31.あなた、おさめる
神霊国内での政争はどうやらバエンデル宰相に軍配が上がったようであった。
異教徒と停戦となった結果、軍隊の影響力は低下した。
宰相は巧みに自身が主導した停戦協定を喧伝し、まるで先の戦争において筆頭の功を上げたように振舞った。
これには武官からの激しい反発があったが、彼らの主だった者たちは都から離れた敵との睨み合いの最前線へと飛ばされていた。
そして、やはり決定的であったのは、彼がヒビセイシュを押さえていたことにあった。
異教徒相手からの初めての領土の奪還により、彼女は救世主と各国で称えられ、その影響力は全ての国家を合わせたものを優に凌駕すると言われていた。
彼女の言葉は法や道徳を飛び越えて正であり、それに抗する者は信仰を共にする全てを敵に回すことになった。
例えばある国の王が彼女を非難したとすれば、その瞬間に彼は自国の貴族と軍と民衆から玉座より引きずり降ろされることになるだろう。
そんな彼女へと続く扉の鍵を握っているのが宰相であり、そのことによる有形無形の影響力の増大もまた甚だしいものであった。
バエンデル宰相はヒビセイシュという最強の御旗を掲げ次々と政敵を倒し神霊国の中心に居座ることになったのである。
ヒビセイシュに宰相から宴の招待状が届いたのは、そのようにして彼が地位を確固とした直後のことであった。
その宴は宰相の屋敷で行われる盛大なものであったが、普段と違い、どこか弛緩した雰囲気があった。
隙を見せれば刺されるのが政界の常であり、例え酒に興じるといえどもどこかしんと冷えた緊張が漂っていたが、此度の参加者は皆が皆、リラックスをした顔をしている。
この時、ヒビセイシュは一人で訪れていた。
本当はいつものフードを被った従者を連れていきたかったが、宰相からの招待状には従者の名はなく、また従者も自分には相応しくない場であると頑なに固辞したためだ。
それでもヒビセイシュが求めれば最終的に従者は拒むことはしないだろうが、よくよく考えるとをこの場に連れてきても、従者は楽しめないどころか、辛い思いをするかもしれないと思い直したということもある。
バエンデル宰相の屋敷は大量のゲを抱えることで有名であったのだ。
あの子がその屋敷を訪れて何を思うか、またもてなす側の者たちが彼女をどのように見るのか。
ヒビセイシュとしても彼女が傷つく姿は見たくはなかった。
「聖公主様、このような場所へよくぞ起こしてくださいました」
「宰相、安定したようですね」
「……何を仰っているのか、私なぞには及ばぬことでございます。
しかし、これよりは不審な死などは少なくなるでしょう」
「それはよいことです。民のために、あなたの力を十全に発揮してください」
丸とした宰相の顔は笑みを作るとチリ紙をくしゃりとしたようなものになる。
ヒビセイシュは知っていた。
バエンデル宰相は政争を通じて自身の所領を倍以上に広げ、そこより選りすぐりの美女たちを絶え間なく妾として徴収していた。
また大量の奴隷を買い上げ自身の所領の荘園や鉱山にて酷使していた。
賄賂を歓迎し、私腹を肥やすことを憚らずして、自身および派閥の罪を揉み消すことは日常茶飯事であった。
この時の宴は贅を凝らしたもので、金箔が肉に散りばめられ、参加者はこの日のために遠く西北の国から輸入されたという特別に艶やかな椅子に腰を降ろし、次々と現れる吟遊詩人や踊り子に興じた。
その中で、ある劇団長が彼ら一団の劇が終了するや、ふいに宰相の前に跪いた。
それに各々好きに談笑していた参加者たちは驚いて彼に視線を集めた。
劇団長は頭を垂れたまま口を開いた。
「これまでは無法の者らが勝手気ままに盗みや殺しを働いており、私どものような街から街への旅が基本の生業とする者たちにとって、非常に暗い時代でした。
私たちも多くの資産と仲間を失ってきました。私も、妻と子供を失くしました。兵役逃れの盗賊たちがあちこちに潜み、彼らによって略奪されつくした村々も多く見てきました。
しかし、宰相様が軍を国内の治安の回復のために動かしてくださり、状態は回復してきております。
無礼は承知でございますが、名もなき民の一人として、宰相様に感謝を捧げます」
彼は涙ながらにそう語り、宰相を褒めたたえた。
宴の席はしんと静まり返った。
参加者の中には目に涙を溜めて、それを隠すように酒を口に運んでいる者らもいた。
宰相は劇団長の言葉に応えるように笑みを作りながら、何度も頷いていた。
その時の笑みはとても自然なものに見えた。
ヒビセイシュは知っていた。
バエンデル宰相は反戦派の筆頭であった。
彼はまず戦によって荒廃した土地と人心の回復を優先しようとしていた。
それは神霊国だけでなく、同一の主の信仰の元に異教徒と戦い続けた全ての国に対してである。
未曽有の兵の大動員とそれに伴う兵站の確保、そしてそれにも関わらず負け続け土地を失い続けたことの、最終的なしわ寄せが無辜の民に及んでいることを彼は理解していた。
悲劇と怨嗟が世界に満ちている。
自己の信仰を清きを宣言するように異教徒の打倒を叫び兵をかき集めることは、何の非難も受けず、ただ賞賛を浴びるだけであるが、その結果がいま状態である。
誰かが現実的な決断をせねばならない。真の意味において民のために働く者が必要であった。
宰相は黒い噂が耐えず、事実として権力欲に憑かれ私腹を肥やすことに情熱を燃やす人間であるが、その一方で民を思い国の復興を願う気持ちがあることをも事実であった。
誰よりも打算的であるからこそ、彼は国を復興し富ますことの利益を、無用な信仰や矜持をなしに考えることできていたともいえる。
宰相が政を取り仕切るようになって、長きに渡った戦乱にて疲弊しきっていた民は一息つけるようになったのである。
宴の盛り上がりが高まったころ、特別な酒が配られた。
フパリエ神聖国から特別に贈与された葡萄酒である。
彼の国は葡萄の産地として有名であるが、その中でも特別な製法で作られたものだという。
出席者全員のグラスに濃い赤紫色の酒が注がれたあと、宰相は立ち上がり、杯を高々と上げた。
宰相がヒビセイシュに顔を向けたので、合わせるように杯を上げた。
すると、他の参加者もみな杯を上げる。
その光景は、戦場で勝どきを上げる時に似ていた。
違うのは掲げるのが血と泥がついた武器ではないということだけ。
政争という戦いの勝利者たちがここに集まっているのだ。
宰相が乾杯の音頭を取ると、杯と杯がかち合う金属音が響いた。
そしてまさしく勝利の美酒ともいうべき葡萄酒を全員が一口に飲んだ。
凄惨な光景が現れたのはその数秒後であった。
突如として、口から葡萄酒が混じった血を吹きだした。
誰かではなく、全員が、である。
次々と杯が地に落ちる音が響いた。
普段は高貴な身として所作の節々に優雅を宿していた者らが、滑稽なほどに転げまわり、のたうちまわっている。
その中には彼らの長たるバエンデル宰相もいた。
皆と同様に葡萄酒を飲んだヒビセイシュは口を押えて固まっていた。
甘美の味の裏側に、悪意に満ち満ちた猛毒が仕込まれていた。
ヒビセイシュの肉体は聖霊魔法という神の奇跡によって守られている。
聖霊魔法によりあらゆる怪我や病気とは無縁であり、そこいらの毒であれば体内に入った瞬間に難なく無毒化されるのであるが、葡萄酒に仕込まれたものは人を殺して余りある猛毒であった。
彼女は体温が急激に低下する感覚を持ち、まるで全身が岩となったかのように硬直した。
だが、それも数秒のことであった。神の奇跡にて治せぬ病はない。
暫くすると体の奥の奥より暖かい光のようなもの溢れ出て、毒に犯された肉体を優しく包んでゆく。
温かみが全身に行き渡ると、体の硬直も溶け、ぎこちなさが残るものの全身を動かすことができるようになった。
そうして改めて周囲を見渡す。
そこは悪魔の饗宴もかくやというべき凄惨さであり、豪勢な食事は皿ごと床に叩き落とされ、床やテーブルには血がこびり付いている。
そして、瀕死の貴族たちがそこら中に転がっている。
その時、屋敷を駆ける複数の足音が聞こえた。
扉を乱暴に空ける音がしたかと思うと、鎧を着こみ剣を抜いた兵らが押し寄せてきた。
その先頭にいるのは――マレセレ将軍である。
「天誅である!」
バエンデル宰相との政争に破れ都より左遷される形で前線に送られたはずの彼は、険しい表情でまだ辛うじて生きている貴族たちの息の根を止めるように部下に命じた。
彼は呆然としているヒビセイシュの元まで歩を進めると、片膝をつき、彼女に忠誠を示した。
「僭越でございますが、お迎えに、いえ、お救いに参りました」
「――これは、将軍が、されたのですか?」
「左様でございます。聖公主様が囚われの身となって以降、我らは幾度も救出を試みましたが、全て失敗となっておりました。今日、この時まで」
そう話しているうちにもヒビセイシュの肉体は癒されていっているが、未だに毒が肉体を痛めつけている。
顔が青白く全身から汗が吹き出ているその様子を見て、将軍は彼女が現在どういう状態にあるのかを理解したようであった。
「誠に申し訳ございません。聖公主様にも害を及ぶ可能性が高いことも理解しておりましたが、貴方様の主の奇跡の加護を頼りに危険を冒したものでございます」
周りでは兵たちが無慈悲に次々と苦しむ貴族を殺している。
「私のことはどうでもいいです。なぜ、このようなことを……なぜ、宰相らを殺さねばならなかったのですか」
「何を仰るのですが、彼奴は戦場にて命を賭して戦った戦士たちを冷遇し、己が権勢のために我らの地を占領している異教徒に妥協を……」
将軍はそこで口をつぐんだ。彼らが聖公主と崇めている女より冷ややかな目を向けられていることに気付いたからである。
「……」
ヒビセイシュは将軍に何も言わなかった。
ただ、じっと見つめるだけであった。
しかしそれだけで効果は覿面であった。彼は自身のしたことがヒビセイシュの怒りに触れたことに気づいたのである。
将軍の顔が青ざめた。その視線は彼女の瞳から逃げるように慌ただしく左右に振れた。
質の悪い悪戯が母にばれた時の子供のようであった。
うら若き聖女は叱るように厳しい目を向け、壮年の戦士は少年のように狼狽えている。
やがて絞り出すように将軍は口を開いた。
「申し訳、ございませんでした」
それは普段の自信に満ちた表情からは想像もつかないほどに憔悴した声色であった。
ヒビセイシュは将軍の哀れな顔を見て、さぁぁと怒りが静まってゆくのを感じだ。
その代わりに目の前の哀れな男への憐憫とも同情とも思える感情が沸き上がり、やがて非常に愛おしいと思うようになった。
彼もまた信仰の正義を貫こうとしたのであり、その在り方は彼女の愛する民の一人に他ならない。
「過ぎたことは仕方ない、と考えるしかありませんね。
あなたの成したことは賛同できませんが、その行為の中にあった純粋な心は私に届きました」
ため息を一つ付いた後、ヒビセイシュは将軍の心を癒すように和らいだ声を投げかけた。
ほっとする将軍の顔を見て、だが、改めて厳しく命じる。
「しかし、バエンデル宰相を賊とすることは許しません。
彼もまた民のために働いた者です。名誉を汚すことなく礼儀を持って葬儀を執り行ってください」
「――はい。しかと承知いたしました」
ヒビセイシュは再度を凄惨な周囲を見渡し、跪いて天に祈りを捧げた。
将軍はそれを呆然と眺めていた。
こうして政変が起こり、バエンデル宰相は死に、マレセレ将軍が実権を握ることになった。
表向きは宰相の死は不慮の事故として扱われたが、彼の派閥の中心にいた者らも同時に亡くなっており、将軍がクーデータを起こしたことは公然の秘密となった。
だが、誰も公の場にてそれを糾弾する者はいなかった。
民は聖公主たるヒビセイシュが黙して何も語らないことに彼女の意志を感じ、この権力の交代を受け入れたのであった。
マレセレ将軍は宰相の葬式を終えると、檄を各国に飛ばし、異教徒との停戦の破棄を宣言した。
ヒビセイシュを総大将として将軍も出兵し、生存を駆けた熾烈な殺し合いが再び始まった。
この時より将軍は常に最前線に身を置き、時には先頭に立って敵陣に突撃を駆けた。
その在り様はまるで何かに憑かれたような狂気すら伴っており、その勇猛さに敵にも名が響き渡ったという。
そしてある戦場にて敵に取り囲まれた味方の一軍を救うために将軍は少数の部隊で突撃し、己が命と引き換えに味方を救うことに成功した。
こうしてマレセレ将軍は名誉の死を遂げ、聖ヒビセイシュを補佐した英傑の一人として歴史に名を残すことになったのである。
ヒビセイシュはその後も異教徒との戦争を続け、遂に魔境の森の外へ彼らを追い返すことに成功した。
天は彼女の功績を称え、彼女は史上初めて、存命時において列聖され天使となり、天上へ昇ることを許可された。
即ち、地の生を終え、天界の住人としての新しい生のために、昇天したのである。
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