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葵夜叉短編集

長月ノ巻 桔梗夜叉

作者: 藤波真夏

長月ノ巻執筆者:藤波真夏

 青名媛、薨卒す。

 一人の男性が文章にそう綴った。薨卒は、高貴な身分の人間が逝去することを指す言葉だ。男性はその一文を書き終わると肩を震わせて泣いていた。そして男性は思い出していた。逝去した、青名媛あおなひめとの最期のやりとりを。

 時は遡って青名媛が逝去する数日前。

 青名媛は病を患い、床に伏していた。すると、そこへ一人の男性が現れた。男性は青名媛の枕元へ座る。何も言わずに見守っていると、青名媛がゆっくりと目を開けた。

「…そこにいるのは、誰じゃ?」

「…青名大媛あおなおおひめ様」

「…懐かしい声じゃ。…佐為さいか?」

「…そうです。青名大媛様」

 青名媛の枕元にやってきたのは、エリート貴族・橘家当主の橘佐為たちばなのさいだ。彼は青名媛に仕えた優秀な部下で、青名媛が絶対的な信頼を寄せる人物だった。

 佐為は青名媛の手を握った。佐為は目に涙を浮かべていた。この涙の意味は、彼が青名媛に抱く想いが関係している。実は、青名媛は若い頃、佐為と恋仲であった。それは身分違いの禁断の恋で、決して許されるものではなかった。

 そんな青名媛を人々はこう言った。「美しき夜叉」と。

 命が尽きる最期の時、青名媛は佐為に話していく。懐かしい思い出話を。





 四十年以上前のこと。

 宮の中を若い女性が歩いていた。彼女が歩いていると宮にいる全員が順番ずつにペコペコと頭を下げ始めた。

「青名媛様! どちらへ!」

「町へ!」

 青い装束を身にまとい、髪の毛を一つに結び、硝子細工の髪飾りを揺らす女性。彼女こそ、青名媛である。青名媛は現在都を統治する女帝を母に持つ、王族の人間である。彼女は幼い頃から聡明で美しい容姿を持つ、人々に愛されるお姫様だった。

 青名媛の母は、身分を隠して町へ繰り出す娘を心配しつつも自由にさせようと黙認していた。青名媛はいつものように町へ出ていた。

 町は賑やかで人々は生活を営んでいた。争いはぱったりと収まり、今は平和な時代が訪れている。

 青名媛はいつものように町を歩いているが、少し路地裏に入れば、貧困層の現実が見られる。親を亡くした孤児などが多い。そんな状況に青名媛は胸を痛めていた。青名媛が町に繰り出す目的として、そんな貧困層の孤児たちに食べ物を与えたりという慈善活動をしていた。しかし、青名媛が活動したところで変わらない。根本から変えなくてはいけない、と思うようになっていた。

 町の貧しい人々は青名媛を女神のように敬い、手を合わせて感謝していたのだった。

 青名媛はこの国を良くしたいと思っている。しかし、彼女は王にはなれない。

 実は、母である女帝も本来は王になる予定はなかった。王位継承を継ぐはずの夫が亡くなり、次を継ぐ男児が幼かった為、成長するまでの間の中継ぎとして王になったのだ。女帝が引退する頃には、その男児も成長して王位を継ぐことができるので、青名媛には継承することはない。

 青名媛はため息を吐きながら宮へと戻っていった。

 すると、青名媛の名前を呼ぶ声がして振り返る。そこには初老の男性と、その一歩後ろに若い男性が控えていた。青名媛が近づくと、初老の男性が話し始める。

「御足をお止めしてしまい、申し訳ありません」

「橘様ではありませんか」

「はい。実は、我が息子がこの度出仕することになりまして、是非青名媛様にご挨拶をと…。我が息子の橘佐為たちばなのさいです」

「青名媛様。お初にお目にかかります、橘佐為でございます」

「佐為か…。私よりも母上をお支えできるようになってください。私は遊びほうけているだけですから」

 青名媛は佐為に頭をさげると急いでいなくなってしまった。橘氏は相変わらずだなあ、と微笑ましく走り去る青名媛を見ていた。佐為は橘氏にあの方が王族の娘であるのか疑わしくなり言った。

 すると、橘氏は笑う。青名媛は確かに言動が媛らしからぬ部分がある。しかし、青名媛は誰よりも慈悲深く、世間を知ろうとする意欲、そして何より聡明で美しい。青名媛にはそんな魅力がある。青名媛はそろそろ年頃で結婚を考える時期でもある。

 青名媛のような聡明で美しい女性を妻に持てれば、将来は安泰だろうと囁かれている。

 佐為は青名媛の顔を思い出していた。名前の通り、青い衣の装束が似合う魅力的な女性であった。佐為は、橘氏に言った。

「父上。一度、謁見をしてじっくりお話を聞いてみたいです」

「ん? それは、陛下のほうか?」

「いいえ。その娘の…、聡明な青名媛様ですよ」

 佐為は静かに笑った。





 佐為は出仕を始めてすぐに頭角を現した。数々の才能あふれる人材を輩出してきた名家と名高い橘家の名に恥じない働きぶりだった。橘家のエリートとして女帝を支え続け、橘佐為の名前は宮に知れ渡り始めた。

 女帝はその働きぶりに感銘を受け、感謝を述べた。そこで女帝に佐為は娘である青名媛に謁見したいという願いをした。女帝は快く受け入れ、後日青名媛と正式に謁見を許された。

「青名媛様。お久しぶりでございます、橘佐為でございます。この度は、こちらの申し出にも関わらずお許しくださり誠にありがとうございます」

「…なぜ私に会いたいと? 私よりも母を支えてあげてください」

「ご自身のことより、お母上を優先するのですね。さすが、聡明な青名媛様です」

 佐為はゆっくり顔をあげた。父の橘氏が言っていた通り、青名媛は顔立ちの整った美しい顔をしていた。そして自分のよりも他人を優先する綺麗な心の表れではないか、と佐為は思う。

 佐為は青名媛について知りたくて、彼女の生い立ちを調べていた。

 青名媛は現女帝の娘で、父親とは死別。子供の頃から王位継承者候補として、様々なことを叩き込まれた。もし、男児が生まれなければ、彼女が女帝に君臨していたかもしれない、そして、どこの記録でも青名媛の内面的な評価は高い。

 真面目で慈悲深く、聡明。そして、誰もが振り向く美人。完璧な要素ばかりを持つ青名媛ではあるが、母である女帝は佐為に青名媛に関することを言っていた。

 青名媛は時折都へ繰り出している。媛らしからぬ行動に少し頭を抱えていたが、今では知見を広げるという意味で大目に見ている。しかし、これでは嫁の貰い手がなくなるから困ってしまう、と。

 だったら、橘家の若者である橘佐為に降嫁させてもいいかもしれない、と女帝は笑顔で言ったが、佐為は笑いながらそれは恐れ多いと流した。女帝は、佐為の働きぶりを評価しており、あながち冗談ではないと佐為に言った。

 そんなことを思い出しながら、佐為は青名媛と対峙している。

「青名媛様」

「?」

「私、橘佐為は青名媛様にお仕えするよう仰せつかりましたことをご報告します」

「え? 佐為、何を馬鹿げたことを…」

 青名媛は驚いた。佐為は事の経緯を話す。女帝は青名媛の行く末を案じていた。青名媛には仕える人間がいない。青名媛ほど聡明であれば、お仕えしたいと切望する人間もいたかもしれない。しかし、それは青名媛が聡明ゆえその切望を断っているからだ。

 さらに、彼女が美人ゆえに高嶺の花のような存在になってしまっているという。そこで、青名媛より二つ年下で年齢も近く、名家・橘家である佐為に女帝は白羽の矢を立てた。

 つまり、佐為が青名媛に仕えるのは、母である女帝の命令であった。その命令を佐為は受け入れた。しかし、納得がいかないのは青名媛である。よりによって、橘家のエリートを自分の部下としてつけるなど納得がいかない。

「佐為。あなた、納得しているの? 仮にもあなたは名家・橘家嫡男で将来有望視されている。そんな人間が、なぜ私に仕えるのか?」

「青名媛様。お母上様である女帝は、あなたのことを一番心配しておいででした。私めの力が必要と女帝自ら頭を下げたのでございます。私は納得の上で申し上げています」

「母上…! どうして…!」

 青名媛は女帝に怒りを覚えた。しかし、女帝が決めた事を反故するわけにはいかない。青名媛は渋々納得する形になった。

 聡明で美しい青名媛。エリート貴族の橘佐為。二人はこうして、出会いを果たしたのだった。しかしこの後、二人は禁断の関係へ進んで行く。

 青名媛が「美しき夜叉」と呼ばれる数ヶ月前の話だった。





 佐為が青名媛に仕え始めてから数ヶ月が経過した。青名媛も最初は渋々承諾したようだったが、時間の経過と共に佐為のことを認め始めた。宮でも一緒に行動することが多くなり、多くの貴族達の目に触れることになった。

 佐為は青名媛が町へ繰り出す時も同行し、彼自身の知見を広がるきっかけとなった。最初こそ主従関係があったものの、それを考慮した上で距離は近くなっていった。まるで、親友のような間柄だ。

 青名媛は佐為に対して、佐為も青名媛に対して特別な感情を抱いていた。それは、信頼関係から構築される親愛か、はたまたそれ以上の恋情か。それはまだ誰も知らない。

 そんなある日のことだった。青名媛は母である女帝に呼び出された。女帝は年齢を重ね、病に伏せるようになっていた。しかし、病床の中でも政務を行っている。早く、青名媛の甥にあたる男児・阿古あこに王位を譲るべきである。

 しかし、女帝はそれを反対した。青名媛は女帝が言わんとしていることは分かる。阿古は王位を継ぐにはまだ幼すぎる。官僚達の独裁を防ぐためにも、まだ王位を譲るわけにはいかなかった。

 女帝は青名媛に言った。

「私はあなたに王位を譲る」

「え? 何を言っているんですか…? 私が王位を継ぐ?! 戯言を言わないでください!」

「戯言ではない。私はあなたの技量を見込んで言っている。あなたは都へ出て知見を広げている。今、この都で何が必要なのか、民達が平和に豊かに暮らすにはどうしたらいいか? それを青名、あなたなら分かるはず」

 青名媛を次期王位へ指名した。しかし、突然のことで青名媛は思考が追いつかない。自分には関係ないと思っていた王位継承。青名媛は王位継承など難しい、他の王族から探すべきだと主張して承諾しない。

 すると女帝は青名媛の後ろに控えている佐為に意見を求めた。青名媛は何故佐為に話を振るのか聞いた。すると、女帝は佐為は青名媛をそばで一番見てきた人間であり、佐為ほどの天才であれば、青名媛が王位にふさわしいか見分けることなど容易いと話した。

「佐為。あなたはどう思いますか? 忖度せず、あなた自身の意見を聞かせて欲しい」

「私は、青名様こそ、女帝の跡を継ぐに相応しい方だと思います。私はずっと青名様にお仕えして参りました。青名様は民からも人気があり、聡明で人望も厚い方です。民たちは青名様のことを尊敬しております」

 佐為はそう言った。それを聞いた女帝は静かに頷いた。

 女帝はお前の一番信頼する佐為はそう言っているぞ、と青名媛を見て言った。青名媛はそれでも承諾は出来かねる、と言った。青名媛は我慢できなくなり、女帝の部屋から出て行ってしまった。

 佐為は俯いてしまった。女帝は佐為に話しかけた。

「佐為。我儘なあの子を許してください。あの子、あんまり反抗する子ではなかったのだけど…、私が自由にさせすぎたせいだわ。佐為、あの子の我儘に嫌気が差したら、外れてもいいのですよ?」

「女帝。それは愚問です。私は青名様のことを我儘などと思ってはいません。青名様の反応は相応のものです。もし自分が同じ立場なら、同じように女帝に反抗することでしょう。私は、青名様に仕えて分かりました。あの方は、自由に生きたからこそ聡明で美しい、まるで桔梗の花のように凛としているのではないかって思うのです。もし、青名様が女帝の跡を継いで、新たな女帝となった暁には…私も側近として仕えとうございます」

 佐為はそう言い切った。

 女帝は静かに弱々しく笑った。女帝は母として青名媛に何もしてあげられなかったことを後悔していた。女帝も王位につくことなど想像すらしていなかったからだ。だからこそ、せめてものとして、青名媛がのびのびと自由にできるように計ったのだった。

 女帝は佐為に、もし何かあれば青名媛のことを頼むと言った。自分が亡くなれば、青名媛は天涯孤独となる。そうならないように佐為だけは青名媛を支えてほしいと言った。佐為は、頭を下げて御意のままにと言った。

 女帝の部屋を後にした佐為は、青名媛の元へやってきた。

「青名様。橘です」

「…何?」

「…怒っておいでですか? 私があのような進言をしたこと。しかし、私は後悔などしておりません。青名様こそ、王位を継ぐに相応しい。そう思ったまでのこと」

 佐為は言い切った。すると青名媛がトボトボと佐為に近づく。すると青名媛は俯いたまま、佐為の手を取り、その手を自分の頬に寄せた。熱すぎるくらいのぬくもりを感じる。今まで見てきた青名媛ではない。いつもならこんなことはしない。不安になって、恐怖に打ちひしがれた時に起こす、青名媛の弱った姿だ。

 青名媛の手は震えていた。佐為はあの聡明で美しい完璧人間のような青名媛が、か弱い女の姿を見せているところを見て、自らが抱いていた特別な感情の正体に気づき始めた。信頼関係から構築される親愛か、はたまたそれ以上の恋情か…。この震える手を包み込んであげたい。恐怖を拭ってあげたい。できることならば、彼女を奪い去ってしまいたい。

 佐為ほどの天才でも感情の正体に気づかなかった。しかし、ようやく気づいた。

 これは、恋情だ。

 佐為は青名媛の肩を抱いて、胸の中に閉じ込めた。青名媛は今すぐ離れようとするが、佐為がそれを許そうとしない。しかし、青名媛も佐為と前からこうしたかったような気がしていた。

「青名様。どうか…あなたに特別な感情を抱いてしまったこと…このような無礼をどうぞお許しください。しかし…私は、青名様のことをお慕いしています。一人の女性として…」

「佐為…。私は…どうしてこんなにも…あなたを求めてしまうの? あんなに部下はいらないと言っていたのに…、今は別の仕事でいない時は心細く、早く帰って来ないかと心待ちにして、そわそわしてしまう…。私をこんな風にしたのは…お前のせいだ、佐為。どうしてくれる?!」

「青名様。であれば…今夜は語らいましょう。私はずっと、あなたのそばにいます」

 佐為は青名媛を組み敷いて、装束に手をかける。白い襦袢が顔を見せて、佐為の心臓は高鳴る。青名媛も佐為に全てを暴かれると顔を腕で隠す。顔は熱く、佐為の指が青名媛の体をつつつと滑らせた。

 何かが込み上がってくるような気がして青名媛は身をよじった。そして、ついに佐為は青名媛の姿を見た。まるで雪のように真っ白な肌。さすが、美人と名高い青名媛である。佐為は青名媛の体に純潔を奪う痕跡を残し、青名媛は小さな囀りをあげた。

 その声は、佐為を欲情させ、佐為の愛撫は激しさを増していく。

 佐為は思い出していた。女帝から、青名媛の結婚相手候補にしてもいいかもしれないと言われた時はあの時は流していた。しかし、今では本気で愛する青名媛の夫になりたいと心の底で思った。彼女が女帝の血を引く人間以前に、彼女を愛しているからだ。

「青名様…。どうか…私の…妻に…!」

「佐為。私はたとえ、王族から絶縁されても…あなたのそばにいたい…。佐為、愛しているわ」

 佐為と青名媛は深い逢瀬を重ねた。それは、媛と貴族の禁断の恋。しかも、青名媛は王位継承候補でもある。しかし、青名媛は王になるよりも愛しい佐為のところへ降嫁してでも一緒になりたいと、佐為に抱かれながら思ったのだった。





 青名媛と佐為はこうして秘密の恋人になった。距離が縮まり、青名媛はより仕事に精を出すようになり、佐為も同じように仕事に邁進するようになった。青名媛が町へ出る時は常についていき、青名媛の優秀な部下を演じている。そして、人気のない裏路地があれば、連れ出して小さな逢瀬を重ねていた。

 王族の窮屈な生活があまり好きではないと感じていた青名媛にとって、佐為は世界を明るく照らす希望の光だった。そして佐為も、青名媛は一生守り、仕え、そして愛する。それだけを思っていた。

 夜になれば人知れず逢瀬を重ねる日々。それが二人にとっての幸せだった。

 しかし、青名媛の母の女帝が病で逝去すると青名媛は悲しみに打ちのめされた。佐為はそんな青名媛をそばで支え続けた。佐為は生前の女帝の言葉を思い出した。


 もし何かあれば青名媛のことを頼む。私が死ねば、あの子は天涯孤独になってしまう。そうならないように佐為だけは青名媛を支え、味方であり続けて欲しい。


 佐為は女帝の遺言とも云うべき言葉を胸に、青名媛を支えた。女帝が逝去し、王不在となった。青名媛の甥である阿古がまだ政治を任せるには不安があった。阿古が成長するまでの間、別の人物を王に立てる必要があった。

 貴族たちの白羽の矢は女帝の忘れ形見・青名媛に向けられた。しかし、青名媛はそれを良しとしなかった。青名媛は言われるたびに拒み続けたが、貴族たちの猛攻は止まらない。

 そしてついに、青名媛と佐為の禁断の関係が貴族たちの間でささやかれ始めた。青名媛が王にならないのを承諾しないのは、橘佐為と恋愛関係にあり、王になれば純潔を強要されてしまうためだと。

 貴族たちは青名媛を誑かしたとして、佐為のことを「夜叉」と蔑んだ。

 夜叉。それは古より伝えられる人の血肉を喰らう、化け物。この国では、道ならぬ恋や悲恋、そして禁断の恋愛関係に陥ると、人は夜叉となるという話が伝わっている。まさに、青名媛と佐為は夜叉の所業だ。

 佐為は夜叉と呼ばれようと構わなかった。青名媛のことを思えば耐えられた。しかし、佐為の仕事は貴族たちに奪われて半減し、目立った活躍が出来なかった。そして、青名媛と歩いている時は必ず陰口が聞こえてきた。

「あの橘佐為という男は、青名媛を誑かす夜叉だ」

「夜叉に生き血を吸われたから…青名媛様は変わった」

「橘佐為がいるから、青名媛は王座につかない。あの醜く淫らな夜叉のせいだ」

 その陰口は佐為の精神を抉っていくのであった。しかし、青名媛のことを思えば耐えられた。しかし、そんな現状を青名媛も理解していた。このままでは佐為だけが悪者にされてしまう。青名媛は佐為を助けたかった。大事な部下として、愛しい恋人として、根も葉もない噂で壊れていく佐為をこれ以上見たくはないのだ。

 そんな状況の中で青名媛は大きな決心をする。

 佐為は宮の中を歩いていた。その時、佐為を夜叉と蔑む貴族たちに遭遇する。佐為はその場から急いで離れようと駆け足になる。すると貴族たちはニヤニヤと笑いながら、ひそひそと佐為の陰口と噂話を囁き合う。

 噂はどんどん大きくなり、話は誇張していく。しかし、佐為はそれに耳を塞いで急いで青名媛の元へ向かった。今回、青名媛が貴族たちに大事な話があるというので、貴族たちは大きな部屋に集合した。

 青名媛が現れると佐為の陰口の言葉は静まり、緊張の糸が張り詰める。

「皆、よく来てくれた。私の母である女帝は、何かあればこの国を任せたいと私に言っていた。甥である阿古はまだ政治を任せられぬ。このまま見放しては、母がここまで作り上げてきた都の豊かさを崩壊させてしまう。そうなれば、苦しむのは民たちだ。私は、母に恩を返さなくてはならぬ。そこで、私はここに宣言する。私が王へ即位し、政治を執り仕切ろう」

 それを聞いた貴族たちは全員頭を下げた。それを聞いた佐為は何も言わずに頭を下げた。王になるということは中継ぎをするということ。貴族たちは、青名媛をないがしろにする可能性も捨てきれない。

 そこで青名媛はまた宣言した。

「私の行動は全て民のために心を注ぐ。私の右腕としてそこに控える橘佐為を置く」

 青名媛の発言に貴族たちが異議を申し付ける。青名媛はその理由を述べる。

 佐為はずっと青名媛に仕えてきた部下であり、青名媛のそばで様々な知識を身につけた。青名媛の考えることも理解しているため、青名媛が一番信頼出来る人物は佐為以外にいないことから、青名媛は佐為を右腕として指名したと話す。

 それでも納得の出来ない貴族の一人が青名媛に言った。

「青名媛様! 橘佐為という男は、あなたを誑かす夜叉ですぞ! これ以上、化け物をこの神聖な宮に在籍させるわけにはいかない! 今すぐ排斥するべきです!」

 貴族の一人の発言を皮切りに、その場に居合わせた貴族たちが反対の声を上げる。それを佐為が止めようとするが、暴言に遭い佐為は成す術がなかった。すると、青名媛が立ち上がる。

 貴族たちは青名媛に発言の撤回を求めると、青名媛は前を見据えた。しかし、眼光のない真っ暗闇のような冷徹な目をし、口を開いた。

「黙れ」

 その冷たい声色と怒気の入った声に恐れ、あんなに騒いでいた貴族たちが一瞬で静まり返った。緊張の糸が張り詰め、冷たい空気が周囲に漂う。青名媛の怒りの感情が雰囲気で伝わる。まるで、青名媛は貴族たちを覇気で殺しているようにも見えた。

「愚かな者たちだ。民のことを思いやるどころか、己の欲望のために人を蹴落とすか。実に不愉快だ。もし私が今、剣を持っていれば全員を斬り殺しているところだ。控える佐為は剣を持っている。今すぐにでも斬り殺してもよい。まずは…お前からだ…」

 青名媛は佐為の腰にある剣をするりと引き抜いて、最初に反対の発言をした貴族に切っ先を伸ばす。貴族は悲鳴をあげて床へひれ伏した。他の貴族たちも、恐怖の出来事に恐れ慄いた。目の前にいるのは聡明と言われた、青名媛だ。しかし、そんな青名媛の姿はなかった。

 青名媛は無表情で切っ先を喉元へあてがう。今にも喉を掻っ切りそうだ。貴族は呼吸も忘れるくらいに動けなくなっていた。青名媛は言った。

「佐為のことを夜叉などと蔑んでいるようだが…、その名は私が頂こう。お前たちのような欲望に目のない男どもを従えるならば…夜叉で十分だ。佐為は夜叉ではない。人の血肉を喰らい、地獄へ堕ちる夜叉は…この私だ」

 青名媛は持っていた佐為の剣で自らの手のひらに突き立てた。皮膚がえぐれ、青名媛の手のひらには真っ赤な鮮血がたまった。手のひらからはポタポタと血が滴る。青名媛はその血を口に運んだ。

 貴族たちは恐れた。青名媛の姿はまさに夜叉だった。佐為は言葉を失った。青名媛は佐為を守るため、そして自分はお飾り女帝ではないと示すためにあえて役者を演じた。強烈な謁見は終わり、青名媛は出て行った。

 佐為は青名媛にすぐ駆け寄り、どうしてあんなことをしたのか? と問いただした。青名媛はあの冷徹な姿を脱ぎ捨てて、いつもの優しい美しい姿で佐為に言った。

「私は佐為が夜叉と言われているのが聞くに耐えられない。私ができることをしたまでのこと」

「しかし! これでは、青名様が汚名を…! あなたのような聡明で真面目な方が…夜叉に身を堕とすなどと…」

「私はもう夜叉だ。佐為、あなたと契ったその日からな。私は後悔などしていない。それに佐為。私は…母上の恩に報いたい。私は王になる。あなたとの恋情を反故にしてな…!」

「青名様…!」

 青名媛の体を背後から包み込んだ佐為。あんなに冷徹な姿を見せた青名媛はこんなにも小さく、肩が震えていた。王になり、佐為を右腕に置いた以上、佐為との婚姻は結べない。婚姻を結べないならせめてと右腕にしたのだった。

 青名媛は佐為に謝罪の言葉を言い続けた。佐為は青名媛の肩に顔を埋めた。青名媛は国と私情を比べて、国をとった。佐為はその決断を全身で受け止めた。もう、二人は恋人ではなく、女帝と右腕の関係となる。

 朝日が昇るまでは、二人は恋人のまま。青名媛は佐為に優しく口付けた。その味は涙の味がしてしょっぱく感じた。佐為も涙を流しながら、青名媛の顔を向けるように手を動かしてそれを抑えて、口付けを交わした。

 二人はさらに求めあう。涙の味を隅々まで、相手の味を感じながら。朝日が昇るまでは、まだ繋がっていたい。二人は、最後の逢瀬を交わしたのだった。その日だけは時の流れが遅かった。それは二人の願いなのかもしれない。





 こうして青名媛は新たな女帝となった。その側近には佐為がつき、二人は政治を進めていた。青名媛は悲田院、施薬院を設置した。悲田院は孤児の保護や食べ物の炊き出しを行う施設、そして施薬院は医師駐在で薬を調合し、無料で配布する施設だ。どちらも貧しい民を思いやる秘策だ。

 人々は青名媛に手を合わせて感謝した。青名媛の町へ繰り出したことで得たことを生かせた瞬間だった。青名媛の政治手腕は申し分なく、それを佐為が補佐して政策等は全て好調に進めていった。

 聡明で真面目で美しい。内面が美しいと呼ばれた青名媛だが、権力者として冷徹な一面も持つ。そして、佐為との恋仲であったことは時間の経過と共に青名媛が慈しむ民たちの知るところとなった。

 しかし、青名媛の功績のおかげで青名媛を蔑むことなかった。やはり彼女は女帝になる星の元に生まれていて、政治手腕はその影響だと人々は噂し合う。しかし、彼女の過去は拭えない。人々は青名媛のことをこう呼ぶようになった。


「美しき夜叉」


 王になった代償として恋人との別れを余儀なくされた過去を背負う、美しい夜叉。貴族たちは夜叉の治める国と蔑む人間も中にはいたが、青名媛は気にしなかった。彼女は、愛する佐為が夜叉と呼ばれることが耐え難い苦痛だった。自分が夜叉と呼ばれる分には何の問題もない。青名媛は常にそれを心の中に止めていた。

 青名媛が「美しき夜叉」の名を背負うことで、佐為は守られていたのだった。佐為はその思いに報いるように青名媛に尽くした。

 そしてお互いに交わしていないが、二人は生涯独身を貫く決心をした。自分以外の誰かと結ばれる未来など見たくはない。青名媛も佐為も、夫・妻を持たず、懸命に国のために尽くした。たとえ、中継ぎの女帝と言われても…。

 現世ではなく役目を終えて来世で再会したら、成し得なかった婚姻を結ぶと決めている。二人はこの約束を胸に、都の繁栄を願いながら日々を過ごしていたのだった。

 そして時は流れて、青名媛は無事に甥である阿古に王座を明け渡した。その頃には青名媛は年齢を重ね、体は衰えが始まっていた。しかし、阿古の政治暴走を防ぐ役割として体力が許される限りは補佐を行った。そして、青名媛の右腕であった佐為は、阿古の右腕として手腕を振るった。

 青名媛は「青名大媛」と名を改めたが、佐為は阿古の右腕でありながら、青名大媛の部下であり続けた。それが、佐為の願いでもあった。佐為はたとえ恋人の関係ではなくなったとしても、いつまでもそばに仕えたいと願い、このような対応となった。

 青名大媛は穏やかな日々を送っていたが、体は衰え、病を発症し、起き上がることも難しくなってしまった。多くの人々が青名大媛の回復を願い、寺社での祈祷や読経が連日行われた。しかし、在位期間で多くの仕事をした無理がたたったせいなのか、病は一向に回復せず、悪化の一途をたどるのであった。

 佐為は青名大媛の看病を続けていたが、青名大媛はついに危篤状態になった。佐為が青名大媛の枕元に座ると、眠っている青名大媛の目がゆっくり開いた。

「…そこにいるのは、誰じゃ?」

「…青名大媛様」

「…懐かしい声じゃ。…佐為か?」

「…そうです。青名大媛様」

 今にも消えそうな声で青名大媛は言った。佐為は痩せ細った青名大媛の手を取る。力なくだらんとしている手を優しく包み込んだ。

「佐為…。最期にお前に会えて…嬉しかった」

「青名大媛様…。何を言っているのですか?! 私は、まだまだ青名大媛様にお仕えしとうございます。また、宮を抜け出して…町を歩くのです! 昔のように…!」

「…佐為。冗談を言うでない。私はもうこの通り、かつての面影などない…ここにいるのは…しわくちゃのばばだ…」

 青名大媛は自嘲するように笑い、佐為が思い描く聡明だったあの青名媛はもういないと言ったのだった。佐為は首を横に振った。年老いても、容姿が変わっても、目の前にいるのは愛おしい青名大媛であることには変わりないと話す。

 青名大媛は、佐為より先に亡くなるのは自分自身が夜叉となったからだと話す。夜叉になった代償で早くこの世から消えるのだと。佐為は、青名大媛に言った。

「夜叉と名乗ったあの日から…こんな運命だと? そんなのはあり得ない。青名大媛様、あなたは人々から慕われた美しき夜叉の名を持つ女帝です。私たちの悲しい物語があったからこそ、人々はこう呼び、あなたをさらに慕うのです。青名大媛様…あなたは醜く淫乱な夜叉ではありません。美しく気高い…この国を愛する美しき夜叉なのです」

 佐為はそう言って大粒の涙を流した。佐為にとっては、いつまでも恋い焦がれるほどに愛おしい青名大媛であるのだ。佐為の思いに青名大媛も静かに涙を流した。

 青名大媛は、佐為に見守られながら安らかに永遠の眠りについた。青名大媛は眠りにつくまで涙を流し続けていた。佐為は青名大媛の前でいつまでも泣き続けたのだった。





 青名媛様にお仕えした橘佐為は、青名媛様御薨去あそばされた後も歴代の王に政治を補佐する役目を仰せつかり、その手腕を発揮したのでございます。橘佐為の名は歴代の王に重宝されるほどに名声を轟かせ、後の世では「文武両道の天才エリート」などと呼ばれているようでございます。

 そんな天才と美しき夜叉と呼ばれた青名媛様の物語を知るものはほとんどおらず、当人である佐為の記録はほとんど残っておらず、青名媛様と政治を行う姿しか確認ができていないのでございます。

 しかし、佐為は青名媛様の御薨去あそばされた時の記録を担当しておいででした。その記録の中で、佐為はこのように記しております。


 歴代に王はたくさん存在するが、私が心から仕えたいお方はただ一人。

 それは、聡明で容姿も心も美しい、青名媛様だけ。青名様だけが、私の全て、私の生きがい。

 「美しき夜叉」という自らの運命を受け入れたが、私は青名様は決して夜叉などではないとここに記したい。青名様に相応しい夜叉の名を与えるのが、この世に残された私の役目。

 青名様のように凛として、青名媛の名に相応しい青色の美しき花の名を、青名媛様に捧げる。

 桔梗夜叉ききょうやしゃ

 私は桔梗の花を見るたびに思うだろう。あの聡明で優しい、それでいて普通の女性だった、桔梗夜叉様を。


 佐為は禁断の恋に落ちましたが、夜叉と呼ばれたのは青名媛様だけでございます。これは佐為を想い、青名媛様が全てを受け入れた結果によるものなのでございます。佐為は、命が燃え尽きるその日まで亡き青名媛をずっと想い続けていたのでございます。

 これが、美しき夜叉が桔梗夜叉という名前を得るまでのお話でございました。


 完


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