7.喰らう
アレスとリトルは未だ変わる気配のない光景に目が眩みながらも、一心不乱に歩みを続けていた。
その足取りはどこか重くおぼつかない。
――それにしても。
「腹が減った……」
ぐぅ、と鳴る腹を抑えながら、アレスはつぶやいた。
探索に使うこと数時間ほどだろうか。
普段より動く身体は執拗に食料を求め、アレスの身体を苛んだ。
それだけでなく、そろそろ寝床を見つけなければならないのである。
あらかじめ持ってきていた保存食はすでに底を尽き、腹はすでに飢餓を訴えている。
「これおかしいだろ……」
「……うん、そうだね」
もしかしたら、時空がおかしい影響なのかも、とリトルはつぶやいた。
「時空がおかしい影響?」
「うん、前に言ったでしょ? ここはテスカリトルの影響で時空から切り離されているって」
「あー、そんな感じのことを聞いたような……」
アレスは記憶の棚を必死に開ける。
普段であれば容易に思い出せる程度のことだが、今の衰弱したアレスにはそれすら困難になっていた。
「そう、だからここに入る生き物は、本来とは違う時間を無理やり進まされるのかも」
「だからこうも異様に腹が減ると?」
「そう」
アレスの問いにリトルは頷いた。
そしてそれは、これ以降、洞窟での戦いに食料問題が追加されるということを意味した。
「マジかよ……」
思わず弱音を吐くアレスだったが、時は無常なもので、空腹感はどんどんと強まっていく。
――ああ、とにかく何か食べたい。何でもいい、とにかく食えるものを……!
アレスの口から絶え間なく涎が垂れていく。
足はふらつきはじめ、ついに倒れようかというその時、
「……ん?」
――足音が聞こえた。
アレスは執拗に訴えかけてくる飢餓の念すら忘れ、足音の聞こえた方向へと視線を集中させる。
黒い壁の間から、ゆっくりとそれが姿を現す。
それは四本足であった。
同時に、アレスが困惑した表情でつぶやく。
「コボルド…………!」
周囲を執拗に見回す複眼、六本のいびつでグロテスクな腕。
犬と蜘蛛の合いの子のようなその異形は、間違いなくコボルドだった。
アレスの頬を冷や汗が伝う。
時間の関係上なかったことになっているとはいえ、先日、彼はまさにあれと同じ魔物に殺されたのだ。
足がすくんでしまうのも無理がないと言えた。
……だが。
「なあ」
可能な限り小さな声――それもささやくような――でリトルへと話しかける。
それでもピクリとこちらの方角を向いたあたり、すさまじい聴力であるといえた。
「なんだい」
「アイツ、どう思う?」
「アイツ、そうだねー、魔法を使うことはできないだろうけど、知能は十分あるし、身体能力はキミよりも圧倒的に上だ。……でも」
やりたいようにやったらいいんじゃない? とリトルは面白そうな声で言った。
まるですべてを見透かしたような、そんな言葉だった。
――アレスの中には、恐怖と弱音と、そして轟々と燃え盛る狂気のような衝動が沸き上がっていた。
逃げなければならない、と思う。正攻法では、あるいは搦手を使っても勝てるような相手ではない、と叫びたい衝動に駆られる。
しかし同時に、どこか心の奥底から、否定しがたい衝動があの獣を殺せと大声をあげ続けていた。
――あの獲物を喰らえ! 喰って己の糧としろ!――
頭の中でその二言がリフレインする。
――だめだ、あまりにも危険すぎる、喰らえ、あの肉にお前の道が開ける、まだ探していない箇所はある、食料だってきっと、あの肉を食い尽くせばどれほどの美味だろう、倒したとして血まみれになっては意味がない、喰らえ!!
喰らえ!!!
「…………」
アレスは眉一つ動かさず、コボルドをじっくりと睨みつける。
コボルドは周囲にくまなく警戒を行っており、ときおり耳をピクピクと動かしているのがわかる。
だがこの距離でまだ見つかっていないことを考えると、視力は相当に低いのだろう。
――なるほど、とアレスは合点がいった。
全面黒の世界に光ひとつ差さないであろう環境。
これだけの条件がそろってしまうと、下手に視力を維持しても意味がないだろう。
そしてそれを代償に高めた力はおそらく聴力。
アレスからは何一つ聞こえないような状況でしきりにコボルドが反応を起こしているのが何よりの証拠だ。
しかしそうなると難しいな、とアレスは脳内で顎を撫でた。
向こうの聴力はおそらく一級品、それだけでなく、あの長い脚を利用してレンジの長い攻撃を行う知能も兼ね備えている。
その身をもって恐ろしさを体験しているのだ、油断などしたくてもできるはずがない。
しかし相手の聴力と反応力には恐ろしいものがある。もし反応自体はできたとしても、こちらからすれば音を出したともいえないような状態から動かれて奇襲を仕掛けられないとも限らない。
否、間違いなくされると、アレスは確信に近いものを持っていた。
だが、これ以上コボルドを放置するのもまた得策ではない。
移動時にいつ奇襲されるかもわからないからだ。
――やられる前にやるしかないか。
「――」
カツ、と音を立ててアレスは歩いた。
その音に反応して、コボルドが彼の方向を向く。
アレスは断続して靴音を鳴らし、己の居場所をその魔物へと知らしめた。
――次の瞬間、目にもすさまじい速さでコボルドが跳びかかる。
まるで隼、否、風と呼んでも差し支えないような瞬発力だ。
――なるほど、これは反応できないわけだ。
最初に殺されたときの思い出を反芻しながら、アレスはポケットへと手を入れ、
――手元に持った球体を思い切り振り回した。
「ガアアアアアァァァッ!?!?!?!?」
球体から鳴り響くすさまじい音に、コボルドがひるんだ。
「やっぱり、音が弱点か」
優れた聴力は、同時に大きな音に対する抵抗力を弱める。
視界を犠牲にすさまじい聴力を手に入れたコボルドは、代償として大きな音を喰らうと、周囲を判別できなくなってしまうのだ。
「……さて」
――喰らえ、喰らえと脳裏で叫ぶものがいる。
アレスはその声に眩暈を覚えそうになりながら、
「恨まないでくれよ……なんて言っても無駄だろうけどな」
痙攣する喉笛にダガーを思い切り突き立てた。
◇ ◇ ◇
コボルドの痙攣がいくぶんか落ち着くのを待って、アレスはゆっくりと動き出す。
その眼は白く濁り、もはや何も移していない。
だらりと垂れ下がった舌は少し青くなっていて、アレスはそれを妙に生々しく感じた。
脳内ではいまだに喰らえ、喰らえと声がする。
そしてアレスもそれに中てられたのか、目の前の魔物をもはや生贄としか認識できなくなっていた。
痙攣が収まったのを見て、血まみれのダガーを引っこ抜く。
やはり剣によって血が留められていた部分があるのか、ある程度落ち着いたはずの出血がまたぶり返していた。
手早くコボルドの腹をさばき、内臓を抜き取る。
骨をある程度処理すると、肉と皮の間からコボルドの皮を剥ぎ取った。
皮は分厚い上に毛深い。特別頑丈だったり上等というわけでもないので、そのまま捨ててしまっても構わないだろう。
肉を食べやすいサイズに切り分け、皮に魔法を使って火をつける。
脂の残った皮は簡単に燃え上がり、大きなひとつの炎と化した。
その間に折っておいたコボルドの肋骨に肉を突き刺し、炎の中に入れる。
火傷しそうな熱を感じながら、肉が少しずつ焼けていく光景を見る。
赤身だったコボルドの肉はみるみる内にこんがりと焼け、食欲をそそる色へと変化していった。
――そろそろ食べ時だな。
「…………」
普段行っている食事の祈りもせず、アレスは一気に肉へと齧り付いた。
口の中いっぱいに血の鉄っぽい味と、獣臭さが広がる。
しかし限界まで空腹に至っているアレスにとっては、その程度であればちょっとしたスパイスのようなものであった。
硬い繊維を引きちぎりながら、黙々とコボルドであったものを胃の中へと送り込んでいく。
肉が喉を通るたびに、胃の中が熱を持ったように熱くなる。
一度咀嚼するたびに、アレスは自身の身体に力が戻って来るような感覚を感じていた。
身体の中を栄養が通る感覚を噛み締めながら、素早く、しかし焦りすぎないように食事を続ける。
コボルドの肉をすべて食べきる頃には、アレスはすっかり満腹になっていた。
――そして正気に戻る。
「あああぁぁぁ! なんでやっちまったんだよおおぉぉぉ……」
アレスは床を力強く叩きながら、己の愚行を嘆いていた。
大きな音を出すというのは別に悪い方法ではなかった。しかしそれは対コボルド限定での話だ。
運よくほかの魔物が来ないままなんとかなったものの、もしやってきていたら一気に窮地に追い込まれていただろう。
「はああああぁぁぁ、そんなことくらいちょっと考えればわかるだろこのバカ!」
アレスは床に手を付きながら、ひとり反省会を行っている。
口から出るのは己を罰する言葉ばかりだ。
リトルははじめその様子をただ見守っていたが、反省会が十分に渡ろうとした辺りで、あまりの落ち込み具合を不憫に思ったらしく、
「ま、まあ、ボクも焚きつけちゃったところあるし、それにここまで空腹になるとは思わなかったんだし、仕方ない、と、思うよ?」
とアレスを励ました。
しかし当のアレスは未だ落ち込んだままだ。
「うぅぅ……仮にも隊長だってのに、こんなんじゃ部下に示しがつかねぇ……」
「ほら元気だしてよ、力だって強くなったんだしさ」
「力……?」
リトルの思わぬ発言にアレスは正気に返る。
己の体へと意識を移すと、確かに燃えるように熱い力が体内を駆け巡っているのがわかった。
心なしか、足の筋肉が動かしやすくなっているようにも感じる。
軽く動かしてみると、明らかに筋肉がしなやかになっていた。
「な、なんだこれ!?」
とアレスがつぶやく。
リトルはその様子に満足そうに微笑むと、
「肉を食べたおかげだね」
と答えた。
「肉を……?」
「そ、キミがコボルドの肉を食べたことで、その力の一部が還ったんだ」
魔物によって効果は違うんだけど、コボルドは脚力だったみたいだね、とリトル。
何故だろうかと疑問に思うアレスだったが、次の瞬間、強烈な眠気が襲い掛かる。
どうやら満腹になったことによって、これまでの疲労がどっと流れ込んできたようだ。
「……とりあえず、寝床を探すか」
「そうだね、大丈夫そうなところを探そうか」
アレスは魔物避けとデコイを兼ね、炎の中に不要になったいくつかの骨など放り込むと、先ほどまでとは違う軽い足取りでその場を去っていった。