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対面

「ヴィルフリート様、そろそろ花嫁候補の娘が参りますぞ」

「……分かっている」


 この館……通称「竜の城」の家令を務めるエクムントが、(あるじ)ヴィルフリートを呼びに来たのは午後も遅くなってからだった。図書室の窓から入る日差しは、だいぶ長くなっている。

 西日を浴びて主の髪は金色に輝いているが、普通の金髪とは違い、薄く光を透して上衣の色が透けて見えている。もっとも彼が赤子の時から見ているエクムントには、不思議でも何でもない。


「お分かりでいらっしゃるなら、そろそろお戻りを」


 するとヴィルフリートは気が乗らなそうに立ち上がった。


「もう、無駄なことをしなくても良いのではないか……?」


 確かにこの十年間、送り込まれた娘のなかに主の「花嫁」はいなかった。初めの数年は期待に胸をふくらませて「花嫁」を待ち受けたヴィルフリートだったが、残念なことに毎年毎年、肩を落として対面の間から出てくることになってしまっていた。エクムントは、ここ二・三年で主がすっかり諦めてしまっているのを察している。

 だが本当に諦めてしまわれては困るし、もともと爺やであるエクムントとしては、主ヴィルフリートにも幸せになってほしいとも思う。


「そのようなことを仰ってはなりません」


 エクムントは努めて明るい声を出した。


「今年こそ、お気に召す娘が来るかもしれませんぞ。――さあ、お支度を」




 ヴィルフリートは王宮で生まれた。だが彼の身に「竜の特徴(しるし)」があると分かると、彼はすぐに産みの母から引き離され、乳母のレオノーラとともにこの「竜の城」へ連れてこられたという。


 母親代わりのレオノーラと、爺やのエクムント、他に気心の知れたわずかな使用人。ヴィルフリートの世界は決して広いものではなかったが、「竜の城」しか知らないヴィルフリートは何を疑うこともなく育ってきた。

 成長するにつれて、エクムントやレオノーラは注意深く彼の身の上について教え始めた。だが特殊な環境ゆえか、彼は淡々と自らの境遇を受け入れたように見えた。穏やかで理性的な子供だったヴィルフリートは、そのまま成年を迎え、「花嫁」を待ち続けて十年が経っていた。


 ドアを開け、彼はいつもと変わらぬ歩みで寝台に向かって進んだ。そこには純白のドレスを着た娘が横たわっている。


 念入りに梳られた、艶やかな栗色の髪。長い睫毛に縁取られた瞼は固く閉じているが、桃色の唇は薄く開いていて、今にも声をあげそうに見えた。


 ヴィルフリートは眠る娘の横に立ち、食い入るようにその姿を見つめた。何故かふと息苦しさを感じ、頭を振って瞳と同様に淡い金色の髪を後ろへ払う。

 こうやって目の前で眠る娘を見下ろすのも、もう何度目になるだろう。その都度別の娘だったが、いつもならひと目見ただけで、この娘ではないと分かったものだ。


 それなのに、今回は違った。初めての感覚に、彼は戸惑う。


 そっと手を伸ばし、陶器のようになめらかな頬に触れてみる。

 ぞくり、と今まで体験したことのない震えが体を駆け抜け、彼は慌てて手を引いた。


 ――何だ、この感覚は?


 閉ざされたごくごく狭い彼の世界で、このような感覚を味わうことは一度もなかった。


 ――これがそうなのか? この娘が私の……?


 眠る娘の瞼が、わずかに震える。

 ヴィルフリートは、初めての思いが胸のうちから溢れるのを感じた。


 ――今、この目が開いたら、どんなふうに自分を見るのだろう。その唇がどんなふうに開いて、どんな声で自分を呼ぶのだろう。


 瞳の色は、何故か見なくても知っている。だが知りたい。その瞳がどんなふうに笑い、この唇がどんな言葉を紡ぐのかを。

 吸い寄せられるようにもう一度手を伸ばし、絹糸のような髪に触れてみる。


 ――なんと柔らかいのか。


 この髪に鼻を埋め、甘い香りに包まれたい。ヴィルフリートは自分でも驚いた。これまでそんなことを思ったことなど無かったからだ。

 彼は悟った。


 ――彼女が、私の(つがい)。生涯の伴侶だ。


 どれだけ待ち望んだことだろう。

 彼女は――彼女こそ、彼のものだ。

 妻や伴侶という言葉では足りない……己の片割れ。まさに(つがい)としか言い得ぬ存在。


 狂おしいほどの喜びに、彼の全身に震えが走る。

 欲しい、欲しい。今すぐこの腕にかき抱いて、もう永遠に離したくない。


 身体中を、激しい欲望が渦を巻いて駆け抜けた。荒い息を吐き、崩れそうな膝に力を入れて堪える。ここで崩れて寝台に手を触れでもしたらどうなってしまうか、自分でも想像がつかなかった。


 分かっている。もし今ここで衝動のままに娘を手折っても、誰も彼を責めないだろう。この城の主は彼であり、この娘は自分のものだ。たとえ彼女とて、責めることはできない。

 だが、きっと彼女は泣くだろう。そのような姿を見たいとは思わなかった。


 だから、彼は耐えた。身の内から湧き上がる、凶暴と言ってもいいほどの激しい衝動に。


 ――私の、(つがい)


 いま一度、ひと筋の髪を指先に絡め……白い額に、そっと口付ける。甘い香りが、彼の鼻腔を満たした。ひどく惜しい気持ちで、ゆっくり手を放し、視線を向けたまま、そっと後ずさる。


 ――巡り合えた。


 小さな吐息を残し、ヴィルフリートは部屋を出た。




 扉を閉めて振り返ると、少し離れたところにエクムントが控えていた。ヴィルフリートが唇を噛みしめているのを見て、ほんの一瞬、痛ましげな表情を浮かべる。


「ヴィルフリート様、ギュンター子爵がお待ちしておりますが。いつも通りにお帰りいただくということで……」

「いや、返さなくとも良い」

「……は?」


 エクムントは信じられないといった様子で立ち尽くした。


「彼女が、私の妻だ」


 そう言って奥へ向かうヴィルフリートを見送り、エクムントはしばらくそのまま立っていた。だがついにこらえきれず、目頭を押さえて俯いた。




 靄がかかったような、ひどくぼんやりとした目覚めだった。

 いやに重い頭を上げて、アメリアはそろそろと身を起こす。――知らない部屋だ。


「……?」


 外は明るく、鳥のさえずりが聞こえる。朝なのだろうか。


 ――ええと……確か、馬車を降りて、着替えをして……それから……?


 途中で急に眠くなったところまでは覚えている。まさか、そのまま眠ってしまったのかしら?


 そこへドアが開いて、誰かが入ってきた。


「お目覚めになりましたか。おはようございます、アメリア様」

「レオノーラさん……?」


 やはり朝なのか。アメリアが怪訝な顔をしていたからか、レオノーラはすまなそうに微笑んだ。


「説明は後程。まずはお召し替えをしましょうね」



 身支度を整えたアメリアに、レオノーラは軽い食事を持ってきてくれた。


「アメリア様には申し訳なかったのですが、この『竜の館』の場所を秘密にするために、眠り薬を飲んでいただきました」


 レオノーラの話に、アメリアはスープを掬う手が止まってしまった。


 驚くことに、実は自分が本当に「花嫁」になるかどうか、ここへ来るまで確実ではなかったという。まさか眠っている間に連れてこられ、既に「竜」に目通りさせられていたとは、思いもしなかった。


「では、もしも私が『花嫁』ではなかったら……?」

「その場合に備えて、眠っていていただく必要があったのです」


 今までの娘もそうだったが、ヴィルフリートが「この娘ではない」と判断した場合は、実はそっと親許へ返されていたという。もともと自分の娘が「竜の花嫁」になったと触れ回るような親はなかったし、秘密裏に王都を出てきていたから、元の暮らしに戻り、ほとんどの娘がもう他のところに嫁いでいるらしい。


「ただ、王都でこちらのことや、主のことを話されては困ります。ですから眠っていていただく必要があるのです」


 ならば自分ももしかしたら今頃は、家に返されていくところだったのか。もし「竜の花嫁」にならずに済んだなら……。

 ただ普通の娘と違って、アメリアにはそれが幸せだったかどうか分からない。役に立たなかったと伯爵にがっかりされるのが、目に浮かぶようだ。

 いったいどちらが良かったのだろう。思わず黙り込んでしまったアメリアに、レオノーラは嬉しそうに言った。


「ですが貴女様こそが『花嫁』なのです。さあ、今度こそ主が――ヴィルフリート様がお待ちですよ」




 社交界に出ていなかったアメリアは、王宮の姫君たちが着るようなドレスなど見たこともなかった。だが布の手触り、仕立ての美しさ、凝っていながら品の良いデザインなど、ハンナに教えを受けたからこそ分かる。おそらく最高級のドレスだ。それが自分のサイズにぴったり合わせて仕立てられていることに驚きながら、アメリアはレオノーラについて歩いていた。

 それは現実逃避だったのかもしれない。これから自分が誰に会うのか、考えるのが恐ろしかったから。


「さあ、こちらです」


 美しい装飾のされた扉の前で立ち止まり、レオノーラが振り返る。途端にアメリアの心臓が音をたて、脚が竦んでしまった。ついにこれから「竜」に会うのだ。しかも「花嫁」として。


「そんなに緊張することはありません。大丈夫、優しいお方です。もう今朝からずっと、貴女にお会いになるのを楽しみにしておられます。――ヴィルフリート様、お連れしましたよ」


 そして扉を開け、アメリアの背中を押すようにして入って行った。


 正面の長椅子に座る人影が見えたが、アメリアはどうしてもそちらに視線を向けられなかった。自分の足元に目を落とし、促されるままに歩みを進める。

 異形のものではない、とギュンター子爵は言っていた。でも、「竜の特徴(しるし)」がどこかにあるのだ。それを見てしまったら、落ち着いていられるか自信がない。


「さあ、アメリア様。ヴィルフリート様ですよ」


 アメリアは両手を固く組み合わせた。このままではいけない、挨拶をしなくては。そう思うのに、どうしても身体が動かない。

 そこへ落ち着いた声が聞こえた。


「こちらを向いてくれないか」


 一瞬、びくりと身体を強張らせ……、アメリアは恐る恐る顔を上げた。涼やかで、優しそうな声だ。


 ――ああ、どうか恐ろしい姿ではありませんように……!


 床からそっと目線を上げてゆく。すらりとした脚、膝の上に軽く握られた手が目に入る。服は王都の若い貴族の男性が着ているものと大差ないようだ。体格も普通というか、むしろやや細めに見えて恐ろしさは感じられない。

 そしてとうとう正面を向いた。子爵の言うとおりの薄い色合いの髪が、顔を縁取って肩の辺りまで垂れている。


 アメリアは息を呑んだ。

 彼女のものよりも淡い、黄金(きん)色の瞳。春の日だまりにたゆたう、淡く優しい光の色だ。


「ようやく会えた、我が妻。私がヴィルフリートだ」


 そして立ち上がり、アメリアに手を差し述べた。

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