王宮へ
ハンナの指導は厳しかった。アメリアは刺繍の経験はあったが、ドレスを仕立てるには縫製の前に身につけるべき技術もたくさんあったし、そもそも刺繍とは道具も針の運びもすべてが違った。
採寸して型紙を起こし、布を裁断する。何度も仮縫いを繰り返し、裾をかがり、刺繍やレースなどの装飾を施す。他にもボタンやフックの取り付け、ボタンの穴かがりなど、覚えることはたくさんあった。そして布地や糸、仕立てる部位によって、気の遠くなるような多くの細かい作業を駆使して縫い上げる。
小物から始め、町の女性が自分の服を仕立てるくらいのレベルなら半年もあれば良かったろうが、ハンナは彼女の満足のゆく出来でないと許さなかった。何度もやり直しを命じられ、普段着のドレスを仕立てるのに一年かかった。
そこからさらに一年弱。アメリアは三枚のドレスを仕立て上げた。むろん舞踏会で着るほどのドレスではない。町の人でも着られる、ちょっと贅沢なドレスというところだ。
ハンナと相談し、ドレスは彼女の知り合いを通じて売ってもらうことにし、アメリアはささやかながら初めて自分の手で稼ぐことも出来た。
「思ったよりも筋がいいし、それに何より良く頑張ったわね」
三枚のドレスが全部売れた時、ハンナが言った。
「工房を構え、貴族の方向けの贅をつくしたドレスを仕立てるには、当然だけどまだまだ足りない。でも、どこか工房が少ない町で……富裕層向けのドレスを個人で請け負って作ることは、出来るかもしれないわ」
「ありがとうございます、先生」
ハンナの言葉に勇気をもらい、アメリアは一層手の込んだドレスに取り掛かった。
そこへ降ってきたのが、「竜の花嫁」の話だった。
数日後、アメリアはハンナのところへ向かった。
「先生、すみません。父から縁談を申し付けられ、もうこちらへ伺うことは出来なくなりました」
アメリアがもうすぐ十八歳になることはハンナも知っている。仕方がないという表情で頷いた。
「まあ、貴族のお嬢様なら仕方のないことですからね。……おめでとうございます、と申し上げて良いのかしら? お相手は?」
アメリアはどうにか笑ってみせた。
「まだお会いしていないので、何とも……。どうやら遠くへ嫁ぐことになりそうです」
貴族の娘の結婚事情にも詳しいハンナは、望まない縁談だと悟ったのだろう。それ以上聞こうとはしなかった。それでも目を潤ませてアメリアに微笑む。
「貴族のご令嬢の中で、お嬢様ほど一生懸命な方を私は存じません。どうぞ最後まで人生を諦めることなく、お幸せに……」
さらにハンナは「何か記念の品を」と、アメリアが今まで使っていた道具をくれようとした。だが、言えないけれど実際は「竜の花嫁」になる自分だ。
「嫁ぎ先に持っていくことを許されるか分からないので、残念ですが……」
そう断るしかなかった。ハンナも理解してくれたが、やはり淋しい。
「先生、本当にありがとうございました」
最後にもう一度礼を言い、アメリアは俯いて邸へ戻っていった。
義父のカレンベルク伯爵の言った「春の祭」とは、王都で雪解けを祝って行われる祭りだった。北の三分の一が雪に閉ざされるバルシュミット王国だが、だいたいこの祭りの時期を境に国中全ての街道が通行可能になり、北の町へも旅行が出来るようになるとされている。
去年はアメリアも邸を抜け出して、ラウラと祭りを楽しんだものだった。だが今年はおそらくその日が、アメリアの出発する日になるのだろう。祭りはもう一月後に迫っていた。
「準備をしておくように」と言われても、もし噂通りに生贄となるのなら、何も準備など要りはしない。むしろこれは「思い残すことのないように後始末を」という意味なのか。それとも何か、特別な準備でも要るのだろうか。どこか麻痺したような変に落ち着いた心持ちで、アメリアはまもなく離れる部屋を眺めるのだった。
数日後、アメリアは義父カレンベルク伯爵に呼ばれた。案内されたのは来客を迎えるサロンで、伯爵の他に、王宮の使いだという男が待っていた。
「貴女がカレンベルク伯爵令嬢アメリア殿か」
義父よりいくつか若そうな、有能な官吏といった雰囲気のその男は、ギュンター子爵とだけ名乗った。だが義父の態度から見て、王宮ではそれなりの地位にいる人物だと思われる。
「すでに伯爵から聞かれたことと思うが、貴女は『竜の花嫁』と決まった」
「はい、聞いております」
アメリアの声が平静だったからか、ギュンター子爵は少し意外そうな顔をした。
「では、明日の午後、伯爵とともに王宮へいらしてください。今回の事について知っておいていただくべきことがありますので」
「はい」
すると横から、カレンベルク伯爵が口を挟んだ。
「子爵殿、ここで仰っていただくわけにはいかないのか」
ギュンター子爵は横目で伯爵を見た。その様子で、子爵は義父を快く思っていないのだと察したが、もちろんアメリアは何も言わない。
「伯爵殿、ことは王家の秘事に関わることなのです。いくら信頼の篤い伯爵殿とはいえ、王宮以外の場所において口に出すことは禁じられておりますので」
お世辞にくるんだ嫌味に気づいたのは、どうやらアメリアだけだったようだ。
「なるほど、それは当然ですな。では明日、娘を連れてお伺いいたしましょう」
カレンベルク伯爵は軽薄な笑みを浮かべて頷いた。
「よいかアメリア、決して余計な口を挟むのではないぞ。すべて私に任せ、おまえは頷いていればよいのだ」
翌日、王宮へ向かう馬車の中で、カレンベルク伯爵は何度もアメリアに念を押していた。
「はい、お義父様」
アメリアはひたすら従順に、というよりは機械的に返事を繰り返していた。実際、この父の横にいて口など挟める訳がない。
――昨日のギュンター子爵様は、義父より一枚も二枚も上手のようだったけど。
それより、今日はどんなことを聞かされるのだろう。やはり私は、生贄になるのかしら。目の前に迫る王宮の姿に、アメリアの心臓は次第に鼓動を速めていった。
まだ社交界に出ていなかったアメリアは、王宮に入るのは初めてだった。緊張しながらも、失礼にならぬよう辺りを見回していると、回廊の奥からギュンター子爵が足早にやってきた。
「よく来られた、アメリア殿」
子爵は義父でなくアメリアにそう言うと、向き直って伯爵に言った。
「伯爵殿にはまず陛下よりお言葉を賜るそうです。案内させますのでそちらへ」
とたんにぱっと喜色をうかべた伯爵は、それでも不審そうに聞いた。
「ですが子爵殿、娘はいまだ宮廷作法も知りませんので……」
「おや? たしか伯爵殿は『娘こそ教養も作法も相応しい』と推されたのではなかったですか」
ぐっと詰まった伯爵を案内人に任せ、子爵は振り返って言った。
「ではアメリア殿、こちらへ」
義父はそれでもアメリアをひと睨みしてから案内されて行った。最後の釘を刺したつもりらしい。
ギュンター子爵は何も言わず、さっさと反対の方へ歩き出した。仕方なくアメリアも黙ってついて行く。
通された部屋は意外にも、女性らしい装飾が施された居心地の良さそうな部屋だった。
「こちらでお待ちを」
子爵はアメリアに椅子をすすめ、いったん部屋を出て行った。
うっとりするほど美しく心地よい部屋だが、初めての王宮で座ってなどいられない。すすめられた椅子の後ろで立ったまま、調度品を見るともなく眺めていると、再びドアが開いて子爵がひとりの年配の女性を連れて戻って来た。
「かけなさいと言ったはずですが」
言いながら向かいに腰を下ろすと、その女性も隣に座った。
「アメリア殿、これは私の母で、長く王宮の奥勤めをしていました。今は役を退いていますが、『竜の花嫁』の件に関してはこの人が一番よく知っているのです」
アメリアが挨拶をすると、女性は声を出さず微笑んだ。その瞳は明るい黄緑色。
「お気づきになりましたか。この人の父親は、四代前の国王です」
驚きに言葉が出ないでいると、ギュンター子爵は苦笑気味に言った。
「長い話をお聞かせすることになります。ああ、貴女の義父君は、この後、先に帰っていただきます。あの方がいたのでは、話になりませんからね」
それから表情を改めて続けた。
「ですから貴女も、何でも質問し、腹蔵なく話してください。その代わり――」
真正面から見据えられ、アメリアは思わず姿勢を正す。
「ここからは、正に王家の秘事になります。ご家族にも話してはなりません」
「はい、誓って他言は致しません」
まっすぐに視線を受け止め、きっぱりと答えたアメリアに、子爵は驚きと称賛の混じった視線を向けた。
「実にしっかりした方だ。――いや失礼。……ではまず、貴女は『竜の花嫁』について、何をご存じか」
「いいえ、何も」
ここまで慎重に守られる秘密。ここまで気をつかうのは、何のためなのだろうか。アメリアは声が震えそうになるのをやっと堪え、尋ねた。
「お教え下さい、子爵様。私は噂で聞くように、生贄になるのでしょうか?」