかなかうまくいきません。
「おい、ねーちゃん。それ俺まだ飲んでるんだけど」
「す、すみません!」
今、声を掛けられたのはとてもガラの悪い集団の方々でした。どうやら私が片付けようと手にしたグラスには二cmほどまだお酒が残っていたようです。しかし、うっかり。本当にうっかり。グラスを戻そうとしたところ、うっかり足元の段差に躓いてグラスを投げてしまったのです。そしてグラスはまだ容量のある酒瓶――しかもビールにピタゴラスイッチし、フィナーレの旗がわりにテーブルから皆さんのズボンにシミを作りました。
(私ったら、本当にドジ!)
「あぁん? 舐めてんのか?」
「ひぇぇ……お許しを」
黄色い液体でズボンを濡らした人達が私を取り囲みます。乱暴に私の手を取られまさに絶体絶命!
(さようなら私のバイト代!)
私が両の手を合わせて店長に向かって祈ったそのとき、店長ではない人が私を庇うように目の前に立ちました。
「彼女の手を離して貰おう」
威厳のある冷たい声。フードを被って背を向けているので、顔はわかりませんが、おそらく同世代の男の人でしょう。彼が何かを男の一人に囁くと、男達はお代を置いてそそくさと帰って行きました。
取り残されたのは私と彼だけ。彼は私を彼が飲んでいたらしい隅の席に呼ぶとフードを脱ぎました。
彫刻のような端正な顔。アッシュグレーの髪に細くて鋭い目をして、その表情は堅くニコリともしていません。見覚えがあるような、ないような。
「一週間ぶりだな。君はいつもこんなことをやっているのか」
私は首を傾げます。
「あの、誰でしたっけ?」
目の前の彼は一瞬固まります。
「まさかとは思うが、君は私のことを忘れてはいないか?」
「生憎”俺のことを忘れたのか?”っていう重たい元カレみたいな方とはご縁がなく……」
「誰が元カレだ」
こうならわかるだろう、と彼が装着したのは黒縁眼鏡でした。私はそのトレードマークで閃きます。
「フラミンゴ柄のトランク……」
「それ以上言ったら二度と喋れないようにする」
一瞬、吹雪が起きたかと思いました。ここは店内、しかも春なのにゾッとする寒さを感じました。彼の周りに気配もなく立っていた人達が急に私を取り囲みます。
「え……? あの……?」
「ウルド=フロレンス、ついてきてもらう」