4.再帰の穴
「――ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおっ!?!?」
高所から落ちるような感覚に叫んでいたアレスは、ふと消えたその感覚に疑問を持ちながら、いつの間にか閉じていた瞼を開いた。
そこはアレスが任務を承って向かった、不帰の穴へと続く森であった。
太い木々が無造作に生え、獣の気配があちらこちらに充満している。
逆に人気は一切なく、木漏れ日すらも通さない深い緑が、どこか冷たい印象をアレスに与えていた。
「……夢?」
アレスはそうつぶやくと、すぐさま自分の身体を嘗め回すように調べた。
袋も取り出し、杖さえ振って確認してみたものの、どれもこれも出立前と同じで、傷ひとつ、損失ひとつない。
あの時刺されたはずの心臓の傷もなく、やはりあれは夢だったのかと結論をつけると、
「ヤッホー! こちらリトル、応答せよ!」
「うおっ!?」
脳内に大きな声が響き渡り、アレスは思わず耳をふさいだ。
反射的に周囲を見回すものの、人の気配はどこにもない。
そもそもこの辺りは危険地帯ということで人の出入りが禁止されており、いるのは獣のみだ。
当然ながら、これほどまでに鮮明に声を届けられるような人物など、いるはずもないのだ。
――ってことは……。
「夢じゃ……なかったのか……!?」
そうに決まってるでしょ、とリトルが呆れたような声を出す。
「じゃ、じゃあ、今どこにいるんだよ!」
「どこに? ああ、あの時話してた場所だよ。 そこからほら、電話みたいにさ」
「電話……?」
「あー……そっか、んーとね、姿が見えない伝書鳩みたいなものかな」
「姿の見えない伝書鳩?」
「そ、そんなものみたいにこっちから声を飛ばしてると考えてくれればいいよー」
「そんな大雑把な……」
じゃ、行こっか! とリトルは言う。
顔は見えない状態だというのに、きっとあの子どもっぽい笑顔を浮かべているのだろうと不思議と確信できて、アレスは「はいはい」と呆れたように言葉を返した。
何やら騒ぎ出した不審神を放置して深呼吸をすると、気を取り直して目の前の洞窟を見つめる。
外見こそありふれた洞窟のそれだが、ぽっかりと開いた入り口からはなにかおぞましいものの気配を感じる。
恐怖そのものが煙と化したような、あるいは呪詛を集めて触れられる形にしたようなぞっとする感覚がアレスの背筋を伝って、彼は半ば反射的に姿勢を正した。
何の変哲もない木々の擦れる音も、この環境の中ではおぞましい悲鳴のように聞こえてしまうのだから不思議なものだ。
――ま、そんなの今更な話だな。
今すぐ逃げ出したい、また殺されたくないと訴えかける心を使命感で抑え込み、アレスはどこか狂気染みた気配の満ちる死地へと足を踏み込んだ。
◇ ◇ ◇
入り口から様子を窺って、アレスは思わず苦々しい声をあげた。
リトルの言っていたことが真実であると理解してしまったからだ。
黒い結晶で形成された洞窟の姿は、一見しては変化がわかりづらいものの、よく見ると反射が異なることがわかる。
しかし明確に、はっきりとこれは以前と違うと確信するに至ったのは、その天井の高さであった。
かつての天井はアレスの3倍ほどの大きさで、あまり長物で戦うことをしたくない、いわゆる一般的な洞窟と言って良いような内装だった。
黒い結晶もあちらこちらから無造作に生えていて、それそのものの異常性はともかくとして自然物のように見えたのは確かである。
しかし現在の洞窟は、その内容を明確に変化させていた。
天井の高さはアレスが5人ほど集まってもまだいくらか余裕があるだろうと予測できるほどで、結晶もまるで磨かれたかのような規則正しい形で立っている。
真円に近い結晶の柱――羽根やジャガーといった動物が写実的に彫り込まれたその姿は、どう考えても柱としか形容できない――はそのまま天井を支えるように立っており、その上には、まるで星無き夜空のような漆黒の天板がある。
その天板ののっぺりとした、距離感をつかみかねる姿に、アレスはどこか己が威圧されているかのような感覚を感じた。
床もしっかりと確認しなければ見えないが、いくつかのタイルを重ね合わせたように結晶が幾何学的な姿で集まっており、それらが集まって八角形の星を形作っていた。
――これじゃ、まるで宮殿じゃないか。
「ほー、これまたずいぶんと変わったねー」
アレスは思わず振り返り、驚愕に目を見開いた。
先ほどまでとは違い、リトルの姿がはっきりと視認できたからだ。
その白い身体を宙に浮かせ、その神秘的な姿とは対照的に無邪気な表情でアレスを見つめている。
白い空間の中でもどこか非現実的でああったその全面白一色の姿はやはり黒い空間ではよりその存在感を増しており、あたかも漆黒の空間の中で光り輝いているようであった。
「な、なんでアンタが……!」
「この辺りとの魔力との親和性かなー」
ま、あとは声だけだと色々とつまんないしね、とリトルは身体を動かしながら言った。
浮遊する身体は動きに合わせて上下し、終いには一回転すら繰り出す。
「あ、手を貸したりとかはできないからね。ポイント足りないからさ」
「だからポイントって何だよ……」
掴み所の無い言動を繰り返すリトルに、アレスは頭痛を覚えた。
続いて、そういえばさっきもそんなこと言ってたねー、とのんきに語る姿を見て、思わず頭を抱える。
しかしリトルはどこ吹く風といった様子で、聞きたいー? と意地悪そうな笑みを浮かべながら、空中を滑ってアレスの眼前へと躍り出た。
非現実的な美貌を誇るその姿が急激に近づいてきて、アレスは思わず顔を赤くした。
この数刻――あくまで主観ではあるが――で頓珍漢な言動を繰り返す妙な存在であることは判明している。
とはいえそれは性格の話であって、容姿は白雪のように儚く、同時に爬虫類のように獰猛な妖しさを兼ね備えている。
女性的でありながら中性的で、その複雑さが却って魅力的だ。
己が初心なことを自覚しているアレスとしては、ある程度距離を取って接してほしいというのが本音であった。
「ふっふっふー、顔を真っ赤にしちゃってさー、かーわいー♡」
「かっ、かわいいとかいうな!」
アレスは大声を出してリトルの賛辞を否定した。
彼自身、己が中性的な容姿であることはわかっているのだ。
変装の選択肢が増えるため便利だと感じており、可愛いと言われることにもある程度耐性があるが、それでも微妙な気持ちになるというのが本音であった。
――ざり、と足音が聞こえる。
ふたりは言い合いを中断し、緊張感の走った目で音のした方向を向いた。
「……ポイントがどういうやつなのか、後でしっかりと教えてもらうからな」
「わかってるって」
お互いに小さな声で確認する。
その声色は先ほどまでの明るいものではなく、知恵の神らしい冷静さと諜報部隊長らしい冷徹さを、それぞれ備えたものだった。
音の方向から察するに、相手の居場所はほぼ正面。
音と音の間隔が空いていることから考えると、向こうは二足歩行の生物であり、恐らくは一匹――あるいはひとり――だろう。
ぺたり、という軟質な音とカチ、という硬質な音の組み合わせを考えると、脚に長い爪がついた魔物であると推測できる。
――闇の中から、ぬるりと小型の人型をした魔物が姿を現した。
大きさはアレスの3分の2ほどだろうか。
緑色の肌に顔の半分ほどの長さを誇る大きな鷲鼻、黄色がかった目はぎらぎらと輝いて、口からは獲物に興奮しているのか、涎を絶えず零していた。
体格は基本的に細身――それも病的と言っても良い――なものの、腕だけは異様なまでに鍛えられており、その両手には小型のナイフと、体格の倍近くはある巨大な鉄槌を掲げていた。
まるで重さを感じないかのような足取りで魔物――ゴブリンが近づいてくる。
――来る!
「ガアアアアアアァァァァッ!!!!!!」
次の瞬間、獣のように体をしならせてゴブリンはアレスめがけて飛び掛かった。
鉄槌を大きく振りかぶり、重力に従って落ちながら、ブゥン! という重い音と共に振り下ろす。
その鉄が彼の頭を無残にも粉々に砕こうとし――
「ギャッ!?」
――ゴブリンのうなじから勢い良く血が噴き出した。
ゴブリンは何が起きたのか理解できず、ほんの少し悲鳴を上げてそのまま絶命した。
それと同時にアレスの姿が掻き消え、鉄槌が重力に従って落下する。
鉄槌は木材が割れるような音を鳴らし、結晶でできた地面を砕いて倒れた。
「……ふぅ」
いつの間にかゴブリンの背後に立っていたアレスは、息をひとつ吐きながら血のついた短剣をあらかじめ用意していた布で拭き取る。
先ほどまで彼がいた場所には、地面を抉った鉄槌と粉々に砕けた松明が転がっていた。
「エグい手を使うね~」
「そりゃ、諜報部隊が真正面から戦うわけないだろ。……しっかし」
まさか松明を使うハメになるとは、とアレスは頭を乱雑に掻いた。
アレスは魔法を利用して姿を隠し、同時に松明を変わり身に使うことで奇襲に成功したのだ。
「まー勝てたんだからいいでしょ?」
「そりゃそうだが……まさか本当に勝てるとはな」
諜報部隊とはいえ、魔物との戦闘経験がないわけではない。だからこそアレスは理解していた。
あのゴブリンもまた、コボルドと同じく明らかに外の種と比べて狂暴かつ厄介になっていた。
おそらくこの洞窟に入る前のアレスであれば、勝つとしてもそれ相応の代償を払っていただろう。
――それを奇襲とはいえ一撃とはな……。
己の手を握りしめ、明らかに向上した身体能力を痛感する。
「さて、血の臭いがする場所に長いするのもマズい、そろそろ離れるぞ」
落ち着いた場所を見つけたらちゃんと教えてもらうからな。
アレスはリトルにそう言い含めてその場を去った。